二百二十八、苗木城の和睦
高峰山の戦い、そしてそれに引き続いての落合川の戦いは、戦術的には姉小路軍が多大な被害を出したのに対して、浅間山の陣が陥落、苗木城において甲斐武田家の軍勢の合流を許し、逆に苗木城包囲の要ともいえる深沢の陣が陥落寸前まで追い込まれたという意味では甲斐武田家が優勢に進めていたといってもよかった。
しかし、姉小路家の軍勢は多大な被害を被りつつも甲斐武田家の輜重隊が苗木城に入ることを阻止したことで、結果的には深沢、落合の二つの地の布陣により甲斐武田家の軍勢が、誰よりも武田信玄自らが苗木城に籠城を余儀なくされたのは甲斐武田家にとって大きな失点であった。しかも苗木城にはさして兵糧その他の物資の用意もなかった。もっとも、浅間山の陣は甲斐武田家の軍勢が占拠していたため、その包囲は完全なものではないのは事実であった。そのため甲斐武田家は高峰山、浅間山を通じた細々とした物資輸送をどうにか確保する必要があった。だが冬は目の前に迫っていた。
姉小路家日誌天文二十四年長月二十七日(1555年10月12日)の項にこうある。
「甲斐武田家より軍使有り、曰く、城内の将兵を撤兵し苗木城を引き渡す故和睦すべし、渡辺前綱殿聞きて曰く、(略)苗木城を渡すなら国境を定めるべし、曰く、木曽川ではとは渡辺前綱殿取り合わず、馬籠峠と坂下盆地を姉小路領とすることで合意いたし候」
ここで重要なのは、先に音を上げたのは姉小路家ではなく甲斐武田家の側であるということである。この直前の兵糧その他の物資の運び込みに失敗したとはいえ、この時期には南信濃伊那谷に住む人数からすれば尚一万近い近い軍勢を集めることも出来たはずであった。苗木城の兵と呼応すれば落合の陣を越えられないわけでも木曽川を通じた河川流通の妨害を排除しきれないだろうというのは現代人の考えではあるが、この時武田信玄の選択は一時講和による停戦であり、それも相当に譲歩した内容であったところから、この時の苗木城の兵糧その他の物資が逼迫していた、とするのが通説である。
もっとも堪らないのはこの地を支配していた遠山家である。この時に支配地をほぼ失い、御伽衆として同じ程度の扶持はもらったらしいものの旧領回復はおろか碌な手柄も立てられなかったのか、遠山景任が病死したという記述以降、史料からは姿を消している。不思議なのはこの直前に伊那谷の甲斐武田家に援軍養成のために赴いていたはずの遠山景行も史料から姿を消している点である。あるいは一族揃っての旧領回復工作の果てに散っていったのかもしれない。
長月二十四日(10月9日)の一連の戦の後、姉小路家の軍勢は坂下までを占領していたが、坂下には軍勢に砦を築かせることはしなかった。これは渡辺前綱の考えというよりも竹中重治の一言が効いていた。
「渡辺前綱殿、退路を閉ざすのはやはり悪手、窮兵は意外の力を発すると申します。ここは退路を残し物流の道を細くし和睦の道を向こうがせがむのを待つのが上策かと」
うむ、と頷いたのは一連の戦の後、苦い敗北の味を噛みしめながらの渡辺前綱であった。だがその渡辺前綱に向かって竹中重治は言った。
「何を苦い顔をしていらっしゃいます。我らは勝ったのです。三日もしないうちに和睦の使者が来ましょう、その時に我らは……」
渡辺前綱の脳裏には未だに勝った、などという実感はわかなかった。それよりも高峰山を意気揚々と攻めて多くの兵を失った。士官学校を卒業できるはずの木島大八も失った。その反省の方が強かった。常勝姉小路家の名を汚したというだけではなく、ひと段落して自分のした愚かさに気が付いたためであった。その様子を見た山岡景隆が言った。
「竹中重治殿、貴殿の長広舌はまた後程聞くとしよう。……殿、渡辺前綱殿、殿がその様子では危なっかしくて見ておれませぬ。ひと眠りして、座を改めることに致しましょう」
実際、渡辺前綱は疲れていた。というよりも、敗北感に打ちひしがれていたといっても良かった。物見もほとんど帰らず、それでも自身の率いる一鍬衆と中筒隊の力だけを信じて、というよりも過信して、数千の兵を動かし敗北したことは、分けても武将格の木島大八を失ったことは渡辺前綱に大きな打撃となっていた。全て自身の命で押し切ってやったことが原因である、というのが痛手を大きくしていた。姉小路家一門衆、その力の重さに今更気が付いたかのように、渡辺前綱は打ちひしがれていたのであった。
そこへ山岡景隆が声を掛けた。
「全く、危なっかしい。……一度や二度の敗戦は武将たるものあるべきにございます。百戦百勝など御伽噺の世界にございます。あの木島大八を失ったのは分かります。その遺言通りに動かなかったことも。ですが、そのような危なっかしい殿に、何より自身の兵や将を惜しむ態度には感心いたします」
「何が言いたい。多分、私は今、機嫌が悪い。弔いの杯に血を混ぜるとは作法にはないと思ったがな」
渡辺前綱のつれない言動に、だが山岡景隆が言った。
「某は、与力としてここに、渡辺前綱殿の与力としてここに参りました。ですが申し上げます。正式に渡辺前綱殿の陪臣として頂きますよう、書状を御屋形様、姉小路房綱様に申し上げます」
な、という渡辺前綱に向かって言った。
「これは渡辺前綱という運に縋って生きる我々武将衆の選択にございます。このまま陪臣ではなく与力としてここに生きる道も御座いました。ですが、ここへ至る戦、特に今日の戦で将兵を労る姿を見てやはり我が態度は固まりました。おそらくは青地茂綱も同じ結論になると思います。おそらくは姉小路房綱殿、大殿、御屋形様の思惑通りというのは気にくわぬところではございますが」
渡辺前綱は何が起こったか良く分からずどういう意味かと言った。当然であろう、大敗北した敗軍の将に、今までに単なる与力として従軍していただけの将が陪臣を申し出るなど不思議なことであった。特に姉小路家においては通例として陪臣の分を加味した扶持が下されることもあり、渡辺前綱の加増が自身の宰領であろうが 姉小路家自体の負担は全く変わらなかった。そのため渡辺前綱をはじめとする一門衆の扶持は非常に低く抑えられており、といって不自由のない生活をしてきた渡辺前綱にとって屋敷その他の新設維持費は有り余っていることもあり、経済観念が不足していることもあって、この申し出は受けるに受けられなかった。
「そうは言ってもだな。御屋形様の采配通り、私にはそなたを扶持するほどの力はない。勿論、近江にその人ありと知れた山岡景綱殿が帷幄に参じてくれれば、それはそれで良いことである。であるが、昨日の敗戦で大きく負けた。それは間違いない。竹中重治は川のこちら側での勝利を喚いているがな、正直に言って浅間山に陣を築いて、それで待つべきであった。それでどうなったかは知らないが、少なくとも思惑通り戦い大きな被害を出したの決断下したのはこの渡辺前綱をであった。その責を、渡辺前綱は負う立場にある。それを分かって言っているのか」
これには山岡景綱は少し笑って言った。
「どうせ扶持の元は御屋形様、ですが直属の主は選びたく存じます。……今回、敗北を喫した、それは良いですな」
渡辺前綱は、あの武田信玄の戦いぶりに完全に翻弄された、という意味で確かに敗北したというのは合意した。
「ならば、なぜ負けたか分かりますか」
この質問に、渡辺前綱は長い間答えられなかった。単純に情報量が足りなかった、というのは分かっていた。それでも強行した高峰山の戦いを正当化する理由が見つからなかった。一鍬衆や中筒隊の力に対する過信はかなり最初に思い浮かんだ答えであるが、それを認めてしまうのは自分の能力不足であると認めるようであった。そのため、長い間考え込んだ渡辺前綱の答えはこうであった。
「……多分、全面的に自分にあるのだ。あの時、状況が分からないながらも行けば何とかなる、そう考えた。慢心していた、と言われれば返す言葉もない。三間槍も投げ槍も、鉄砲でさえ平地、平野部を前提にした武器だ。小太刀や手槍の技は他国の精兵と大して違わぬ、そこに地の利がなければ向こうの良いようにされるまでだ。今回のことで身に染みた」
「そこまで分かっているなら話は簡単に存じます。私は渡辺前綱殿を殿とお呼びし、御屋形様を大殿と呼ぶべきことにすることといたします。何より、危なっかしくて見ておれませぬ。が、あの死地からこの程度の被害で生き延びられたことこそ武運のある証拠、また常に前線近くに配属されれば覚えもめでたく手柄も多い事でございましょう。それ故に、です」
山岡景隆は一息入れた。
「某、おそらく青地茂綱も同じ思いでありましょうが、某は殿の陪臣として仕ることに致したく存じます」
渡辺前綱には、何と返事をしていいのかは分からなかった。そのため返事をするのに時間がかかった。そして絞り出した答えはこうであった。
「……書状は、好きにせよ。祐筆に書かせ、花押など何とでもしてやろう。全ては御屋形様次第だ。良いな」
後日、この二人の願いは聞き届けられ、陪臣とはなるが渡辺前綱の四天王として二人は数えられることとなったが、それは後の話である。
「とはいっても殿、現状はどうするつもりでいますか。おそらくは甲斐武田家の精兵、それに武田晴信自らが高峰山から浅間山、そして苗木城に押し込められているという現状でございます。細々とした糧秣は得られましょうが、糧道は断ってございますから大規模な搬入さえ許さなければいずれは死ぬ石、殿なればどういたしますか」
殿にはまだなっていないがな、というのは既に言えなかった。渡辺前綱はこれまで力任せの戦いをしてきたことを反省した。そして陪臣という形であっても有能な武将を囲い込む必要性を感じていた。自身とは別の視点で戦を見ることが出来る、これだけでも陪臣の資格は十分にあった。
「……いつまでも敗北感に囚われてはいかんな。木島大八を失ったことについては、寺社に弔いを任せよ。その上で、だ。おそらくは竹中重治が考えている通りの戦略が最善かと思われる。おそらくは数日以内には結果が出るだろうがな」
山岡景隆は意外に思った。それが分かったのであろう、渡辺前綱は言った。
「浅間山を攻撃しようとすると思ったか。……確かにそれはそれで考えないではなかったがな、おそらくそう簡単には浅間山の陣は取り戻せまいよ。それに追い詰めすぎるのも危険、武田晴信という大物が苗木城で冬を越すなどは考えにくい。苗木城を捨てて突破を試みるとして甲斐に戻ろうとするのであれば、ここで和睦しても同じことだ。ならばより被害の少ない方を選ぶであろう、そう考えた」
そして長月二十七日、馬場信春が正使として軍使が来た。用件は果たして和睦であった。




