二百十六、尾張統一
清須城包囲を終えた駿河今川家の軍勢は軍を那古野城に入れ、翌日午の刻に那古野城から這うように出陣した。一方で織田信長は敦盛を舞うと僅かの兵を引き連れて出陣し、名塚砦で兵の揃うのを待った。この次第については既に述べた。
だがこの間も織田信長は考えていた。仏の姉小路家、というが、那古野城に残された兵糧といい酒といい、本当に仏なのだろうか、そして姉小路家が尾張を織田信長の支配下に置こうと考えているとしか思えぬ、その行動の意味について考えていた。
尾張一代記にこうある。
「織田信長公、(略)那古野城下を過ぎ小休止を取っていた駿河今川家の軍勢を散々に破り、山口教吉が首を上げたり。そのまま兵を進めたるも姉小路家が軍勢、岡部元信を守り候。織田信長公、(略)戦の概略を祐筆に書かせ犬山城、岩倉城、大野城に届けさせ(略)犬山織田家織田信清殿、岩倉織田家織田信賢殿、大野城佐治為景、清須城に詣で候て(略)」
織田信長の軍勢は名塚砦を出発し、那古野城から僅か一里半のところで小休止していた岡部元信隊を散々に破ったこの合戦の際に織田信勝の首を上げたという伝承が残っているがあくまで伝承でしかない。また林秀貞はこの後行方不明になって史書に名がなくなるところを見ると、討死したのか出家遁世したのか、これも定かではない。ただ、この那古野城追撃戦の結果の後、織田弾正忠家の内訌は止み、尾張は大きく統一に向けて動き出したのは確かである。
那古野城をでて半里、岡部元信は既に士気の緩みを感じていた。もとより無理を重ね気力を振り絞るようにしてなお後から攻撃に備えを置いていた。
ただし今回は岡部元信は最前列に居た。織田信長の兵が先回りしての攻撃に備えてであった。流石に昨日の撤退時には後方から回り込んでの攻撃は在りえないとは思ったが、那古野城に一夜を明かして出発が午の刻に近い時刻とあれば、地の利のある織田信長のことである、先周りしての包囲殲滅も視野に入れる必要があった。
物見も出していたが、出したそばから逃げるのか戻ってくるものはいなかった。織田信長隊の所在は、今なお掴めなかった。
那古野城より一里半、織田信長隊がついに駿河今川家の軍勢の姿を捕らえた。駿河今川家の軍勢は小休止をしていた。わずか一里半で小休止が必要なほど、駿河今川家の軍勢の士気は落ち気力、体力が落ちていたのには違いなかった。折しも雨脚も強くなっていたことも手伝い、駿河今川家の軍勢は足を止めていた。
織田信長はこれを見て、即座に柴田勝家率いる足軽衆を突入させた。足軽衆といっても織田家の足軽衆は専業の兵である足軽と普段は農業を行っている足軽との混成であり、柴田勝家の突入させた隊の半分近くは柴田勝家以下の武士の郎党衆であった。だからといって兵の質としては、何しろ訓練期間は清須城包囲の間はそれしかすることがないのだから、十分とはいえないまでも相当程度に充実していた。その中を柴田勝家を中心に、佐久間信盛、前田利家が手勢を率いて駆け、士気の上がらぬ駿河今川家の軍勢の横腹を、雨により軍装さえ脱ぎ捨てたものも多いその軍勢の横腹を強かに攻撃させた。
ふんどしに脇差程度で濡れた軍装を脱ぎ捨て雨水を絞るものまで少なくなかった、それでなくてもただでさえ士気の低い駿河今川家の軍勢であった。助かろうにも助からなかった。敵襲、の声が聞こえても、やれ槍はどこだ胴丸は、鎧下は、馬を引け、太刀を持て、いや弓を、と混乱の声が広まるばかりであり、岡部元信は戦にはならぬと全員に脱出を指示すると自身も馬廻りを率いて粛々と南東へ向けて軍を動かした。流石に岡部元信は音に聞こえた武将であり、この時も普段の軍装を身に着けたままだったが、一人で、あるいはその馬廻りに郎党を合わせても戦局はどうにもならなかった。
織田信勝はこの時、やはり幸運だったのであろう、飲んだ酒の火照った体に雨が気持ちいいとふらりと陣中を抜け出していた。近くにある廃寺の井戸の水を飲み、そうして本堂で高いびきで眠った。だが林秀貞は織田信勝を見失ったことで焦りが勝り、あちらこちらと探しているうちにやがて林秀貞はどの隊とも逸れた。二人はそのまま杳として行方が分からぬようになった。
武運がなかったのは山口教吉であった。襲撃時、彼は点呼のために本陣よりもやや後方近くにいたことから、襲撃をまともに受けた。槍も持たずに拾った太刀を振り回していたが、柴田勝家の家臣である毛受照昌が槍を付け、首を挙げられたが、具足さえなく毛受照昌も山口教吉の顔を見知っていなければ見逃すところであっただろう。
この一戦で、八千の駿河今川家の軍勢は五百にまで兵を減らした。
僅かな馬廻り衆と共に岡部元信は撤退に成功できたのは姉小路家の陣が鳴海城から尾張側に一里張り出して陣を張っていたためであった。五百の軍勢は三々五々に姉小路家の陣に入り、織田信長も姉小路家の陣にまで攻撃を仕掛けようとはしなかったため、岡部元信らはようよう命を拾うことが出来た。
この姉小路家の陣の主将は田中弥左衛門であった。田中弥左衛門は事情を察すると即座に軍使を手配した。
一、即座に兵を収めること、
一、三日の後清須城へ姉小路房綱公自ら訪問すること
一、申し述べたい事あらばその際に聞くこと
一、鳴海城は織田弾正忠家に引き渡すこと
織田信長はこの条件を飲んだ。いや、織田信長にしてみれば願ったりなことであったかもしれなかった。とはいえ、姉小路家にもこの後尾張占領を続けるだけの力は実はなかった。特に投げ槍と銃弾については大規模な補給を必要とした。もう一戦であれば可能であろうが、それ以上となれば難しいと見られていた。特にこのような雨の降る日の戦いは、姉小路家にとっては得策ではなかった。とはいえ、そのような事情を織田信長が知る由もなかった。
三日後の清須城での面談に合わせて、織田弾正忠家の使者が北は犬山城から南は大野城まで駆けまわった。言うまでもなく、姉小路家、そして今回の勝利を梃子に織田弾正忠家の尾張の実効支配を他家に認めさせるためであった。織田信長は草太を上座に据え、真っ先に平伏して見せることで他の国人衆を平伏させ、更にその筆頭格として尾張全土に対する影響力を強めようとしていた。
そして葉月二十三日を迎えた。
この日、草太たちに前後する形で犬山織田家の織田信清、岩倉織田家の織田信賢、大野城の佐治為景をはじめとする諸将が清須城入りし、草太の謁見を受けた。勿論大広間の床の間に座したのは草太であり、その両脇に取次である弥次郎兵衛と平助が座を占め、一段下がる形で斯波義銀が、その下に織田信長以下が居並ぶ、という席次であった。席次の上では斯波義銀を上位に据えた辺りの織田信長の政治感覚は、同時代の戦国大名から考えて一線を画していた。居並ぶ諸将は意外にも若い草太に驚きつつも、織田信長を筆頭に斯波義銀の支配に入ること、これは斯波義銀がすでに傀儡であるということを考えあわせれば尾張の実権を織田信長が掌握することを姉小路家が公認したということに他ならななかった。
またこの日、まだ生まれて間もない佐治為景の息子佐治為興と織田信長の妹お犬の方の婚儀も取り決められ、尾張は静謐を取り戻した。
そして謁見を終えると草太と織田信長の会談であった。清須城の一角に設けられた茶室で一通りの挨拶をした後、草太は織田信長に斎藤家を通じて姻戚となること、斎藤家はこのことを了承していることを告げた後に言った。
「それで、織田家はこれからどうなさる」
これは織田信長にとって難しい問題であった。美濃譲り状を盾に美濃を、と考えていたのは、かなり早い段階で不可能であると知れた。元々、蝮は蝮であり、斎藤義龍が美濃の国主であり続けるとは考えていなかった節があった。特に甲斐武田家の介入があれば、蚕食されるであろうことは明白であり、蚕食されれば姉小路家に頼り国を保つように手を打ってはいたが、それは斎藤家の美濃支配の崩壊をも意味していた。いずれにせよ、美濃譲り状は画餅でしかなかったのであろう。
西へ目を向ければ伊勢が見えるが、伊勢は姉小路家との競争となるように思われた。そこに勝ち目はあるのか、うまく利用されるだけではないのかという疑念があった。今回の勝利も、那古野城で食事をし酒を差し入れられ、士気が緩んでいるのみならず危機を半ば以上脱したと思わせた、しかも半里もいけば姉小路家の陣でありその陣は見えていたであろう、雨がなくとも逃げを打つ兵を討つ、というのは最も容易な勝利の方法であった。撤退戦の難しさはその辺りにあった。
こういう機微に、自分より年下であるはずの草太の方が上、と織田信長は考えざるを得ず、であれば戦いは力を蓄えてから出なければならなかった。そして姉小路家と戦わずに済む方角は一つしかなかった。
「東へ」
つまり駿河今川家と戦う、というのが織田信長の出した答えであった。草太は、常識的でつまらぬな、などとは考えなかった。ただ一言言った。
「大変結構に存じます。伊勢は伊勢として、我らは義理とはいえ兄弟、我らが争わぬようになしたいと存じます。……近いうちに上洛し将軍足利義輝様に謁見をお願いいたしましょう」
駿河今川家との戦いには口を出さぬ、と暗に草太は言った。織田信長は雨の上がった空を眺めていた。その眺望には駿河今川家に対する調略と戦闘がまたしても始まる、そのことについて考え始めていた。




