二百二十九、続、苗木城の和睦
苗木城を巡る姉小路家と甲斐武田家の抗争はひとまず終結した。冬を目の前に武田信玄は苗木城に入り大軍を擁して美濃攻略を進めるつもりであった。事前に高峰山に入っていた甲斐武田家の精鋭は苗木城に入ることが出来、また浅間山の陣の奪取を含めて戦術的には勝利であった。だが、後方よりのいわば後詰ともいえる兵との合流を姉小路軍は許さず、また輜重隊の苗木城入りにも失敗したため、苗木城の兵糧その他の物資は極端に少なくなっていた。流石に甲斐武田家の精兵も、持ち込める兵糧その他の物資には限界があった。そのため武田信玄は苗木城の放棄を決め、姉小路家と一旦の和睦を望み、軍使を出した。
美濃風土記にこうある。
「甲斐武田家の軍勢、苗木城に入るも冬を前に不利を悟りたるや、即ち和して去りし。美濃遠山家は東美濃の領土をすべて失い(略)」
甲斐武田家の軍勢は、特に武田信玄が冬により本国へ戻れなくなることを危惧していたのは事実であろうが、それ以上に輜重隊の苗木城入りが失敗したことによる兵糧不足が大きな要因を占めていたというのが今日の定説である。この時の和睦の際に、姉小路家に捕らえられていた秋山虎繁と遠山景行の首が引き渡されたという記述がこの次にあるが他書には見えない。甲陽軍鑑などでは秋山虎繁はこの直後に伊那谷南部を担当しての活動を開始したことから、何らかの誤りがあるのかもしれない。また遠山景行については遠山景任が御伽衆として甲斐に同行した後名前が見えないところを見るとここで討死していたかもしれない。
時は少し遡る。甲斐武田家の軍勢が深沢の陣に迫り、斎藤義龍が手勢を率いて救援したその夜である。武田信玄は苗木城の一室で酒も飲まずに馬場信春、山本勘助と軍議をしていた。馬場信春が口を開いた。
「籠城するにはとにかく兵糧が足りません。残りは数日分、というところでございます。輜重隊をもう一度呼び寄せるなら川を渡って東、馬籠峠からここまでの道中の安全を図らねばなりません。一方深沢に張られた陣を落とせば、細作の調べによれば敵方の兵糧物資を奪うことができるはずでございます。某としてはいずれか、あるいは両方への攻勢をかけることが望ましいと考えます」
これは、武田信玄の容れるところではなかった。平地で、敵の目前で落合川を渡って攻撃を仕掛ける、しかも堅陣が既に敷かれている落合を奪取するというのは、いかにも危険であった。たしかに馬場信春の言う通り攻撃を仕掛け勝利出来るなら、輜重隊を呼び寄せ美濃を東から西へと攻めのぼることも、不可能ではなかった。だが現実に照らした場合にはあまりにも危険すぎた。姉小路軍の強さは侮り難いものがあり、高峰山では勝ったといえども入念な戦場の選定、罠の敷設などを行った上での戦いであった。それを抜きにして単純な突撃では、武田信玄といえども勝てるという見込みは確信には程遠く、おそらくは勝てぬであろうという見込みばかりが先に立った。雨天をついての突撃、乱戦に持ち込めばまだ見込みはあったが、今回は騎馬を置いてきたという関係上、突撃の突破力は低くなっていた。といって大幅に不足している馬をかき集めた農耕馬中心の馬に騎乗して突撃せよとは言えず、また空模様も当分はにわか雨程度の雨が降る以上は見込めない様子であった。また渡河をする必要があったが姉小路家が警戒していないはずはなかった。となれば深沢に張られた陣を攻撃する一手も考えられたが、勝ちに乗じての戦いであっても結局は落とせなかったことからもおそらくは落とすとなれば大幅な被害を覚悟しなければならないものと思われた。
なによりも武田信玄には、確かに一旦は手打ちをしたとはいえ背後には越後上杉家の動向があり、また長期間国元を離れていると相模北条、駿府今川両家が同盟を侵して攻め寄せないとも限らず、更に国人衆の動向も気になるところであった。
この武田信玄の思考を読んで山本勘助は言った。
「ふむ、御屋形様は戦いを避けたいと考えておられる様子。ならば和睦して退去いたしましょう。苗木城をくれてやるのみならず、いま姉小路家が支配している落合をあきらめれば飲むでしょう。更には今回の出兵で失うのは遠山家の支配地のみでございます。ならばわれらがここにきている時点で名目は立つかと」
和睦か、と馬場信春は気色ばった。今までの苗木城での戦いを無にする行為であったためであった。
武田信玄は言った。
「今日の戦を見るに深沢、あそこの陣を落とし物資を得ることができれば苗木城で冬を越すことも可能かもしれぬ。が、可能かもしれないのは事実だがそれ以上にはならぬだろう。なにより中信濃、下信濃の国人種がまたぞろ暴れだしてもつまらぬ。年が改まり雪が解けたら雌雄を決する、そのつもりで今は下工作の時期ぞ。おそらく姉小路家は近在から集められた農民兵を帰農させようとするだろう。それに細作を紛れ込ませよ。地侍庄屋衆には渡りをつけておけ。必要となれば一働きしてもらおう」
そしてその夜は馬場信春が全権をもって軍使として姉小路家の陣に赴く、ということとなり、細部を詰めた。
翌朝早朝、山本勘助が武田信玄の寝所に飛び込んできた。
「なに、秋山虎繁が行方不明、だと」
武田信玄は思わず声を上げた。討ち死にをしたかどうかはわからないが、落合の陣を攻めた後、北方の坂下に入ったところで渡辺前綱隊と衝突し壊滅した、というところまではわかっていた。だがそれ以後妻籠城にも入っておらず、姉小路家に手取りになったか、討死したかと躍起になって探しているとのことであった。
もし坂下で何らかの原因で動けなくなっていたとすれば、姉小路家の作法なのか戦場の兵を敵味方なく治療しているため、姉小路家の手に落ちていることは十分にありうる話であった。武田信玄は一旦秋山虎繁の行方を捜すために軍使を留めた。特に姉小路家に捕らえられているのであれば、何としても解放させる必要がある、それだけの良将であった。何よりも、ここで見捨てるような真似をすれば、秋山虎繁ほどの武将であっても見捨てるのかという評判となり、今後の甲斐武田家の運営に非常に大きな影を落とすことになりかねなかった。
同日、深沢の陣に戻った渡辺前綱は住民の代表とされる人物と会っていた。服装から住民といっても定住している者ではなく山野を駆け巡る山の民の一派と目された。型通りの挨拶がすんなりとできたところを見ると、それなりに教養もあるものに違いなかった。その代表はこともなげに言った。
「このたびの合戦、その甲斐武田家の将秋山虎繁を捕縛し、またこの辺りを治める遠山景行の首を持参いたしました」
これには渡辺前綱以下の一同が、な、と目を見開いた。だが驚いたのは一瞬で、渡辺前綱はさすがに立ち直りが早かった。
「それは重畳、と言いたいところではあるがな、なぜ遠山景行は首なのだ。そなたらの領主ではないのか」
「我らにとっては元の領主、でございます。我らは十年程前までは農地を持つ地侍以下の領民でございましたが、度重なる重税に耐えかねて逃散致したものの故郷からは離れがたく、山に隠れ里を作って暮らしている者にございます。遠山景行殿には某も少し含むところがございました。それゆえに、首にいたしました。されど秋山虎繁殿は含むところがなく、手取りといたしました……なに、戦の趨勢から妻籠城に落ちるところを待ち伏せたまでにございます」
渡辺前綱はこの発言を聞いて、傍らにいた竹中重治を見た。これほどの人物が美濃にいる、ということであれば竹中重治は知っていても不思議はなかったためであった。だが竹中重治はその視線を別の意味に捉えていった。
「渡辺前綱殿、ここは受け入れて厚く恩賞を与えるのがよいかと」
渡辺前綱はそうではないという気になったが、それはそれとして住民の代表に向かって言った。
「そなた、名は。某に仕える気はないか。あるいは姉小路家に」
だが返事はつれなかった。
「某の名は恥ある身にて、ご勘弁願います。仕官の儀も平にご容赦を。ただ今の隠れ里を正式に認めてもらうことができればありがたく存じます。また冬に向かいますゆえ食料をはじめとした物資をいただければありがたく」
「ならば後程、村の位置や必要な物資を申し出るがいい。また必要があれば道も開こう」
そうして必要な話を済ませると下がらせ、左右のものに言った。
「秋山虎繁殿は丁重に扱え。そうだな、甲斐武田家の末端の兵に姉小路家に秋山虎繁殿は捕らえられている、と行商人を通してでも囁かせよ。隠し札にしても仕方があるまい。急がねば、甲斐武田家の兵が餓える。餓兵は短期的には思わぬ強さを出すことがある。それを頼りに突撃でもされれば、こちらの被害が馬鹿にならぬ」
末端の、というのが気にかかったのか、後になってから木田八郎は竹中重治に尋ねると竹中重治は簡単に返した。
「末端であっても甲斐武田家の力であれば武田晴信ら中枢に知れるのは時間の問題にございます。それよりも多くの兵が知ることによりこの情報を握りつぶすことができぬようにした、という意味があります。これで秋山虎繁殿を切り捨てるようであれば甲斐武田家は求心力を失う危険性がありますから、武田晴信もこの手は取れません。ならば精々、こちらも値を釣り上げるために使うのがよかろうと存じます」
甲斐武田家上層部が秋山虎繁の消息について掴んだのは夕刻のことであった。確かめるまでもなく姉小路家の陣中に秋山虎繁が捕らえられているとの前提のもと、交渉についての謀議が行われた。もちろん、姉小路家が秋山虎繁を捕らえていない場合も想定しての交渉内容の練り直しであった。交渉が決裂した場合には一戦に及ぶことについても確認された。もちろん、その場合には高峰山から坂下へ、そして妻籠城へいたる道を辿ることとされ、敵に打撃を与えるのではなく味方に被害が出ぬようにという方策を優先させることとされた。
そして長月二十七日(10月12日)となった。馬場信春は朝から白装束の上に麻の裃をつけ、日傘を差させ白扇を高々と掲げさせて小物二人を従者として深沢の陣へ向かっていった。もちろん遠目にこのことは明らかであり、渡辺前綱は丁重にお連れするように木田八郎に特に命じて奥へ入った。奥には斎藤義龍が待っていた。国人衆としては異例であったが、一門衆としては列する権利は十分にあり、また多数の捕虜を預かっているという事情も手伝ってこの場にあった。
その斎藤義龍が言った。
「どうなさるおつもりですか。おそらくは遠山領の大部分でこの場は手打ち、としたところで、春にはそのような約束は忘れ果てたように攻め寄せましょう。いっそのこと将兵の命を助ける代わりに武田晴信の首を要求してもよいのでは」
この言葉を渡辺前綱は一蹴した。
「それを最も嫌うのは御屋形様だ。それに武田晴信の首を取ったところでそれを口実に国内を纏め上げて、他の諸家と和睦をしてこちらに全力を傾けられてもつまらぬ。甲斐武田家は強い。だからこそ、一つの戦場に全力を出させぬようにせねばならぬ。それよりもこの後、苗木城、落合、坂下、こういった遠山家の所領を我らが治めるのだが、そちらに問題はあるか」
ございませんな、と斎藤義龍が言った。
「検地帳は、古いながらも五年程前のものがございますから、甲斐武田家の策として改竄が行われていたとしてもさして問題はなかろうかと」
ならば、と渡辺前綱は方針を確認した。美濃における遠山家の所領、諸城が姉小路家の支配下であると認めるのと引き換えに、甲斐武田家の将兵の退去を許すこと、その際に兵には粥一杯をふるまうこと、捕虜となっている将兵も同様のこと、ただし残りたいもの、この地にて帰農したいものはこの限りではないこと、特に土地の農民兵は帰農を許すこと、などであった。
「兵に粥一杯、というのを譲歩というのが、分からんな」
斎藤義龍が口にした疑問に渡辺前綱は答えた。
「空腹のまま放り出せば何が起こるかわからぬ。腹に物が入っていればそうそう暴発もないものだ。それに兵の顔を見おぼえさせておけば後々役に立つこともある。細作対策などな。何より飯を食わしてくれた相手に向ける槍先は鈍るだろう。鈍りさえすればこちらは楽になる。少なくとも撤退すると見せかけての攻撃に対しては、な」
そして馬場信春が到着し、和睦が無事に結ばれた。だが両者とも、春には戦が再開されると見込んでいた。




