二百二十七、落合川の戦い
渡辺前綱率いる姉小路家の軍勢が高峰山を攻めて逆に包囲されて窮地に陥り、一方で甲斐武田家の精鋭を率いた武田信玄の軍勢が苗木城の軍勢と呼応する形で浅間山の陣を挟撃し、更に深沢にある姉小路家の陣を破り物資を収奪せんとしたところ、後方より斎藤義龍が兵を率いての攻撃に手を焼き、武田信玄は深沢攻めを翌日以降とする決定をした次第については既に述べた。既に主戦場は落合川沿いの甲斐武田家の輜重隊が苗木城へ入るか否か、その一点にかかっているといってもよかったのだが、それを正確に認識していたのは竹中重治のみであった。
甲陽軍鑑にこうある。
「遠山家の手引きによる美濃攻め、武田家は勝ちたるも兵糧なく、得るところなくして去。遠山景任、地を失い御伽衆となり(略)」
この美濃攻めはいわゆる美濃の陣における苗木城近辺での戦いを差していると比定されているが、確かに戦術的な面で言えば突出した渡辺前綱隊を散々に破り、浅間山の陣を破り、陥落自体はしなかったものの深沢の陣も相当に圧力をかけたところから甲斐武田家の圧倒的な勝利であったとはいえるのであるが、一方で肝心の輜重隊が苗木城に入ることは出来なかった、という意味では戦略的な敗北であったとされる。逆に言えば、大きな被害を被ったものの苗木城攻めを完遂した姉小路家の戦略的勝利であったというのが今日におけるこの戦いの見方である。
一旦は和睦となったが、姉小路家と甲斐武田家はこの後も大きな合戦こそないもののにらみ合いが続き双方とも軍を貼り付け続け、冬を挟んでの長期間にわたる滞陣は姉小路家にとっても負担が大きかったようであり、妻籠城攻略までに双方とも多大な負担を強いられたこの一連の戦いを総称して、美濃の陣と呼ぶことが一般的である。
姉小路家にとって美濃の陣は多くの捕虜を得た戦いであるだけではなく、第三次川中島の戦いとも絡む戦いであり、姉小路家が上杉家を単なる同盟相手の一つとして以上の存在として認識し始めた、政治的にも大きな転換期を迎えたという意味で歴史的にも大きな意味を持っている、とするのが通説である。とはいえ、第三次川中島の戦いは冬を越した後の話であり、苗木城攻めの後の一時的な和睦、そして積雪が両軍を隔てた期間の物資輸送という兵站が姉小路家にとってのこれまでにない戦いであり、この兵站のノウハウを得たという意味でも美濃の陣は特別な意味を持っている、と近年では考えられている。
ともあれ、高峰山の戦いから引き続いての落合川の戦いの結果により、姉小路家は戦術的には負けたが戦略的には勝利した、といわれている。
稲葉良通は木田八郎と軍議をしていた。議題は当然にして多数の輜重隊を従えた甲斐武田家の軍勢に対する対応であった。主将は馬印から武田信玄自らが、秋山虎繁らを引き連れての出陣ということであった。おそらくは甲斐武田家の精鋭五千も含まれていると考えられていた。甲斐武田家の軍勢の目的ははっきりしていた。苗木城へ兵糧その他の物資の補給をし合流しての美濃攻略、これであった。物資の輸送という意味からすれば、その最有力候補は落合を通る中山道、または木曽川に連結している落合川沿いであると思われた。そこへ使い番が報告に来た。
「報告します、渡辺前綱殿、兵を率いて浅間山に布陣、高峰山にいると思われる敵兵を撃滅するとの事でございます」
使い番の報告に、唖然となったのは木田八郎であった。将は、兵力は、と静かな声で尋ねた稲葉良通は、その点でも木田八郎の一枚も二枚も上にいっていたと言ってよかった。しかし使い番の返答は一切不明、と言うだけであった。この一言に稲葉良通はため息をつき、言った。
「木田八郎殿、落ち着かれよ。……悪いがな、高峰山の戦いは負けるだろうよ。といってあの山を糧秣を積んだ荷車が走れる道はない。牛馬も数頭程度なら別だが、あれだけの輜重隊を通す道はない。ならば高峰山の麓を北周りに巡るか、これも田尻谷までは出られるだろうがその先の道がない。椛ノ湖を回すなら道はあるが、遠すぎる。本命はこの中山道、それからその落合川を使っての筏でも組んでの水運だろうよ。ここ数日の天候と水量からすれば水計があるとは考えにくい。それならば我らのやるべき役割は何も変わらぬ」
そして使い番に大儀であったと声を掛けて下がらせると、再び甲斐武田家の軍勢一万五千を相手にする、その対応について綿密な打ち合わせが再開されたのであった。
一方の甲斐武田家の軍勢の主将は秋山虎繁であった。武田信玄の旗印は立てていたものの本人は一足先に高峰山に出陣しており、影武者として武田信廉が座してはいたが、兵は秋山虎繁の麾下とされていた。というのも一部に中信濃からの兵はいたものの大部分は秋山虎繁の領するところとなる伊那谷からの兵でなっていたためであった。
馬籠峠を越えた直後、秋山虎繁は左右に命じて物見を多数出させた。事前の報告では落合川と木曽川の合流付近に五千程の兵が防衛のための陣を張っているとの事であった。果たして物見の報告でも同じ場所に布陣がされていた。ただ数が六七千程と予想よりも多くなっている様子であった。おそらくは増派されたのであろう、ということはそれだけ高峰山での戦いは容易になっているに違いなかった。
峠から平野部に差し掛かったところで千ほどの兵を纏め、鶴翼に開いた陣形をとらせた秋山虎繁であったが、この隊の動きに特に姉小路軍は対応した動きを見せなかった。姉小路軍からはこの動きは見えていないはずはなく、意図的に動かないのだと考えられた。確かに一万五千の兵のうち千が平野部に出たところで仕掛けるのは、秋山虎繁であってもしないであろうと思われた。順調に兵を平野部に繰り出し、その数が五千を超えたところで姉小路軍の陣内に動きがあるとの報告があった。野戦か、といきり立ったが、結局空堀より出撃してくる姉小路家の兵はなく、肩透かしにあったかのように秋山虎繁は思った。
七千、八千と兵は平野部に展開をしたが姉小路家の兵は空堀の中に閉じこもっているだけであった。一万の兵の後ろは直ぐに輜重隊であり、残り五千は輜重隊とその直掩に充てていた。輜重隊だけを狙うとあれば出撃すればすぐに攻撃範囲に入るため、輜重隊を通すには、姉小路家の陣営は位置が近くなりすぎていた。であった。ならば、と秋山虎繁は覚悟を決めた。
「全部隊、部隊単位で敵陣営を攻撃せよ」
戦は当初、馬籠峠を越えている分だけ兵の疲労は甲斐武田家の軍勢に不利に働いた。駆け足で接近するにしても中筒隊の銃撃の餌食になり、千の部隊が二つ、何もできずに壊滅した。だが数の違いもあり、次第に逆茂木にとりつく兵も出始め、四つめの部隊は逆茂木の一部を破壊することに成功した。五つ目、六つ目と次第に姉小路家の戦線は圧されじりじりと下がっていた。再編成される部隊は二千程度の隊として組みなおすこととなりそうだ、との報告に残りの部隊四つを同時投入すると同時に壊滅した部隊の再編成を急がせていた秋山虎繁に、使い番が報告に来た。武田信玄からの使い番であった。
「御屋形様の命にございます、突破のみに力を注げ、との事でございます」
ご苦労、と一言声を掛け、後方の輜重隊に前進を急がせた。輜重隊は平野部に差し掛かったところであり、陣形を組み始めた。
その時、新たな銃声が南から響いた。木田八郎率いる一鍬衆千、中筒隊五百の千五百の部隊であり、秋山虎繁隊の脇腹を抉るように、そして輜重隊を攻撃するように突撃を開始した。再編成中の部隊は混乱をして系統だった抵抗はできず、既に敵陣に突撃を開始した四千の兵は側面に突如現れた木田八郎隊に十分に対応できなかった。この時木田八郎隊が敵兵の攻撃を優先していたら、竹中重治隊の出番はなかったであろう。だが木田八郎隊は兵よりも輜重隊への攻撃に重きを置いた。正確に言えば最初の数百の輜重隊を攻撃し、その積み荷、荷車等を転がして簡易的な陣を作って輜重隊の通行を妨げ、直掩の兵と交戦を始めた。三間槍を装備した一鍬衆の三人一組の攻撃により障害物に近付くことが出来ず、また中筒隊の攻撃によりじりじりと接近する輜重隊を攻撃していた。
だが陣を攻撃していた二隊が反転して戻り、更に再編成を終えていた数百の兵に背後を突かれる形で木田八郎隊は背腹から挟撃を受けることとなった。いかに一鍬衆の三人一組の攻撃が平地では無類の強さを誇るといっても、流石に挟撃されたうえで二倍に近い兵力差は如何ともしがたく、崩壊するのは時間の問題のように思われた。
竹中重治は隊からほとんど脱落者らしい脱落者もなく落合の陣、その背後に掛けられた船橋の上を急進していた。明らかに落合の陣が攻撃を受けているのが見て取れていたからであった。竹中重治は稲葉良通を発見して言った。
「こちらに援軍に参りました」
渡辺前綱隊のことは聞かずに、稲葉良通は言った。浅間山はどうなったか、と。竹中重治が放棄してきたと答えると、そうかと一言言って続けた。
「あの峠からの出口付近、あそこに木田八郎以下千五百が輜重隊を防ぐべく戦っている。先程こちらに向かってきていた二千ほどが反転したところを見ると挟撃されているはずだ。救出に向かってほしい」
かしこまりました、と竹中重治は兵に魚鱗の陣形をとらせると、敵陣へ突撃すべく命令を下した。
「全隊、突撃してそのまま突破、十五町先の敵陣に再度突撃し友軍と合流する。出撃」
一鍬衆と中筒隊の攻撃で荒れた戦場であったが、秋山虎繁の放った千人部隊で陣を攻撃していた二部隊は、その数を半減させつつも攻撃を繰り返していた。そこへ竹中重治隊が突撃した。両者ともにここまでの疲労もあった。だが竹中重治隊はただ突破するだけを考え馬出から突撃を行った。攻撃する側が突破されるなど考えているわけもなく、また二隊の中央を突く形で、つまり最も兵力が少ない部分を突撃したため竹中重治隊は突破に成功し、そのままの勢いで十町と少しを駆け抜けた。
秋山虎繁隊が木田八郎隊を攻撃している、正にその背後から距離二町から中筒隊の攻撃を仕掛けたが、この距離から二発だけにとどめたのはその向こうに木田八郎隊がいたためであった。思わぬ攻撃に起こった混乱を見逃す竹中重治ではなく、一鍬衆に突撃を命じた。二千以上の兵を擁する秋山虎繁隊は文字通り真っ二つに兵を割られ、竹中重治隊は木田八郎隊との合流に成功した。
竹中重治は木田八郎に近づいて言った。
「輜重隊の方はお任せいたします。秋山虎繁隊はこちらが」
ここに至って輜重隊を率いていた武田信廉は独力で抜くことはおろか秋山虎繁隊の救援もあてにならぬと悟り、兵を繰り出すのを止め馬籠峠へ兵を戻すように指示を出した。幸いにして姉小路家は追撃を行わないようであったため、この退却は無事に、兵糧その他の物資の大半を保持したまま行われた。
一方の秋山虎繁はこのままでは陣も抜けず輜重隊の道も開くことも出来ぬと悟り、兵を纏めて撤退を命じた。撤退できるのは、この期に及んでは北の坂下から木曽川沿いに落ちる道だけであった。姉小路軍はこの方角へも追撃は行わなかったが坂下で一息ついた秋山虎繁隊に待っていたのは高峰山での戦いから撤退に成功した渡辺前綱隊であった。一鍬衆三千、中筒隊千まで兵を減らしてはいたが奇襲に近い攻撃となり、また平野部での正面からの野戦であれば姉小路家の軍勢の方が一枚も二枚も格が上であり、数の上では同等であったとはいえども秋山虎繁隊が支えられるわけもなく、なす術もなく壊滅した。
こうして落合川の戦いは終わりを告げた。高峰山の戦い、落合川の戦いの二戦を通じて多大な被害を出しつつも、姉小路家の軍勢は一部の甲斐武田家の軍勢に苗木城合流を許すも兵糧の搬入だけは阻止したという結果になった。戦術面だけを見ればこの戦は高峰山の戦いは甲斐武田家側の完勝であり、落合川の戦いは姉小路家側の辛勝であった。




