二百十八、姉小路の変
草太の観音寺城への帰還、内政への注力と各戦国大名への参内、将軍足利義輝への拝謁を要請した次第については既に述べた。
草太としては、全てがこれで片が付くとは言わないまでも、かなりの部分の問題が戦ではなく法廷闘争として終わることを望んでいた部分がある。だがそれを望んでいたのは、戦国大名では草太だけであった。領土を巡る争いは、小は個人の畝を動かすところから大は戦国大名同士の戦まで、大きな争いの種であった。
姉小路家日誌天文二十四年長月三日(1555年9月18日)の項にこうある。
「つうさま、男児を出産致候。公、大いに喜びて(略)また臣下一同大いに喜びて祝いの空気に包まれ候処、急報あり(略)」
草太の息子、嫡男として姉小路家を継ぐことを生まれながらに約束されたこの息子の出産は、草太にとって非常に大きな意味を持っていたとされている。姉小路家はこの後、攻めから守りへ、次の代を意識した国造りを促す契機になったというのが通説である。だが実際には畿内平定もこの子が生まれた後であり、四国出征、中国平定など、この後も拡大戦略をとっていたというのが現実である。ただ、姉小路家が足利将軍家を奉じてその下での秩序を作るべく活動していた、というのが事実に近いのであろう。
そしてこの急報が後に言う姉小路の変である。姉小路家が関わっている上姉小路の変という名のためによく誤解されるが、姉小路家が起こした事件ではない。起こった場所が京の姉小路通に差し掛かった一角でのことであり、将軍足利義輝は切り抜けたものの出火し仮御所は全焼に近い被害が出ている事件である。京での本格的な市街戦とあって、史上有名な事件である。ただし、その背後関係ははっきりしない。足利義栄を抑えていた三好、河内畠山家の起こしたものとされることが多いが、その後の活動が鈍いのは理解できない。また大和興福寺には足利義昭がいたが、こちらへの襲撃はおろか平穏無事でしかない。六角家の起こしたものとして考えるのも、それがどのような意味を持つのかわかりかねる。そのため、結局のところどのような政治的理由があったのか分からない、というのが本当のところである。
草太が観音寺城へ戻って三日目、つうが俄かに産気づいたとあって、城内は騒然となった。こういう時のために医師と産婆は手配してあったが、それでも草太が産気づいたという報告を聞き、それ以降の政務に滞りが出たのはある意味では当然のことであった。早々に政務を切り上げて奥へ入ってはみたが何ができる訳でもない、ただおろおろするばかりであり、ひ文字姫にまでこう言われてしまった。
「医師でもあるまいしこういう時は殿方は何もすることがございませぬ。産まれたら知らせます故、表の政務を片付けるべきでございましょう」
邪魔か、と聞くと、ひ文字姫にしては珍しく、邪魔でございます、と言った。
それで表に出てはみたものの書類に目をやっても字が頭に入ってこない、報告を聞いても聞いた内容が何だったか理解できない、たまりかねて平助が声を掛けた。
「御屋形様、こういう時は座禅でもして心を落ち着かせるのが一番でございます。うわの空で何をしても無駄というものでございます」
戦場でもオロオロしたりしない草太を武将衆がみるのはこれが初めてであり、それが面白かったのであろう、後々までの語り草になったのであった。
そこへ弥次郎兵衛が色を成してやってきた。
「大変でございます、将軍足利義輝公、お隠れになりました」
うん、と何を言われても報告がまだ頭に入る状況にない草太に対して平助が一喝した。
「草太、私事は私事、公事は公事ぞ。少しは落ち着かんか。……すまぬが弥次郎兵衛、もう一度報告を」
うむ、と弥次郎兵衛はもう一度、一語一語をはっきりと報告した。
「将軍足利義輝公、京の二条御所手前の姉小路通で襲撃され、出火し、二条御所は全焼、将軍足利義輝公は所在が知れず、お隠れになったと」
草太は目を瞑り、なにやら考えていたようであったが突如言った。
「それで将軍足利義輝公は探したのか」
「現在延暦寺の僧兵が探してございます。北面の者たちとは未だ連絡が取れませぬ。この情報は服部保長の手のものと沖島牛太郎の手のものからのものにて」
首は、と聞くと上げられたとは確認できておりませぬと弥次郎兵衛が返した。すると草太は先ほどまでの取り乱しようを忘れたかのように決然と言った。
「あらん限りの騎馬隊は我と共について参れ。京へ入る。弥次郎兵衛、このことを田中弥左衛門に伝え、一鍬衆五千、中筒隊三千を至急そろえて出陣させよ。我らは京の双林寺に入る。遅くとも夜明けには山科へ入れるように命じよ」
しかし、という弥次郎兵衛に草太は言った。
「私が行かなければ助からぬ、私が行かなければ入れぬ場所がある。生きていれば、そして延暦寺の僧兵が無能でないならば将軍足利義輝公はそこにいるはずだ。兵は残党の処理と対応を見せるためだ。急げ。……平助」
は、と草太に太刀を差し出し自らも師から譲られた福岡一文字を差し、馬ひけぇと大音声を上げた。
姉小路の変が起こったのは天文二十四年長月二日(9月17日)のことであった。将軍足利義輝は僅かの供回りと共に二条御所のすぐ前の姉小路通をお忍びで歩いていた。御所の周りとあって落ち着いてはいたが活気があり、市を立てることを将軍足利義輝が許したため、御池通から姉小路通は公家が屋敷を売り払い商家が立ち並ぶ通りとなっていた。公家は上京の御所近くに屋敷を改めるものが多かったが、一部にはそれまでの借財を返済して下向していくものもあり、やはり下級公家の生活は苦しかったといえた。
将軍足利義輝は公家のために徳政令を出そうかと考えたこともないではなかったが、貸している側に一方的に負担を押し付けるような真似はやはり間違っており、彼らの生計の立つようにするのが政の本来の姿であると草太が言ったこと(事実として姉小路家は一度も徳政令を出していない)もあり、また一条家を窓口にしての姉小路家からの収入の途が見えていることから、結局は求められても徳政令は出さなかった。もっとも、出すのが当然であると考える下級公家の態度が気に入らなかったということもないわけでもなかったが。
だが最低限の手配りは行っており、身売りなどは細川藤孝に命じて可能な限り拾い上げるようにしていたため、二条御所はまだ建築中ではあったが女官に溢れ、口さがない京の民には女漁りの好きな将軍として認識されていた。もっとも将軍足利義輝が彼女らに手を出したことはなく、手がついているのは正式に娶った近衛の方だけであった。未だ剣の道を究めたとは思わず時折吉岡憲法を招いて御所で剣を練っていたが、それよりは政に精を出す日々であった。政に精を出せば民の活気として帰ってくる、その手ごたえが面白かったということもあった。市中の辻々には辻説法を兼ねて天台僧が多く、その大部分が僧兵としての心得のあるものであった。また少々のいざこざや掏摸の類であれば城井弥太郎の手のものが、この当時は弥次郎兵衛の後任として熊太郎という男が取り仕切っていたが、その手のものによって排除されていた。
そこへ騒乱が襲った。
午の刻を知らせる鐘がどこかから鳴った、それが合図であったらしく将軍足利義輝を、あるいは乞食のような、あるいは上等の服装をした、あるいは商人、あるいは香具師を冷やかして歩く武士という風情であったものが一度に太刀を持ち、あるものは手槍を持ち出して十数人が取り囲んだ。のみならず、辻説法をしていた見回り役の僧は不意を討たれて斬られ、混乱を広めるためであろう、道端の町人に切りつける者もいた。将軍足利義輝は咄嗟に太刀を抜き瞬時に二人までを斬ったが、尚十人以上の敵が白刃を以て取り囲んでいた。供回りのものも斬られたのか逸れたのか既に見えず、町屋を盾にとろうにもその町屋に火を放つものもあり、中から白刃をかざして飛び出す者あり、将軍足利義輝もこれまでと思い決めて一条の血路を開いてまずは二条御所へ落ちようと考えた。だが二条御所に火を放ったものがいたのか、周辺の練塀がまだ完成していないこともあって堀を渡って中に入ったのか手引きした者があるのか、中から火の手が上がった。
そこへ救いの一団、現れるのは講談の話だけであろう、誰も現れず、ただ将軍足利義輝は二条御所には細川藤孝がいるはずであることを思い、彼が御所内で働いている限りはこれほどの火の手など上がらぬと考えた。ということは早くも二条御所を落ち延びたものと考えられたため、将軍足利義輝は太刀を納めて駆けた。周辺の民が或いは斬られ、或いは泣き叫んでいるのに何もできない自分を恥じながらも、将軍足利義輝は逃げた。賊から奪った太刀を使い、また手槍を奪って使い、生き延びること、落ちることを考えた。
落ちる先は、この場に至っては安全な場所はたった一つしか考えられなかった。それは姉小路家の一鍬衆が守り天皇陛下のおわす御所であった。
細川藤孝は越前兵五百を指揮していたが、もとより御所は未完成であり防衛体制も整えられておらず、更に四方より敵影のある所を見ると引き込むものもいたに違いなく、この上は近衛の方と預かりの女官を無事に落とすことをまず考えることとした。細川藤孝の心配は将軍足利義輝が覚悟を決めて斬り死にするまで一か所にとどまって戦うことであったが、それならば賊がそこへ集まるものに相違ないため、首を上げたとの声がない限りは無事だと思い決めた。無事なところとすれば、まず考えられるのは延暦寺系の僧兵の多く詰めている寺であった。御所も安全であろうが、多くの女官は入れないため除外された。
まずは僧兵の多い東へ指して進めば、上手くすれば御所付近にいる姉小路家の一鍬衆の援護を受けることも考えられた。一里の距離にある双林寺に向かうことが、まずは目標とされた。双林寺はこの時期、僧兵の拠点の一つとして利用されていたためであった。
近衛の方と女官を中央に、五百の兵を周辺に配して細川藤孝は御所を出発した。市街では陣形も取れず、時折町屋の中から賊が現れたが細川藤孝は血刀をかざし、よく前後を守りながら進んだ。途中、襲ってくる賊は女性の名を叫びながら襲ってくるものも多かったが、細川藤孝にはなぜなのかは分からなかった。
鴨川のほとりで小休止を入れた。女官も半里も歩けば息が上がるものが大半であり、このような開けたところであれば小休止もできると考えたためであった。見れば何人かの女官が泣いていた。最初は疲れからかと思ったが、話を聞くとどうも事情が違っていた。自分の名を呼びながら死んだ賊が、どうやらその女官の知り合いだということであった。細川藤孝は訳が分からなかった。と、東海坊天光が僧衣の墨衣を返り血で染めながら細川藤孝に近づいてきた。後方の越前兵を任せていたため、そのことだと思って話を聞いた。しかしその語るところは驚くことであった。
「どうも話がおかしい。一人捕らえてあるから話を聞いてやってはくれまいかの」
その捕虜になった武士ははじめは暴れて仕方がなかったが、名を呼ぶ女官を呼ぶと女官は言った。許嫁の下級公家であるということであり、といっても極官が従五位の最下層の下級公家であった。女官の家も同じであり、身売りの話も出始めたところを将軍足利義輝が拾い上げたものであった。だが男は将軍足利義輝が慰み者にするために奪ったと考えていた。どうも、認識に相違があるようだ、というのが細川藤孝の感想であったが、東海坊天光が妙なことを聞いた。
「で、今回のことを奇禍として許嫁を奪い返す、か。それを吹き込んだのはだれだな」
その口から出たのは、とある中級の公家であった。柔和な顔を見せて東海坊天光が二人に言った。
「そうか、今回の騒ぎが終わったら一緒にしてやろう、生計も立つようにしてやろうから安心をおし。……さて」
細川藤孝にもからくりが何となくわかってきた。だが今はそれを追求するような暇はなく、一向は双林寺へ向かって進んでいった。




