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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第六章 東奔西走編
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二百二十、続々、姉小路の変

 将軍足利義輝が御所に入り、二条御所の足利将軍家の者が双林寺に入った次第については既に述べた。

 姉小路の変、その上京での活動は将軍足利義輝を狙ったものが多く、また多くは二条御所への攻撃であったのに対して、下京での活動の多くは野伏り夜盗の類の暴動であり一般の民が被害にあっていた。そのため、上京での活動の終結は意外に早く、陽が落ちる前に将軍足利義輝が御所に入った後は目的とする相手がいないためかその活動は急速に制圧されていったが、下京における暴動はそう簡単にはいかなかった。小規模な盗賊団の捕縛と民の保護、そして町屋の消火活動も夜を徹して行われていた。

 そして翌日夕、急を知った草太が騎馬隊を率いて上洛した。


 姉小路家日誌天文二十四年長月三日(1555年9月18日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、(略)急を知り馬を引かせ、騎馬隊のみにて上洛され候。また田中弥左衛門兵を整えて後を追い候。公に従う馬廻りに急の知らせに青地城より吉田右衛門隊が従い、八百騎にて御所へ参内いたし候。阿閉貞征、公を見、将軍足利義輝公の無事を知らせるに公、安んじて八百を平野右衛門尉に宰領させ京の治安回復に当たらせ候。また参内し龍顔を拝し宸襟を安んじ候」

 草太が騎馬隊を率いて上洛し、観音寺城から共に下ってきた平野右衛門尉に兵を任せて治安回復に当たらせる頃には、下京も大分落ち着きを取り戻していたらしいことは、複数の文書から知ることのできる事実である。夜半には双林寺に田中弥左衛門隊が入っているが、こちらは双林寺に入っただけで数日後には全員撤兵しているところを見ると、彼らが着いた頃には既にすることが何もなかったのであろう。ただ炊き出し、けが人の治療などに輸送隊、医療隊が大きな働きをしたという記録は残されている。

 長月四日(9月19日)には、怪我人も多く、家屋も損傷がひどかったり焼かれていたり、市も立てられていなかったり人出も少なかったりはしていた。またお救い寺を中心とした炊き出しや治療が行われていた。だが街は静謐を取り戻しつつあったようである。特に下京の下層民には、炊き出しで食事が与えられ、涙金として見舞いの銭がまかれたために一種の焼け太りになるものさえ少なくなかった。次のような落首が残されている。

   斬られても なお暖かい 姉小路 焼かれて落ちた 家も立つかも

 あまり上手ではないが、姉小路通りで多くの民が斬られ町屋が焼かれたことと姉小路家の対応の温かさを掛けた一首である。

 因みにこの件では、それ以前から堺、石山から京にかけての地域での追剥の頭目弥五郎他数名が死罪とされただけでほとんどの者は特に罪に問われなかった。この弥五郎他にしたところで、この件でなくても捕まれば死罪は免れなかったであろうから、直接のこの件での処罰を受けたものはいなかったといってもいいのかもしれない。下京はともかく上京については二条御所を対象とした組織的な攻撃であったため罪に問われたものがいなかったのは、首謀者が誰なのか、誰に罪を問うのかが分からなかったのか、罪を問うことが出来ない相手だったのか、判断が分かれるところである。



 宜秋門前は俄かに騒然となった。多数の騎馬隊が整然と宜秋門へと向かっていたためであった。黄昏時のことであり、それが姉小路家の騎馬隊と分かるまで騎馬隊接近の報を聞いた阿閉貞征は、遂に来るべきものが来たかと覚悟を決めていた。本陣の兵を投入したところで百程度でしかなく、全兵力をもってしても三百でしかないため、低い塀を乗り越えようとしてきた場合には御所を守り切るのは至難であり、その場合には玉体を奉じて落ちることも考えていた。だが接近してきたのが草太率いる姉小路家の兵と分かり、幾分ほっとした表情になった。

「阿閉貞征、ご苦労であった。上様はどうだ」

 は、と阿閉貞征は簡単に情勢を報告した。上京での騒乱は概ね制圧されていたとはいえ、二条御所はまだ賊が占拠しているとされ、まだ双林寺を含めて他所とは連絡つなぎが取れていなかった。もっとも、二十名も一鍬衆を割けば双林寺への連絡は取れたであろうが、それをしなかったのはこの騒ぎの次には御所の制圧であり玉体の奪取である、と阿閉貞征が考えたためであった。おそらくは三好家の兵が来ると読んでいた阿閉貞征は、そのためには一兵であっても手放す余裕はなかった。

 一夜を眠れずに過ごしたが、予想に反して上京での騒乱は収まりつつあった。これを、おそらくは山崎城辺りで三好家の軍勢を防いでいるものと想定しての厳戒態勢を崩さずにいたのは、阿閉貞征の功であったといってもよかった。将軍足利義輝もこの意見に賛成し、だが三好家がこの元凶であると決めつけて行動するのには慎重であった。もし三好家が襲ってくるとすれば、山崎城よりも再建中の填島城が抜かれたものと思われたが、どちらにしても物見はそのような軍勢の集結の報告はなかったはずであった。無論、こちらの物見の報告がないからといって攻撃される可能性がないとは思わなかった。だが足利将軍家は山崎城、填島城跡の両方にそれぞれ四千の兵を置いていたが、これを抜くほどの兵が来たとすれば、阿閉貞征の覚悟も当然のことであった。

 だが来たのは援軍であり、それも草太とその馬廻り、姉小路家の最精鋭と言ってよいつわものであった。


 安心したのは草太も同じであった。草太の読みでは将軍足利義輝が双林寺へ落ちておらず街中にいないとあれば十中八九御所にいると踏んでいた。だが残りとして、覚悟を決めて斬り死にするまで賊を斬り続ける可能性もないわけではなかった。いかに将軍足利義輝が剣豪といえども、また佩刀が鬼丸国綱という伝家の宝刀といえども、賊の太刀を奪ったとしても三十より先は切り抜けるのは無理であろうと踏んでいた。そうと覚悟を決めて踏みとどまって戦うのであれば五十と斬れずに討死する、その可能性を恐れていた。

 以前の退くことを知らぬ足利義輝のままであれば、おそらくは斬り死にするまで踏みとどまるはずであった。だが上洛の直前、近江での最後の夜に手合わせをしたときに退くことを知っていた足利義輝であれば、御所へ退いているはずであった。

 その将軍足利義輝は手傷も負わずにに御所にいた。草太にとってはそれで充分であった。退くことを覚えた、というのは、やはり重要なことであったのだ。

 吉岡憲法が門弟と共に助けたと聞き、あとで礼をせねばと思った。



 一方の三好家がこの騒乱を知ったのは、草太が知ったのとほぼ同時であった。山一つ隔てた京での騒乱についての情報がこれほどに伝わるまでにかかったのは、山崎城が俄かに人改めを強化したために他ならなかった。なぜ強化したのか、もちろん賊が逃げ出したりしない様にであった。山崎城に詰めていた池田隼人は、京での騒乱を知るや否や関を設けて人改めを行い、京の民で罹災したものには炊き出しなどを行い、胡乱なものが出入りするのを防ぐという働きをしていた。そのため、この情報ははるかに巨椋池南岸を経て伝えられた。

 姉小路の変は三好家にとっても寝耳に水であった。誰が何のために行ったのか、三好長慶が想像したのは河内畠山家の手のものであると想像した。周防大内家にいるはずの足利義維か、大和興福寺の一乗院覚慶(足利義昭)か、いずれかを擁立し、足利幕府の命として三好家へ不利な裁定を下させるためのものと思われた。だが河内畠山家の兵が集まっているという報告がないのは解せなかった。秘密裏にそのような準備ができるとすれば石山本願寺位であろうが、それであればこの騒乱の意味が分からなかった。

 そこへ姉小路家の兵が京へ急進したとの報は芥川山城の三好長慶を驚かせるに充分であった。山崎城を攻めるどころか、この当時は姉小路家との戦いに対する力を蓄えるためという意味もあり播磨への出兵を企図し、国元である阿波の国人衆の反乱があって十河一存が阿波に戻っていた。このような状況で、京の騒乱、そしてそれを口実とした姉小路軍の山城での展開は危機感を持つのに充分であった。つまりは自作自演かと見、三好長慶は手勢を集めさせた。



 姉小路家の物見は、杣人や猟師として芥川山城を常に注視していた。だが、京での騒乱が終結した後に兵を集め始めた三好家の行動に、良く分からないものを感じていた。更に河内畠山家の諸城にも兵が集結しておらず奈良も無事であると草太に報告があげられると、草太は即座に理解した。三好家が手勢を集めたのは田中弥左衛門隊が双林寺に到着したためであろう、と。この時点で、草太は三好家の関与はないと判断した。また河内畠山家の手も動いていない様に見えた。

 差し迫った危険がないと判断した草太は、平野右衛門尉に命じて騎馬隊の半ばを下馬させて上京の治安回復に当たらせ、百を残して吉田右衛門隊三百に双林寺、山科、山崎城、填島城との連絡の確保を命じ、更に下京までの治安回復に協力するように命じた。だが既に下京も急速に治安が回復しつつある時期であり、また田中弥左衛門隊がこの命令が出たのと同じ時期に双林寺に入っていたため、吉田右衛門も平野右衛門尉もさして功績はなく、山崎城、填島城、双林寺は吉田右衛門隊が出発した直後に向こうから連絡のための人員が送られてくるほどであった。




 草太は衣冠装束を改めて参内し、将軍足利義輝に別室で拝謁した。既に将軍足利義輝は供回りもおらず一人であり、舎人の一人を朝廷から借りる形をとって召し使っていた。

「良くご無事で」

「そちらもよくこの短時間で」

 一通りの挨拶の後このような会話があり、更に今回の件について話し合った。吉岡憲法の下りが出た時に、将軍足利義輝は言った。

「この場でいっそのこと斬り死にするまで斬り続けようかと、そう考えておった。何しろ既に鬼丸国綱だけしか見方もなく、まだ辻を三つ越えねば御所にはつかぬ、騒ぎがあれば北面の者たちが気が付くやもしれぬと、あてもない期待を持っていたのは確かだがな。だがそこへ丁度良く吉岡憲法が門弟を連れて来てくれた。儂などを助けにな、駆け回っていたらしい。よく考えれば儂が血路を開けたのも、身を捨てて血路を開くのを助けようとしてくれた供回りの者たちの努力も有らばこそ、だ。ならば儂も助かろうとせねばなるまい、と思ったわけだ」


 そして二人は改めて今回の件について検討しようとした。責任者を引責させることはたやすいが、ただの民の一揆ではない、というのは共通した見方ではあったため、何の解決にもなっていなかった。だが黒幕についての情報が決定的に不足していた。誰が、何のために、どのようにしてこの騒乱を起こしたのか、草太にも将軍足利義輝にも皆目見当がつかなかったのだ。

 翌長月四日に、将軍足利義輝は本圀寺を仮御所としてそちらに引き移り、今回の件について改めて検討することとなった。

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