二十三 飛騨の攻撃的内政評定
興仙が飛騨国府に着いたのは、姉小路家日誌によれば、弥生十七日(4月12日)のことであるという。興仙僧正、僧顕誓、手代衆十余名、花脊衆五名来着す、とある。これだけの人数が堺から一度に移動したのであるから何らかの痕跡を探しているが、いくつかに分かれて入ったのか、それともこの位の集団は珍しくなかったのか、草太と同じく北陸道を使ったのか、それとも美濃回りで入ったのかですら、定かではない。
また、興仙が来着すという記述も、現代の研究者を困惑させている。なぜなら、彼はこの時期鞍馬寺の僧正であり、鞍馬寺を去るまでにはまだ数年あまりあるためである。日誌にはこの後しばらく興仙の名が出ないことからおそらく何らかの勧請をするためであったといわれているが、定かではない。勧請に関する何らかの資料もなく、また鞍馬寺に飛騨から何らかの寄進があったという事実も確認できないためである。
興仙達が飛騨国府は岡前館に到着したのは、日没直前のことであった。手代衆はすぐに弥次郎兵衛が連れて行き、花脊の衆は平伏して畏まってしまってどうしようもないため下男の部屋に移したことは既に述べた。その夜のことである。来着の宴、と言いたいところではあるが、宴というよりも政務をどうするのかの評定が始まっていた。無論、酒はあるが、ほとんど誰も口にしない。精々唇を濡らした程度である。
列席しているのは草太の他、姉小路家一門衆である後藤帯刀、牛丸重近、渡邊筑前守、それから草太の直臣である弥次郎兵衛、平助、客分として興仙の、合計七人である。
とはいえ、一門衆はほとんど陪席しているだけで議論に参加できるだけのものは持っていなかったらしい。元々期待してはいなかったとはいえ、この三人に内政について何か諮るのはあまり意味のないことかもしれぬ、と草太は考えた。そうでなければ、古川富氏追放後すぐにでも何らかの献策をしてきてもおかしくはないため、薄々は感じ取っていたのは事実ではあったが。
この三人を参加させたのには別の理由がある。この評定の内容を漏らすかどうかを知るためだ。もし漏らすようであれば、一門衆であろうとも気を許すわけにはいかない。
幸いなことに、この三人は愚直なだけで評定の内容を漏らすようなまねはしなかったが。
「今までに分かっている飛騨の現状を説明させていただきます」
とは、弥次郎兵衛である。到着からこの方、休む間もなく調べつくしているようである。
「まず、石高でございます。飛騨の国は大きく三つに分けられております。江馬氏の支配する吉城郡九ケ郷、三木氏の支配する益田郡六ケ郷、そして当家が治める大野郡九ケ郷でございます。ただし、大野郡のうち白川郷を内ヶ島氏が、また南方の広瀬城付近の一郷を三木氏に与する広瀬氏が、それぞれ支配しております。そのため現在当家が支配している郷は、大野郡七ケ郷のみにございます。
石高は一万石余りとなっております。五公五民の制が敷かれているとのことでございましたが、年間の年貢は徴発分を除いて四千石程となっております。土地のものに聞くと、六公四民であるとの答えが返ってきておりましたゆえ、おそらくは私曲があったものと思われます。また、検地もざっと抜き取り調査をしたところ、一割ほどは少なく書かれておりました。古い検地の記録をそのまま使っているためか、それとも賄賂を取って検地を低く抑えていたかのいずれかでございましょう。我々としては検地をまずは行うと同時に、広く開墾を行わせることが不可欠であると考えます」
ここで一旦弥次郎兵衛は言葉を止めた。
「問題は、検地を行うとすれば年貢は上がる、ということでございます。一揆に繋がれば、間違いなく我らはもちませぬ。開墾も、それだけの資材を投じるだけの余力は当家には現在ございませぬ。追放した古川富氏の残した金銀兵糧を含めても、当家には蓄えはないに等しい程度でしかありませぬ。例年通りで言えば、徴発を行わなければ今年の年貢まで持つかどうか、というところでございます。それに書物蔵の書籍、美術品とみられる骨董品の類、美酒珍味の類、反物など、売れば銭になるものはございますが、それがいくらになるのかまでは見当が付きかねます故、計算には入れておりませぬが」
草太が口を挟んだ。
「売れるものは売れ。いくら美しい皿でも茶碗でも壺でも、使わずにしまっておくなら邪魔なだけだ。反物も不要、着るものなら充分にある」
「目利きは儂がしようよ。あぁ、顕誓殿も手伝ってもらえるとありがたい。こういうものは良い書画骨董をたくさん見てきた者の目に勝るものはない故にな」
さてどれだけの眼福があるかのぅ、と興仙が楽しげに言った。
「問題は、突き詰めれば簡単じゃ。検地をすれば石高が上がり、その分だけ年貢が上がるから庄屋連中は嫌がるのだろう。また開墾をこちらが費用を負担せずに行わせれば、負担が増える上に年貢が上がるから庄屋連中は嫌がるのだろう」
全員の顔を見ながら興仙は言った。
「ならば、策は簡単じゃ。検地をしたとしても年貢が上がらない、或いは開墾をこちらが費用を負担せずに行わせても負担が増えない、そういう策を取ればよいのじゃ」
一同、苦笑する。高いところにあるものを取るのには、そこまで宙に浮けば良いではないか、と言っているようなものだからだ。
「なに、簡単なことじゃ。……少し考えてみることにしようかの」
無いのか、と一同落胆の色を見せた。草太も落胆しかけたが、その実、策は興仙の頭の中にはあるが焦らしているようにも見えた。
「さて、謎かけじゃ。弥次郎兵衛殿なら分かるじゃろう。商人が今日使って明日帰ってくる、それはなんじゃな」
「銭じゃ」流石に弥次郎兵衛は言下に答えた。多少焦れているのか、言葉が地に戻っている。
「ならば使った銭は何かな」
「費用であり投資じゃ」
「ならば農民の暮らしを見て、先に使うものは何かな」
「種じゃ。それが何倍にも実を結ぶ。……御坊、謎かけをして遊んでいる暇はないのですぞ」
「なに、簡単なことなのじゃがな。策というのはな、今検地を受け入れれば、当分検地をしない、と触れることじゃ」
一同、困惑顔になった。それがどういう意味なのか分からないためだ。だが、草太には思い当ることがあった。
「今検地を受け入れれば当分検地をしない、ならば、これからしばらくは開墾した農地は……」
草太の言葉を引き継いだのは平助であった。
「当然、税がかからない。今日の働きが明日の収入につながる、ですか」
「なるほど、そいつは上手い手だ、と言いたいがね」既に完全に地に戻っている弥次郎兵衛が反論した。
「それは無理だ。何と言っても、今から開墾したってもうすぐ田植えだ。今でさえ生きるか死ぬか、裏作までやってやっとのことで生きている村が多いのに、開発の利があるからといって開発するだけの余力はない」
「ならば、その余力を作れば良いではないか」とこともなげに興仙は言った。
「田は無理かもしれぬがな、蕎麦ならどうだ。稗ならどうだ。米にこだわる必要はあるまい」
確かに蕎麦や稗なら、これから畑を用意しても時間に余裕がある。
一般に蕎麦なら生育期間は70日から90日程度であるため霜が降りるまでに刈ることを考えても8月中ごろまで、稗なら5月中に種をまかなければならない。蕎麦であれば手入れが容易であることや土地がやせていても問題がないこと、稗ならば水田でも畑でも同じように育てることができ冷害にも強いことなど、利点が多い。現代日本では既に冷害に強い品種のコメが栽培されているためほとんど顧みられることもないが、太平洋戦争前後までは東北地方や北海道を中心に栽培がおこなわれていた。ただし、味はコメの方が圧倒的に旨いため、現在では鳥の餌によく使われる他、食用としてみると健康食品として見かけるだけのものになっている。
土地もある。蕎麦の実ならばこれから取り寄せても間に合う。稗ならばその辺りの未開拓の草地に行けばいくらでも手に入る。足りないのは何か。
「人手はどうするのだ。田植えが始まれば開墾をする人手を集めるのは難しかろう」
弥次郎兵衛は問題点を指摘した。確かに利があるにせよ、開墾をするための人手が必要である。通常は秋の取り入れが終わり雪が降るまで、或いは雪解けから田植えが始まるまでの時期に開墾は行うものだ。それは人手の問題があるためだ。
「なに、それも考えておる。考えても見よ、我らは誰と争っておるのだ。三木氏じゃろう。ならば三木氏の領内から出させればよいではないか」
また無理なことを簡単にいう、と一同は思ったが、平助だけは違った。農民の出であったためかもしれない。
「確かに、二男、三男といった部屋住みに土地を与えるといえば、食いつくでしょうな。それも同じ飛騨の国の中で与えるとあれば」
一同、これにはなるほどと感心した。
通常、二男、三男は養子の口でもない限り土地は長男が継ぎ、自分は単なる労働力としか扱われない。結婚もせず、ただ労働力を搾取されるだけ、長男に何かあったときのための予備。その程度の扱いでしかない場合が多い。土地を分けるとどちらの家も食べられなくなるため、こうした制度は飛騨でも行われていた。愚かなことをたわけというのは田を分けるような愚かなことという意味だ、という俗説すらあるほどである。
その二男、三男に土地を与えると誘うとなれば、どうだろうか。家族の反対を押し切ってでも、こちらに来るかもしれない。或いは口減らしのために積極的にこちらに来させるかもしれない。いずれにせよ、充分に人手の確保は可能、と草太は判断した。
「この策の妙味はな、それでその二男、三男に良い生活を、土地を与えて衣食住を与えることじゃ。そして、出来れば雑兵として固定してしまうが良い。つまり合図があればすぐさま足軽に変じて集合するようにな」
「なるほど、屯田の策、でございますか」と草太は感心したように言った。うむ、しかもじゃ、と興仙は続けた。
「三木と事を構えるときはこれが布石として生きる。こちらに着いた方が郷が良いとなれば、郷はこちらにつく。雑兵は農民だからのぅ、郷から雑兵を集められぬとあれば、さぞかし困るじゃろうな。よしんば向こうに着いたとして、こちらに自分の兄弟がいるとなれば、槍先はさぞ鈍るだろうのぅ」
こうして屯田の策を採用することが決定された。興仙は、儂が出来るのは口を出すことだけじゃ、と笑い、草太に頼みがあると言ってきた。
「実はな、こうして飛騨に来たのは、顕誓殿のこともあるがな、それ以外にも用があるのじゃ」
「何でございます、出来ることならなんでも致しますが」
「そういうことを言うのではない。どんな無理難題を言うかも分からんぞ」
何しろ儂じゃからな、と笑って本題に入った。
「とある山師がな、山を掘りたいと言っておるのじゃ。古川富氏の失脚の報を聞いてな、生野の銀山からとりあえず儂のところに来た、というわけじゃ。なにしろ儂には、京には色々と伝手があるからの、その伝手で渡りをつけたい、という訳じゃ」
聞けば古川富氏が治めていた時代から目をつけていた山が飛騨にあるという。一度断られた山師というのがそれだろう、とふと古老の話を思い出した。十数年前から虎視眈々と古川富氏が失脚するのを待っていたというのは、恐るべきものがある。どうしてそんなに早く知れたのか聞くと
「何、山伏や山の民には、彼らなりの網がある、というだけの話じゃ。人の口に戸は立てられん。それだけじゃよ」
大体、四日もあればここから生野銀山に着くという。飛騨から四日、そこから京へ行き、城井弥太郎への手紙の到着と考え合わせれば、美濃、越中、越前、近江、尾張辺りである。精々、ここに三河、大和、紀伊が入る程度か。そんなに近い場所にそんな場所があったかと考え込む草太に、そっと弥次郎兵衛が伝えた。生野銀山は但馬の国、京よりももっと向こうです、と。
渡りに船、とばかりに、草太はその山師と会うことだけは了承した。それ以上は、どのような影響があるのかを聞かなければ話が進まない。
実際、飛騨国府から生野銀山まで直線距離で250km程度である。時速4kmで歩いたとしても一日20時間程度歩けば三日で着く。四日であれば16時間程度歩けば着く。馬に乗ったり川下りや早舟を使えばもっと早いかもしれない。とはいえ、山道と街道で比較するのは難しいが、江戸時代の飛脚で最速の便であれば、東京から京都まで約500kmを四日で着いたというから驚きである。いずれにせよ、超人的な早さであるといわざるを得ない。
彼らは情報は生き物であり鮮度が重要であると知っていた。だから一報もこの早さで伝えられ、受ける側も入ったその瞬間に動き始めたのだろう。
活動報告にも書きましたが、飛騨統一までの間は毎日0時に更新します。
推敲が甘くなる可能性もありますが、その場合はご指摘ください。




