二百十五、那古野城追撃戦
姉小路家の軍勢が那古野城の物資を奪いまた鳴海城を陥落させ、更に岩倉織田家も内訌があり混乱が生じており、清須城包囲を行っていた岡部元信隊は敵中に孤立することとなった。周辺の田から早稲狩りを行うにしても限度があり、また孤立状態での攻城戦は好ましいものではなかった。救援のため岡崎を発した今川義元率いる駿河今川家の本隊は鳴海城南東、桶狭間を過ぎた大高山の麓で進軍を妨げられ、それ以上の救援が出来なくなったことは既に述べた。
この結果、岡部元信隊は包囲を解き、敵中突破を覚悟した。
尾張一代記にはこうある。
「姉小路家が鳴海城を攻め落とし、浮足立ち撤退の気配を見せる岡部元信隊に織田信長殿は動かず、撤退を見逃すかと思えば深夜起き上がり、敦盛を一指し舞うと湯漬けを一杯掻き込み、その間に支度の済みし側小姓衆を引き連れ出陣に向かい候。名塚砦にて待つ、と触れを出し、丹羽長秀に城の防衛を、柴田勝家に集合した兵を任せ馬上の人となり(略)加藤弥三郎、岩室重休、長谷川橋介、佐脇良之、山口飛騨守の五騎が従い、これに続いて池田恒興、魚住隼人ら馬上にて足軽隊を引き連れ駆け(略)明け方には兵揃い、那古野城下を過ぎ小休止を取っていた駿河今川家の軍勢を散々に破り(略)」
姉小路家の戦いに目が行きがちであるが、この桶狭間合戦のもう一つの、だが重要な要因は織田信長が織田信長自身の手で軍を率いて駿河今川家の軍勢を破ったことにある。これにより、旗幟を決めかねていた犬山織田家、岩倉織田家、そして佐治家の服属がなされたといわれるためである。
尾張での戦いでは姉小路家は寸土も得るところはなかったが、織田信長という強力な勢力と、この後長期間にわたって同盟関係を築くことが出来たことが収穫と言えば収穫であったとされる。だが草太の理想である戦のない世界を作るという理想からすれば、もしかしたらここで織田信長を排除した方がよかったのかもしれない。
天文二十四年葉月二十日(1555年9月5日)早朝、林秀貞は流石に陣中では酒も控え目にしか飲まずに軍装のまま眠っている織田信勝の寝所に入ってきた。
「殿、末森城、落城いたしましてございます」
林秀貞が織田信勝に言った。織田信勝の居城末森城が燃えている、というのだ。戦況を聞くほどには織田信勝も鈍くはなかった。相手は姉小路家の兵に決まっていた。妻子は諦めていた。それよりもこれで追い詰められた形になったのは確かであった。早急に清須城を落として家督を得なければ、織田信勝の拠って立つべき城そのものがなくなることを意味していたためであった。だがこの情報が届いたのは既に姉小路家と今川家の軍勢が衝突した後のことであり、居城末森城の方角から火の手、煙が上がり、物見が走って初めて事の次第を知ったが、その情報が織田信勝に届くまでにも時間がかかったためにこれほどの時が必要であった。
この点でも織田信勝はあまりにも能力が劣っていたと言わざるを得ないだろう。
同様の報告は、鳴海城の陥落に至るまですべてが更に詳細に岡部元信の下に届けられていた。那古野城で使い番が謀られた、その件も含めての報告であり、今川義元自身からの命も入っていた。
今川義元の命令は簡潔であった。
「全ての戦を即時に止め、帰国致候事。姉小路家とは和議成れば、鳴海は通るに害之無、ただ織田信勝殿については身柄を確保せよ」
姉小路家との和議が成った、ということであれば駿河今川家の軍勢が後詰で来ることが出来そうなものではあるが、それをしないというのが和議の条件であったのであろうと分からない岡部元信ではなかった。ただすべての戦を止め帰国せよ、織田信勝の身柄は確保せよ、と命じているが、一つだけ気になったことがあった。それは織田家であった。
「織田信長については何か言っていたか」
使いのものは、存じませんと言った。岡部元信は織田信長という人物を知らなかったが撤退戦の難しさは知っていた。攻城戦で攻めきれずに撤退する際に逆襲され大きな被害を出すというのは、決して珍しくもないことであり当然にして備えを厳にすべき事柄であることを、岡部元信はよく知っていた。
「明日、清須城から撤兵する。和議は望めぬな。櫓の一つでも落としていれば別であろうが」
一方的に攻めるのを止めるから和議、とはいかないのは岡部元信は痛いほど知っていた。当然であった。自分がその立場で兵糧にも余裕があり士気も落ちていない、その状況で十日で囲みが解けると既に城中に叫ばれている状況で、こちらから和議を出されたとして飲むわけがない、飲むとすればよほどの好条件、例えば大幅な領土の割譲を申し出た時だけであった。岡部元信にはそのような権限はなく、精々兵糧その他の物資を、といっても城内の方が豊富にあるには違いなかった。つまり、和議なしで潮が退くように撤兵する、これが必要不可欠であった。
流石に末森城から清須城への鮮やかな撤退の手並みを見るに、織田信長という武将を相手に撤退を悟られないとは思わなかった。
明けて葉月二十一日(9月6日)払暁から撤退が始まった。その先頭を進む隊が最も最初に逃げる隊であり、織田信勝隊と山口教吉隊、そして輜重隊の大部分がここに配された。そして中軍というべき隊が出発し、岡部元信が殿の三千の兵を率いて退くこととなった。この三千という数は、岡部元信が駿河の在所から率いていた兵が中心であり、岡部元信が子飼いの手勢であった。遠江、三河での合戦でも最も頼りとなる兵であり、岡部元信の軍功の過半はこの兵と共にあったといっても差し支えないほどのものであった。無論、流れ者の類も多数組み入れて数は嵩上げしていたから、三千全てが子飼いというほどのことではなく在所の子飼いなのは精々二百というところでしかなかったが、それでも過半数は岡部元信の与力衆として子飼いに近い者たちの在所から集められた者たちであったため、間接的な意味で言えば過半数が子飼いの兵であった。岡部元信の用いるべき兵の最精鋭、それがこの三千の大部分を占めていたといっても過言ではなかった。
空模様は怪しかった。小雨の落ちる中の撤退は、そうでなくても撤退中は落ちる士気を更に落としていた。せっかく拾った命ではあるのは事実だが、同時に何の手柄もなければ恩賞もなく、ただ兵糧などをむやみに消費しただけであった。完全に赤字でしかないとなれば士気が上がるわけもなく、更に敗北感が追い打ちをかけた。これに小雨が降るという天候も手伝った。
結論から言えば、撤退初日である二十一日の夕方に那古野城に着いた時には織田信勝の兵はほぼ全員、残ったのは林秀貞と郎党を除けば数名程度でしかなかった。山口教吉の兵もほぼ同じ状況であったが、二百程度が残っていたのは三河衆が残っていたためであった。
一方、在所が元々三河から、遠く駿河や遠江にある兵が中心の駿河今川家の軍勢はほとんど脱落者らしい脱落者も出さず、捲土重来を期して周辺の地理を絵図に残すものさえいた。もっとも、その程度の絵図であれば今川家であれば多数の用意はあったのではあるが、その武士には期するところがあったのであった。その武士は、名を大久保忠世といった。
那古野城下まで殿まで襲撃を受けることもなく無事に退くことが出来た岡部元信であったが、清須城前を最後に去る前に見た時に感じた兵気の高まりから襲撃を予想していた。だが那古野城に無事につくことが出来たのを不思議に思い、更に那古野城に残されていた兵糧、全部隊で分ければ三日分程度であろうか、だがその兵糧を得て、兵にせめてもの食事を摂らせ夜間の警戒を厳にさせた。
この那古野城に兵糧の他に残されていたものは、おそらくは姉小路家がここで岡部元信隊が一夜を明かすことを想定していたのであろう書状と、三斗の酒であった。書状にはこう書かれていた。
「姉小路家と今川家は和し候はば、既に敵に非ず。せめてもの馳走に兵糧と酒を残す也。くれぐれも道中気を付けて三河に戻るべし」
岡部元信は、姉小路房綱という人物の懐の深さと読みの正確さ、読みの方は優秀な参謀がいるには違いなかろうがその献策を懐深く受け容れるその度量に感服したのであった。
さて、問題は三斗の酒であった。上物に思えたが三斗では兵全員に配るわけにもいかなかった。といって将だけで飲む岡部元信ではなかった。大きな水瓶に水を張らせ、その中に三斗の酒を入れて全員にいきわたるようにして飲ませた。全員に盃一つ程度でしかなかったが、全員で分けて飲んだというところに意味があった。果たして士気は上がった。気休め程度でしかないとは分かってはいたが、それでも士気が多少でも回復したことに岡部元信は満足した。
岡部元信は夜襲を予測し、物見を多数清須城周辺に放っていたが、夜半を過ぎても出陣の気配はなく、ただ城下に兵を出して包囲が解けたことを確認しただけであった。日没となり、那古野城に物見が戻ってきても兵を解散させただけという報告に、岡部元信は多少の疑念はありつつもとにかく追撃はないのかと多少の安堵もありながら、更に夜襲に備えて警戒を厳にさせた。だが、夜襲はなかった。
兵は疲れて眠り、夜襲を警戒していた分だけ疲労は蓄積し、士気はそれでなくても落ちていたのに落ちていた。全員が一丸となって出発したのは昼前のことであった。もう一日那古野城に、という声を押しつぶすのに掛けた時間は無駄だったとは思わなかった。この和議が和議である以上、姉小路家を刺激すること厳禁であり、特に鳴海城までは接近する勢力全てに誰何し姉小路家の勢力であると確認されない場合に限り攻撃が許される立場にあった。
面倒。味方ではないならば全て叩き潰せばよい。
陣中にはそういう空気が確かにあった。間違いではなかった。それが許されるのであれば。岡部元信は下り藤紋の姉小路家に対しての攻撃を特に厳禁した。それは和議を壊し、おそらくはこの八千の兵の大部分の死を意味していた。戦陣では鬼、姉小路家の評価はそう決まっていた。戦が終われば別であるが、おそらくは戦では一切の手を緩めないのであろう、万を超える軍勢を一糸乱れぬ鉄の統制で一切の手加減なしに、遠距離からの攻撃を中心にまず統制を破壊し、その後三間槍を巧みに使い陣備えを一つずつ確実に破壊する、間違いなく今の岡部元信の戦いたい敵ではなかった。戦えば、岡部元信の指揮がどうであれ、殿、今川義元の率いる本隊ですらなす術もなく敗退したのだ、どう考えても利があるとは思えなかった。
一方の織田信長は、葉月二十一日に今川家の軍勢の撤退が始まった当初から軍議を行っていたが、追撃すべしという声にうんざりしていた。織田信長は格別に優秀、というわけではなかっただろうが、それでも武将としての能力はこの当時の平均をはるかに超えていた。それよりもはるかに超えていたのは、政治家としての力であった。軍を率いての戦いがその後の政治に対してどのような影響を与えるか、織田信長は良く分かっていたといっても過言ではなかった。その織田信長の考えでは、この追撃戦ではただ勝利するだけでは不足していた。勝利するだけではなく大勝利でなければならず、兵の被害は最小限にとどめる必要があった。
軍議の最中、物見に出した兵が報告に入ってきた。坪内利定が物見と共に入ってきたのは、織田信長にも少し驚きではあったが、その報告の方が面白かった。
「姉小路房綱公の命により、那古野城に三日分の兵糧と酒を残して残りの物資はいただいてまいりました」
いただくとはどういうことだ、と池田恒興が問うと坪内利定は何でもない顔をして、横流ししました。
「いや、大殿、斎藤道三殿にいただいた分だけでは赤字かと覚悟をしておったのですが、この分では大黒字も良いところでございます」
居並ぶ諸将は三日分、つまり国境までの兵糧と酒を差し入れるという姉小路房綱の懐の深さに感服していた。そして駿河今川家の軍勢の動きについても概ね予測がついた。東海道をそのまま三河へ入る、その一手以外にはなかった。鳴海城に姉小路家の軍勢はいたが、姉小路家とは和議が成っていたためだ。
だが織田信長はまったく別のことを考えていた。姉小路房綱という得体の知れない人物が、尾張を織田信長に取らせる、その意味であった。
軍議は未だ続いていた。だが、その軍議の声は既に織田信長の耳に入っていなかった。織田信長はすくと立つと、そのまま奥へ入っていった。




