二百三十、長野工藤家の伺候
東美濃をめぐる姉小路家と甲斐武田家の戦いである美濃の陣、その前半部分は和睦という形で幕を閉じた。東美濃は姉小路家の領するところとなったが、甲斐武田家との抗争は雪解けを合図に再開されることが予測されていた。
この報告を受けた草太は、抑えの兵を置いて残りの兵として一鍬衆五千、中筒隊二千を残し、残留部隊は稲葉良通に任せ、残りを引き上げさせた。春までは戦がないということは、逆に言えば春までは内政の、槍も鉄砲も使わない戦いが始まることを意味していた。積雪下での行動は姉小路家には豊富な経験があるとはいえ、大量の物資の輸送という問題はやはり問題であった。
一方、草太は北伊勢の動向に注意しつつ、三好家の動向について注意深く探っていた。
姉小路家日誌天文二十四年長月晦日(1555年10月15日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、長野工藤家の長野藤定に観音寺城にて謁見を許し候。長野藤定、兵を借りて北伊勢に覇を唱えんと申し候が、公、不興也。(略)伊勢北畠家の分家衆への調略も進めることを決し候」
伊勢北畠家との抗争の結果、この時点では既に長野工藤家は死に体であったとされる。そのため、巻き返しのために強力な外部からの援軍を必要としており、それが姉小路家であったというのは間違いのない見方であろう。というよりも、既に周辺に伊勢北畠家に対抗できる戦国大名が姉小路家以外にはなかったのであろう。尾張織田家はまだ国内の整理に忙しく、また駿河今川家とのにらみ合いに力を注ぐ必要があったため、余力はなかったであろうし、六角家は伊勢北畠家の同盟相手であった。美濃斎藤家は既に崩壊して姉小路家に下った後であり、残るは姉小路家だけしかなかったのであろう。
問題は、珍しく草太の不興を買ったとの記述があることである。何が不興を買ったのか定かではないが、草太の不興を買うのは珍しいことである。
長月晦日(10月15日)姉小路家は客を迎えていた。客というのは長野工藤家の当主、長野藤定であった。招聘が決まってから十日で観音寺城に到着したところを見ると、既に興仙による下工作が済んでいたことを意味していた。
伊勢北畠家が目下として敵である、というのははっきりとしていた。鈎の陣と呼ばれる攪乱作戦に出ている六角家に兵糧その他の物資をはじめ資金などを提供しているのは伊勢北畠家であることは明らかであった。間接的には長嶋城を根拠地とする一向宗もその一つであろうと考えられたが、直接かつ恒常的に提供しているのは伊勢北畠家であった。つまり敵の味方は敵、ということであった。明確な方針なしに外交をするのは危険なことであったが、長野工藤家への肩入れは伊勢北畠家への牽制ともなるため、同盟するか従属させるか臣従させるか乗っ取るか、いずれにせよ弓矢を用いない戦いの一手であった。
ただ草太には、興仙の下工作がどのような意図で行われたのかが分からなかった。興仙は自らの目的に沿って動いていた。室町幕府、足利将軍家の権威化であった。草太は鎌倉幕府における執権と将軍の関係を目指しているのか、と想像したが、実際のところは当て推量でしかなかった。それよりも目下の課題は長野工藤家の扱いであった。単純に従属関係を強いる、ということは簡単であったが、本当にそれでよいのか、草太には未だ確信が持てなかった。特に興仙の言った策であれば長野工藤家を乗っ取ることになるのだが、それを是とすることが何を意味するのか、容易には掴みかねた。確かに血は流れないかもしれないが、これも一つの戦の形であろうと思われた。
長野藤定は、簡単な男であった。確かに戦については歴戦の勇士であったが、それだけの男であった。政治のことはわからず内政は分家筋の分部光高に任せきりであり、今回の観音寺城への伺候も分部光高の意向であると同時に、養子を受け入れて強大な姉小路家の一門衆に連なるものとなればその力によって伊勢北畠家を打倒することも十分に考えられると説かれて観音寺城に詣でたのであった。それでも家督を姉小路家から養子を受け入れて引き渡すというのはやはり重大な問題であった。
だが饗応を受けて心を許し、その重大な問題を軽く了承したところを見ると、長野藤定はやはり簡単な男であったといえるだろう。もっとも、実子が娘一人だけであったため、分家筋かどこかから養子を受ける必要があったから、そのもらう元が分家筋という下位の者から天下人に近い強国の一門という上位の者に変わっただけ、とみることもできた。そして大国の一門衆に連なる地位に就くならば伊勢一国位は貰うのが当然、という考えであった。
長野藤定が伊勢支配のことを言うと、草太は一言で言った。そういうことは足利将軍家の差配にて、我らの自由にはなり申さず、と。
姉小路家の饗応役は小笠原長時であった。もちろん饗応をするだけではなく、その人となりを観察し報告することも役割には含まれていた。その小笠原長時は言った。
「報告いたします、長野藤定殿は礼法を知らぬのは仕方ないのかもしれませんが、傲岸不遜、戦場ではあれでもよいのかもしれませんが平時では厄介な御仁になると思われます」
そうか、と草太が言うと、さもありなんという顔で服部保長が言った。
「調べておりますが伊勢北畠家に押し込まれ負けが込んでいるのにああいう態度を崩さないというのは、いやはや虚勢なのか立派としか言いようがございませんな。領内でもあまり評判は芳しくないようでございます。二つの分家、細野、分部の二家が支えているからこそまだもっているようなものでございます」
「領民の評判はどうか」
草太の問いに服部保長は答えた。
「戦はそれなり、それ以外はまず平均以下かと。……御屋形様は如何に見ましたか」
草太はあまり言うべきことではないように思ったが、姉小路家の中枢を担う者しかここにはおらず、また周辺には人払いも済んでいることから言った。
「そうだな。自分の立場も弁えない、武辺と粗暴を取り違えたものと見た。このまま放っておいても、遠からず滅ぶ、そういう御仁だろう。ここまで伊勢北畠家とやりあってまだ立場があるのは分部、細野の二家の力、それから単純な武勇のおかげであろうが……」
小笠原長時は言った。
「そういえばあの件は本当に断ってよろしかったのでございますか。……寝所に遊び女を、という要請でございますが」
草太は少し不快な表情を見せたが、すぐにおさめて言った。
「観音寺城下の寺社にそのような女性は入れるわけにいかぬ、そう言って置けばよかろう」
草太は不興が収まらないのか、続けて言った。
「全体にあの男は、強欲すぎる。欲があるのが悪いとは言わぬが、伊勢一国の支配を、それも自力での支配ができないから姉小路家が切り取りを行って引き渡せなど、何を考えているのか強欲に過ぎる。……ところで領内の締りはどうなっているのだ」
服部保長は抜かりなく調べていた。
「よく治めていられる、というのが実情でございましょう。領民にはかなりの不満がたまっております。また領内には一向宗の門徒が多く、いつ願証寺を中心に一向一揆が起こってもおかしくありません。近江で荒らしまわった一向門徒が逃げ延びた先の一つは北伊勢であり、願証寺が保護しているとの情報があります。一向宗が我らとの対立姿勢を深めている今、下手に我が陣営に加えると一向門徒の蜂起という結果を生むやもしれませぬ」
草太の知識には長島の合戦があった。織田家、一向宗門徒の双方に多大なる損害を出したこの戦いを、草太はできれば回避したいと考えていた。
「一向宗の切り崩しはできないか、顕誓殿と相談するべきだな」
「同じ伊勢に本拠をもちます故、真宗高田派の堯慧殿にも話を通すほうがよいかと」
弥次郎兵衛が言った。確かに目の前で他派への改宗を促すとあれば話は通しておくべきであった。ならば、と草太は言った。
「一向宗については石山本願寺の影響力さえ除けばよかろう。あとは長野工藤家の分家筋を取り込むべきだな。この工作は服部保長、任せる」
はは、と服部保長が頭を下げた。
別室では滝川一益が分部光高と話をしていた。この二人は初対面ではなく、滝川一益が放蕩生活を送っていた時期に甲賀滝川家から追放同然に追い出されたとき、一時食客として身を寄せていたことがあった。また今回の長野藤定の招聘について姉小路家側の窓口になったのは滝川一益であった。滝川一益がいった。
「本当に長野工藤家を継ぐつもりは……」
「くどいですな。念押ししたい心はわからぬでもないですが、某でも細野藤光でも伊勢北畠家の攻勢は凌げませんな。もって精々数年。ならば子を長野工藤家に入れて生贄にするよりも寄らば大樹とするほうが妥当でございましょう」
こういう言葉に続けて分部光高はきっぱりと言った。
「某も分家の当主でなければとっくに退散しております。あの長野藤定殿は、本家の当主であり戦もそれなりに上手でございますが、それだけでございます。この戦国の世を泳ぎ渡るには心許ございません」
そう言って深々と頭を下げて言った。
「興仙和尚の導きにより、かような仕儀になりました。おそらくは当家を梃子に伊勢北畠家の討伐をお考えなのでございましょう。我らは道案内でも軍役でもなんでも仕りましょう。どうぞよろしくお願い致します」
滝川一益は、なんでも、という言葉にふと引っかかっていった。
「それは実力での家督相続も含むのか」
無論、という顔で分部光高は頷いた。
そして後藤泰治、名を改めて長野泰治が長野工藤家の養嗣子として長野工藤家に入ったのは、それから半月後のことであった。




