表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
草太の立志伝  作者: 昨日の風
第六章 東奔西走編
231/291

二百二十四、山動く

 草太たちが尾張で戦い京で戦い、兵を引いて観音寺城に戻った次第については既に述べた。草太は百合若に泣かれてオロオロした姿を見せていたが、表ではまじめに政務をこなしていた。

 その一方で東美濃の苗木城に対するように陣を敷いた渡辺前綱率いる軍勢は一ヶ月近い滞陣にいら立っていたのは事実であった。次第に力押しでの攻勢を、という声が上がってきていたが、その隙を見逃す武田信玄ではないことは渡辺前綱、竹中重治の共通した見方であった。甲斐武田家の軍勢を引きずり出して叩く、そしてそれにより士気を砕いて遠山景任の降伏を待つ、というのが基本戦略を堅持したのであった。

 この日以前にも数回、馬場信春が姉小路家の敷いた包囲陣を突破すべく苗木城から出陣しては突破できずに撃退されていたが、姉小路家の軍勢が力押しに攻め落としきれるほど兵力が減少したりはしなかった。捕虜は多数出たが、その都度後方に送り出し、解放させないが飢えさせることだけはしない様に、という草太の命令により、斎藤義龍がその捕虜を預かり宰領をしていた。稲葉山城から飛騨までの地域において街道整備などの人手は必要であったため、美濃斎藤家でもこの捕虜は人足としての価値は十分にあった。かかる費用は姉小路家との折半であったが、人を雇うよりも賦役を課すよりも、ただ兵糧を転用した食事を摂らせるだけであったから全体で見れば安上がりであった。

 だが、甲斐武田家は兵を木曽川の流域にある坂下、そこを根拠地に高峰山へと陣を進めたことで事態は大きく変化した。



 姉小路家日誌天文二十四年長月二十日(1555年10月5日)の項にこうある。

「甲斐武田家の本隊、遂に動き候。また深沢への攻勢在り、渡辺前綱殿之を撃退いたし候」

 甲斐武田家の本隊が伊那谷から出陣したのは長月十九日、あるいは二十日のことであったとされている。甲斐武田家側の資料を見ると、輜重隊が多くあり、苗木城への輸送だけではなくそれ以降の美濃攻略も視野に入れたものであったとされている。



 甲斐武田家の本隊一万五千が伊那谷をでたという平野神右衛門からの報告が入ったのは、長月二十日(10月5日)のことであった。兵糧の調達に思いのほか手間取ったのか、支配したばかりの伊那谷の支配体制を固めることに専念したのか、兵の調練を念入りに行ったのか、随分と時間をかけたというのが渡辺前綱の感想であった。多数の物見を出し、甲斐武田家の動きを探るように指示した渡辺前綱であったが、その報告から予想よりも多くの兵糧を運ばせているのが確認された。おそらくは苗木城へ運び入れるものと思われた。苗木城には二万近い兵が籠っており、これに甲斐武田家の本隊一万五千が合流すれば三万五千から四万近い兵士数となると予測された。その数が動くならば、美濃は甲斐武田家の領するところとなるであろうことは明白であった。合流を許さないこと、これが姉小路軍にとっての至上命題となった。


 竹中重治は不思議に思っていた。既に苗木城から出撃し深沢への攻撃という形での小競り合いは数回、いずれも雨の日に行われていた。雨の日であることは問題ではなかった。雨の日である、ということは鉄砲が使えないということであり、渡辺前綱も投げ槍を温存したため空堀と土嚢を積んだ土壁を挟んでの攻防であった。いずれも二千程度の兵が出撃してきては空堀で止められ、最終的には大半が降伏、一部が撤兵して終わりとなるという運びであった。戦略として考えた場合にはこのような小勢力の逐次投入は最悪の手であることは明らかであり、馬場信春がその愚を犯すとは考えられなかった。

 竹中重治は馬場信春の考えが読めず、頭を悩ませていた。そこへこの一報であった。



 苗木城では、この日も甲斐武田家の馬場信春が戦評定をしていた。

「我らの役割は、深沢にある姉小路家の軍勢、これを動かさぬことにある。……時に遠山景任殿、兵と兵糧の残りはどれほどだ」

 分かり切っていることを確認のために聞く辺り、馬場信春は慎重な武将であったといえた。その遠山景任は答えた。

「兵は一万を少し割り込みました。兵糧は、既に三日分程度でございます。……援軍が来て兵糧を運び入れなければ、我らは兵糧なく降伏するしかございません。いつ頃来るのでございますか」

 ふふ、と少し笑って馬場信春が言った。

「すべては御屋形様が決めることよ。御屋形様の戦のなさり様、既に動いておるわ。徐如林しずかなることはやしのごとし、見えぬだろうが既に動いておるよ。ならば遠山景任に命ずる。兵三千で今夜夜襲をかける。支度致せ。将は、儂自身が出る」


 深沢に張られた陣の物見台からは、半里と離れていない苗木城の動きは手に取るように見えた。そのために夜襲の動きも早々に察知し、物見の報告が渡辺前綱に挙げられていた。竹中重治は解せなかった。このように少数の突撃を繰り返して、血路を開いての退却でもなく反応を見るだけの突撃にしては数が多すぎた。しかも今回は晴れていた。夜に雨が降るという気配もなく、夜襲をかけるといっても銃撃の餌食になるのは明らかであった。

 ふと竹中重治は恐ろしいことに気が付いた。非情なようであるが、これは兵を捨てているのだ。多すぎる兵を吐き出し兵糧を長く持たせようとする策である、と思い当たった。支配したばかりの伊那谷の農民兵であり遠山家の兵であった。また捕虜に手厚いのは姉小路軍の習いと既に音に聞こえていた。多少の死者はあろうとも、捨てた兵の大半はそのまま領民に戻すことが出来るはずであった。思い当たったからには対応を考える、というのが竹中重治の存在意義であった。だが、出来るだけ兵を城に戻す、などということは出来そうにもなく、今更捕虜を皆殺しにすることも出来なかった。結局のところ、日々消耗していく兵糧を甲斐武田家の本隊が来るまで持ちこたえさせる、というのが目的であれば、やはり打てる手は甲斐武田家の本隊を苗木城に入れない、というだけのことであった。

 その夜の夜襲は予測通りの展開であった。竹束を抱えた兵が馬場信春隊の最前列を進んでいたが側面に回り込ませていた中筒隊の一斉射撃により大きく隊列が乱れ、そこへ一鍬衆が殺到しての三間槍の攻撃を浴びせ、馬場信春とその馬廻りは苗木城へ退却した。

 負傷した敵兵を医療隊が手当てし、斎藤義龍の手のものが捕虜として千五百ほどの兵を西へと連れ去り終わったのは翌日の夕方であった。夜襲のために引き際を誤ったのであろう、また銃撃による混乱もあったのであろう、死体は六百を数え、二千を超える兵を城外へ押し出した計算になった。



 平野神右衛門の元に奇妙な報告が届けられたのは、その翌日、長月二十二日のことであった。物見が戻らない、というものであった。

「物見が戻らない、とはどういうことだ」

 物見頭は、率直に言った。分かりません、と。

「ここ数日、物見に出した兵の未帰還が増えております。そのうち数名は帰還期限前ではございますが、帰還予定時刻を過ぎても帰還しない物見の者は既に二十となっております」

 物見が戻らない原因は多数あった。逃亡というのが最も穏当であり、既に敵の、甲斐武田家の軍勢が展開しているという可能性も視野にしなければならなかった。

「繋ぎ物見はしているな」

「無論にございます、高峰山、その向こうの坂下に出している物見は全て繋ぎ物見で出してございます」

 繋ぎ物見とは物見の後を別の物見がつけていき、先の物見に何かあった場合にはその顛末を後の物見が報告する、そういう仕組みであった。それが両方とも戻らないということは、既に甲斐武田家の軍勢が展開していると見なければならなかった。報告ご苦労、引き続き物見を出せ、ただし繋ぎ物見は三連、あるいはそれ以上とせよ、と命令を出した平野神右衛門であったが、物見頭が下がった後、一人つぶやいた。

「まずいな」

 平野神右衛門の予想では、既に高峰山には甲斐武田家の軍勢が入っているはずであった。だが物見がそれが入ったことを察知できなかった。更に規模も何も分からなかった。繋ぎ物見が破られたことからすれば、繋ぎ物見の存在を知っていて対応を取ることが出来るほどの練度があると見なければならなかった。繋ぎ物見自体は存在を隠しているわけでもないため知られていても不思議はなかったが、対応は前後の物見の数を見切っての同時攻撃が求められた。それを一度や二度ではなく実行しているということは、甲斐武田家の本隊、その中核が来ていると考える以外にはなかった。

 気付かぬうちに高峰山に数千人規模の精鋭が陣を張っている、という可能性を平野神右衛門は否定できなかった。もしこれだけの兵が入っていて今まで物見に発見されないように、発見された場合には後方の繋ぎも含めて壊滅させられているということは、……いるのは本隊の中の精鋭五千であると考るべきであった。




 一方の高峰山には既に武田信玄が甲斐、中信濃からの精鋭五千を引き連れて陣中に入って碁を打っていた。打っている相手は真田幸隆であった。ぱちり、と武田信玄の一目が置かれ、更に対するように真田幸隆の一目が置かれた。と、武田信玄が口を開いた。

「耳目は封じてあるが、さてどう動く」

「浅間山には兵はさしていない。我らの兵を確認させたあとは、優秀な武将なら浅間山を抑えるのみならず必ずやこの高峰山へ兵を出すものと」

 武田信玄はまた一目を置いてから言った。

「我らと苗木城の合流を嫌う、か。確かにな。ならば浅間山に兵を置かざるを得ず、そうなると背腹に敵を抱える身、必ずや攻め寄せる、か。理に適っておる」

 ありがとうございます、と言いながら真田幸隆の手が一目を置いた。

「このために数千の兵を使っての苗木城から深沢に張られた姉小路家の陣への攻勢をかけさせた甲斐があったというもの、馬場信春殿の功績が大でございます」

「山林では三間槍など使えぬ。奴らの投げ槍も鉄砲も意味がない。だが弓は精兵なら木々の間を通すことも出来る。この五日ばかりで罠も仕掛けた。少人数同士の戦いであれば、我らは引けは取らぬ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ