二百二十五、高峰山の戦い
甲斐武田家の本隊は後方にいると見せかけ、その実武田信玄自身精鋭を率いて高峰山へ入っていた次第については既に述べた。美濃の陣での屈指の激戦である高峰山での戦いが、始まろうとしていた。
姉小路家日誌天文二十四年長月二十四日(1555年10月9日)の項にこうある。
「渡辺前綱殿、高峰山にて武田家の本隊と合戦致し候。当初、戦、利不在、即ち一鍬衆敗れ鉄砲不役(略)ただ浅間山に退き兵を纏め武田家の軍勢を食い止め、(略)苗木城への補給は不行、遂に苗木城は開城いたし候。その際、振る舞いとて渡辺前綱殿、粥を兵一人当て一杯進呈し、また遠山景任は切腹を免れたるも(略)」
姉小路家日誌には珍しい、明らかな敗戦、劣勢がここには書かれている。通常、この手の日記には敗戦も何とか勝利として書くか、全く書かないかのいずれかであるとはいえ、である。姉小路家の戦術的な敗北と戦略的な成功、これが現代におけるこの高峰山の戦いの評価である。
ところでこの後遠山景任は甲斐武田家の家臣として過ごし、この後程なくして病死したと言われているが、詳しいことは分かっていない。遠山家の嫡流を名乗るものがいなかったことから何らかの問題があったのかもしれない。
長月二十二日早朝、馬場信春の元に一人の使い番が来ていた。言うまでもなく姉小路家への夜襲、その撤兵の際に紛れ込ませたものであった。その存在自体を遠山景任にも知らせておらず、この意味で密使と言ってよかった。
「既に物資は坂本に届きました。明日にも高峰山に旌旗が立つものと存じます。物資は木曽川を通じて運び入れます故、御仕度のほどを」
ご苦労、と言ってから馬場信春は少し瞑目して考えた。御屋形様のなさり様には何も言うところはなかった。ただ事前の打ち合わせ通りに戦が運んでいる、否、事前の打ち合わせ通り過ぎるという点が問題であった。戦には齟齬があるのが必然でありないのは逆に疑念の元でしかなかった。だが自分の役割は深沢にある姉小路家の陣を動かさずに目を苗木城に向けさせることであり、それについては成功しているようであった。少なくとも浅間山には物見を含む小勢力がいるだけであり、碌に空堀も掘られていないのは確認されていた。
同じころ、渡辺前綱は浅間山に陣を動かすことを企図していた。竹中重治は難しい顔をしていた。今まで通りの二千程度の突撃であれば防衛は可能であったが、全兵力が出た場合には深沢に張った陣は蹂躙される可能性が高いことが一つ、更に浅間山に入った後は南北に敵を抱えることとなるため、挟撃される危険性が常にあることが一つであった。最悪の場合には深沢との連携も断たれ三方向からの包囲殲滅を受ける、とあれば心配になるのも無理はないことであった。だが渡辺前綱は言った。
「浅間山に堅陣を築き甲斐武田家の本隊が苗木城に入るのを阻止する、そのための策だ。武田家の本隊が苗木城の隊と合流し、更に後方の一万五千の兵と合流すれば、我らは大きく後退しなければならない」
しかし危険すぎます、という竹中重治の声は、既に渡辺前綱には届かなかった。浅間山に陣を築き更に高峰山へ攻撃を仕掛けるよう、渡辺前綱は左右に命令をだした。
竹中重治にとってもう一つ気掛かりな点は、大量の兵糧を運ぶためには高峰山への道ではなく北周りに中山道の脇道を行くか、さもなければ中山道、木曽川を利用しての輸送を行うべきことであった。特に中山道へは坂下から落合川沿いに南下すれば地形上の問題はなく、更に水運も使うことで大量の輸送には向いていた。諸城を落とした後の稲葉良通、木田八郎隊を中核とし、増援できた部隊のうち一鍬衆千と中筒隊千が落合にも陣を築いて七千の兵が詰めていた。だが一万五千が突破だけに専念すれば、水運による兵糧その他の突破は可能かもしれない、と考えていた。突破されない様に二重に鎖を繋ぎ大石を川の中に投げ込み杭を打っているものの、相手は武田信玄であり油断はできなかった。
長月二十三日未明にかけて渡辺前綱は青地茂綱に一鍬衆五千を残して後事を託し、浅間山を占拠させた。増派を受けた兵も含め、一鍬衆八千、中筒隊三千が浅間山に移動し、そして夜陰に乗じて陣を張った。陣張りは竹中重治が二十二日の内に密かに行い、南北からの挟撃を受けることを想定しての陣張りであった。とはいえ急ごしらえの陣であり、空堀、土嚢を積んだ土壁はさして多くは設置できず、特に南側は灌木を利用しての逆茂木を結いまわす以上のことは出来なかった。
その夜の軍議に際し、長月二十四日払暁より渡辺前綱は一鍬衆六千、中筒隊二千を率いて高峰山占拠のための兵を起こす、との提案をした。竹中重治は反対したのは当然として、平野神右衛門も反対であった。
「渡辺前綱殿、繋ぎ物見は三連、四連にしてからは帰還していますが高峰山では敵を発見できておりません。しかし通常の物見であれば全て行方不明となっております。これは容易ならぬことでございます」
「何らかの罠があるが兵が多ければ問題ない、ということであろう、三連の繋ぎ物見は無事ならば罠は兵で噛み破ればよかろう。甲斐武田家の本隊を高峰山から追いやれば、木曽川沿いの道を通るのは必定、ならばそこで迎え撃つ。水計の形跡はなかろう。ならば問題はないはずだ」
平野神右衛門の心配はそこではなかった。
「高峰山での戦い、それ自体が問題かと。浅間山を占拠して陣を構えた上は、その上に座れば連携は取れません。急がば回れ、と申します。どうか再考のほどを」
だが渡辺前綱は、こういわれて意固地になった面もあるのであろう、攻撃を仕掛けることを命じた。何より甲斐武田家の本隊の中核となる精鋭、これを撃破することで戦の天秤は大きく傾き、坂下まで戦線を押し上げることも視野に入れることが出来るように思っていた。
鎧袖一触。
勝ち戦が多く続き、特に負け戦もなければ、ともすれば常に自らが兵を率いて出れば多少の不利は跳ね返すことが出来る、そう錯覚してしまうのは歴史的に見ても珍しいことではなく、そうなった場合には大半が敗戦をした。この時の姉小路家の高峰山の戦いもその一つであった。平野神右衛門らの諜報、物見の情報もなく、竹中重治の反対を押し切る形での攻撃で甲斐武田家の本隊の精鋭に勝利できると錯覚してしまったこと、これが渡辺前綱の敗戦の最大の原因であった。
払暁、木島大八という軍学校二期生の率いる一鍬衆五百を先頭に、渡辺前綱は一鍬衆六千、中筒隊二千の兵を出撃させた。
一方の武田信玄は、高峰山の頂上から北東にある木立の中に、簡素な陣を張っていた。朝餉を食べていた時であったが、物見が報告に来た。
「報告します、姉小路家の軍勢、動きましてございます」
ご苦労、といって傍らの山本勘助に、猿の数を報告させた。分かっていることを報告させるときは何かの策を確かめるときである、と山本勘助は良く分かっていた。二十程が既に、というと武田信玄は朝餉の椀を置き、そして兵を配置につかせるように命じた。山本勘助は念のために攻撃をさせるかを尋ねたが、先頭が山の頂上付近か、せめて中腹に来るまでは手出ししないものと決めているのを良く知っていた。
さて、この猿という存在について、少し説明しなければなるまい。人間の目は目の高さには注意の行くものであるが高い樹の上のような場所には注意がいかないものである。短弓、あるいは手裏剣と短刀による攻撃に長けた者たちであり、樹から樹へと飛び移って行動する姿から猿と名付けられた、甲斐武田家でも知る者すら少ない部隊であった。その活動範囲は非常に狭く、特殊な条件がそろって初めてその威力を発揮する、非常に特殊な対物見用の者たちであった。先年行われた飛騨出兵の際、物見が帰らずに戦となり大きな被害を出した反省から、敵の物見に対する部隊として用意したものであり、これが初仕事であった。山本勘助の宰領で統率されているものであった。
高いところから見れば繋ぎ物見であっても二者がいるのは一目瞭然であり、これが繋ぎ物見が悉く討たれた原因であった。同様に三連以上となれば同時に全員を倒すことが出来ぬため、手が出せなかった原因でもあった。
いずれにせよ猿は物見に情報を持ち帰らせないという点については成功していた。
さて木島大八は一鍬衆五百を率い山道を上がっていた。敵兵の影は見えず、ただ山林が続くとあって全員が三間槍を手槍としているか、あるいは小太刀を抜きはらっての行軍であった。本当に甲斐武田家の本隊がいるのであれば、その気配がなかった。空堀一つ発見できず、気配がないのは不気味の一言に尽きた。
山頂近くの開けた場所に出て、木島大八は予定通りに周辺への警戒と同時に土嚢を積んだ簡単な陣張りを行うよう指示を出しまた物見台として梯子を立て、更に後続の渡辺前綱率いる姉小路軍の到着を待った。渡辺前綱率いる一鍬衆五千五百、中筒隊二千は続々とこの陣へと入ってきた。高峰山に敵兵がいるというのは誤報だったか、と渡辺前綱が思い始めた瞬間、山全体から鳴るように太鼓の音が響き鬨の声が響きわたった。
「一鍬衆が外、中筒隊は内側へ、全周囲を警戒せよ。三番の狼煙を上げよ」
流石に渡辺前綱はすぐに取り囲まれていることを、つまりはここまで誘い込まれたことを察した。三番の狼煙というのは渡辺前綱隊に構わずに周辺警戒を厳にし浅間山の陣を絶対に抜かせない様に竹中重治に合図する、そのための狼煙であった。
甲斐武田家の本隊は流石であった。兵が見え隠れしたかと思えば火のついた松明を投げ込まれ、対応する一鍬衆に矢が容赦なく飛んできた。その見えている兵へ中筒を打ち込んでも木々に紛れてさして効果がなく、一鍬衆の一団が突入しても、やはり個の力は甲斐武田家の精兵に軍配が上がるようであり、次々に打ち取られていった。
投げ込まれたのは松明だけではなく油の入った壺も多数投げ込まれた。松明の火に引火して周辺へ炎をまき散らし、特に火薬を使う中筒隊には再装填も難しいものも出始めていた。
「山岡景隆、木島大八、血路を開きこの場は退く」
そう言ったときには、既に周辺の森は火の海に包まれようとしていた。木島大八は、到着後すぐに据えさせた梯子に上って周囲を見回した。どこからか矢が飛んできて二三刺さり、梯子から落ちたのを支えの一鍬衆が受け取ったが虫の息であった。
「南に、旌旗が、ございました。武田晴信、自らが、陣を、攻めている様子に、ございます。血路などとは言わず、背後を、おつき下され」




