二百十四、続々、桶狭間合戦次第
姉小路家が兵糧の類も集積地であった那古野城を攻め落とし物資を奪ったことから、駿河今川家の軍勢は深刻な物資不足が予測された。更に姉小路家が鳴海城を攻め落としたことにより、清須城包囲陣の駿河今川家の軍勢は孤立を余儀なくされ、その救援のために今川義元は岡崎城にいたほぼ全軍一万八千を押し出し救出に向かうことを決意した次第については既に述べた。
講談「桶狭間合戦」にはこうある。
「駿河今川家の軍勢朝日を背負い、東海道を攻め下る。東海道に沿っての駿河今川家の長蛇の陣。その頭を抑えるは田中弥左衛門、ござんなれとこれを待ち受け、頭を抑えられた大蛇がのたくるが如く陣が動き、そこへ大高山に陣を構えた姉小路房綱公、横腹を騎馬鉄砲にて強かに食い破れば(略)」
講談ではこの後、今川義元以下の武将を打ち取り幕となるが、実際には今川義元の死はこの合戦よりも三年以上後、太源雪斎、朝比奈泰能の死後のことである。死因も病死とされ、一時本陣に迫ってはいたもののこの戦では今川義元も朝比奈泰能も討死していない。またこの講談では騎馬鉄砲という、鉄砲隊が騎馬に乗ったものが登場するが、そのような編成をしたという事実は否定されている。この当時の鉄砲では、馬上で使うにはまだ反動が大きすぎるのだ。
だが、合戦の大筋として、東海道を下る軍勢を大高山の麓で打ち破ったという意味で、この講談の話は間違いではない。
しかし、尾張の陣といった場合にはこの合戦、そして織田信長の尾張統一のためのもう一つの合戦があり、更に草太と織田信長の会見によって幕となるのが定説である。
天文二十四年葉月十九日(1555年9月4日)、草太たちは桶狭間に陣を張っていた。天候はあいにくの曇り空であり、雨が降ってきてもおかしくない天候であった。雨は困った。姉小路家の最大の武器の一つである火縄銃が使えなくなるためであった。そこへ服部保長が声を掛けた。今川家の軍勢が予想通りに東海道を攻め上ってくる、その報告のためであった。
「敵はどの辺りだ」
「ここより二里半、刈谷城を越えた辺りかと。……時に鳴海城で戦いますので」
服部保長が訪ねてきた。草太は、迎撃すると一言言った。
「だがあいにくの天候だ。鳴海城に籠っては駆け抜けられる可能性があるが、だからといって天候を変えられるわけもない。それともそういう術でもあるか」
草太が言うと、服部保長は笑顔を見せた。そのような術はございませぬ、と言ってからこう続けた。
「ならば土遁と行きましょうか。なに、穴を掘って上に板でもかぶせて簡易的な屋根を付けるだけにございます。幸いに革の外套は小雨程度ならば十分に防ぐことも出来ましょう。こちらの数を少なく見せることも、予測よりも接近させることも出来るでしょう」
草太はこの策を受け入れた。準備は急ぐ必要があった。沓掛城に入られれば面倒ではあるが、一万八千という軍勢が天白川を渡るためには鳴海城の西にある今川家のかけた橋を渡るか、さもなければ相当に遠回りをする必要があった。このため今川家の軍勢は鳴海城に直進すると予測しての行動をとっていた。
そして草太は大高山の麓に田中弥左衛門隊として一鍬衆五千を配し、これに草太直属の馬廻りである騎馬隊千の合計六千で陣を取った。空堀を掘り土嚢を積んだが逆茂木は結わなかった。結う時間が足りなかったというのが本当であった。平野右衛門尉の指揮の下、一鍬衆二千、中折れ銃隊二千を大高山の山上に伏せさせた。ただし中折れ銃隊は最前線に埋めて見えなくした。
今川義元の下に物見が敵の接近を知らせてきた。
今川義元は、予想通りに鳴海城に籠らず兵を街道を塞ぐように配しているのを聞いた。数が少し少ないのは妙であったが、本隊は鳴海城にいるのか、あるいは尾張に入った軍勢自体が少なくここまでの戦で消耗しているのかもしれないと解釈した。空はあいにくの空模様であったが、小雨は上がり晴れ間も見え始めていた。この分であれば、鉄砲隊も試すことが出来そうであった。攻城戦ではさして意味なく鉄砲は弓に劣ると言われて久しいが、それならば遠い異国では鉄砲が主力であるという話とは矛盾があった。そもそも今回の相手の姉小路家は鉄砲を大量に使って勝利し続けていると聞いていた。おそらくは使い方に問題があるのか、と今川義元は考えていた。
今回の戦が終われば家督を嫡男今川氏真に譲る、と決まっていたので、この戦が今川義元の最後の戦と思い決め、それでも最後の瞬間まで学び続けようとするのは、やはり今川義元が優秀な将である証拠であった。
今川家の軍勢は、前衛として朝比奈泰朝が五千を率いて前進し、その後方から今川義元が一万三千を率いての進軍であった。東海道から逸れずに一直線に、鳴海城すら無視して前進するというのが目論見であった。正面戦力が拮抗していると見た朝比奈泰朝は今川義元の下へ使い番を出して後詰を頼み、街道に長く伸びた長蛇の陣の最前線を厚くして鋒矢の陣として突撃を開始した。
まずは小手調べに、と弓隊を使ってはみたが土嚢を積んだ先には特に被害らしい被害は見当たらず、鉄砲隊も同じことであった。武田信玄が見れば不動如山と評したであろう田中弥左衛門の用兵ぶりであった。田中弥左衛門隊はまだ投げ槍も投げず、敵の出方を見ていた。
先に動いたのはやはり今川家の軍勢であった。鋒矢の陣形のまま姉小路家の陣に攻撃を仕掛け通過できる穴を穿つ、朝比奈泰朝はそれだけを考えて陣を動かした。彼我の距離が半町を切ったところで田中弥左衛門は投げ槍一投を命じた。五千の槍が朝比奈泰朝隊に降り注ぎ、三千の兵が死傷し脱落した。だがさすがは朝比奈泰朝であった。ここまでの数の被害が出てもその指揮は未だ乱れておらず、負傷者を後方に運んだ残りの千五百を纏め突撃を開始した。しかし空堀にかかり、空堀の向こうに土嚢を積んで見かけの高さを嵩上げした一鍬衆の三間槍に、千五百の兵は半町ほどの間で死傷し動けなくなった味方を乗り越えての攻撃も僅かに三尺程度の土嚢を越えることさえ阻まれ、残りが五百を切った段階で朝比奈泰朝は後退を命じた。どの程度の兵を倒したかは不明だが、陣を破るどころかほとんど空堀を埋めるだけに終わった攻撃に、完敗である、と思いながら後方へ落ちて行った。
一方の平野右衛門尉は物見の報告から今眼下にいるのは先陣でしかなく本隊は後方であると知り、先陣には攻撃しない、少なくとも後方にいる本隊を攻撃するまでは攻撃を控えることとした。伏兵は、ここぞというときに攻撃を開始するからこそ意味があり価値がある、と平野右衛門尉が学んだ証拠であった。敵陣が側面を晒しているのをじっと見守るのは、少なからず骨であった。
その本隊が、今しがた田中弥左衛門隊に打ち破られた先陣、朝比奈泰朝隊と合流しようとしていた。中折れ銃隊の埋めた地から三町を通っていたため撃つには少しばかり距離があったが、高低差があるためこれでも問題はなかろうと平野右衛門尉は考えた。最初の一射目だけは通常の中筒、二射目からは中折れ銃と定められ、また細引きでの合図で銃撃をすることとされていた。それに、平野右衛門尉の予測からすれば立ち上がった鉄砲隊の後方に一鍬衆も立ち上がるため、長蛇の陣で進む今川家の本隊は即座に鶴翼の陣へと化して大高山を攻撃する、と読んでいた。そうなれば中折れ銃隊の独壇場である、というのが目論見であった。
実はこの陣を埋める策の合間に兵にやらせていたことがあった。それは途中の雑草を結ばせたことであった。突撃を掛けるべく走っていれば、必ずやその結んだ雑草は足を取り転ばせ、それは突撃を鈍らせる要因になると考えられた。小細工、とは思ったが、ウサギを取る罠を作ることにも似た作業であり、一鍬衆は一しきりの作業を笑いあいながら行っていた。何にしろこれから戦だというのに笑うことのできる兵というのは、頼もしいものであった。
眼下の本陣も半ば近くをやり過ごし、五六千もやり過ごしたところで采配を振るった。
俄かに陣が起き上がり、中筒を構えて撃った。もとより距離があるため中筒二千といえども五百も被害はなく、しかし今川家にその存在を知らしめるのには十分な一撃であった。平野右衛門尉は大幡を高々と掲げさせ、一鍬衆にも伏せていた旗を立て並べさせ、遠目にはこちらが本隊と見えるかのようにした。
長蛇の陣を鋒矢の陣と化して今まさに突撃を開始させようとしていた今川義元は、突然の時ならぬ銃弾の雨、それも轟音を轟かせての銃撃を左翼側から受けた。これには今川義元も心底驚いた。五千の兵を与えた朝比奈泰朝隊がなす術もなく骸を晒して撤退してきた、まさにそれが本陣ではなく街道を塞ぐための防衛陣であり、楽観的に見ても姉小路軍にはおそらく千と被害も出ていないであろう堅陣を敷きながら、更に脇の陣としてそれ以上の数の陣を設けていたと見えたためであった。実際には中筒と中折れ銃を両方持つため鉄砲の数こそ多かったが同時に打つのは二千、その他にはやはり二千の一鍬衆がいるだけであったが、俄かに用意の紙や蓆で幡を作り旗を立て並べ陣幕を張り巡らせて多数の兵が伏せていたかのように見せかけていただけであった。
大高山の陣こそ本命、と見た今川義元は、それでもやはり東海道を通ることを最上位の目標として鋒矢の陣が実はさほどに被害がないのを確かめると、矢盾を左翼に立て並べさせて僅かでも被害を減らさせながら、全部隊に突撃の命令を下した。
平野右衛門尉は、矢盾こそ立て並べ始めたもの大高山に向かう気配すらない、むしろ本隊への突撃、突破により東海道を鳴海城脇の橋を渡って尾張へ入り岡部元信隊との合流を目指したものと見えた。こうなれば土遁も何もない、こちらも突撃するばかりであった。
「銃士隊、前進。距離を一町半詰めよ。一鍬衆は援護せよ。こちらに接近する敵あれば、一町にて投げ槍を投げよ」
このとき平野右衛門尉は、中折れ銃隊を銃士隊と呼んだ。これがおそらくは銃士隊という語がつかわれた初めての例であり、訓練中もそう呼ばれたことはついぞなかったことではあった。だがその命ずるところは誰の耳にも明らかであったようであり、中折れ銃隊はこの後、自らを銃士と呼び、また銃士隊と呼ばれることを好み、事実上の既得権益とでもいうのであろうか、銃士隊という名を獲得して行った。
銃士隊は二列横隊を押し出して鋒矢の陣の鏃にあたる部分、突撃をする兵溜りよりも半町ほど後方から約十町ほどにわたって接近し、距離二町から銃撃を開始した。第一の隊が前進し撃つと同僚の第二の隊が第一の隊を追い抜いていき撃つ、その間に弾込めを済ませた第一の隊が前進し撃った。矢盾は見る間に至る所に穴が開き、割れ砕け、弾き飛ばされてその向こうにいる兵にも少なからぬ影響を出し始めた。最早突撃の命令など誰も意識してはおらず、先陣の突撃部隊の中の天野景貫は、独断で二千ほどの手勢を反転させての攻撃を企図し、隊を即座に反転させて平野右衛門尉隊の右翼前方より突撃を開始した。
平野右衛門尉は、しかし慌てなかった。十分に対応も考えられていたためであった。
「銃士隊左翼五百、目標変更、彼の者たちを撃て。一鍬衆投げ槍二投、その後は銃士を守る位置で待機、まだ突撃するようであれば三間槍の錆にしてやろう」
一方で、銃撃を受けている駿河今川家の軍勢は堪らなかった。確かに彼らは銃というものを知っていた。だが姉小路家の使う銃は、駿河今川家の知っている銃とは雲泥の差があった。駿河今川家の知っている銃は、撃ってから次を撃つまで相当の時間がかかり、更に二十も撃てば整備が必要で三十も整備もなしに撃てば壊れる、そういう代物であった。だが姉小路家の使う銃は十数えるか数えぬかのうちに次を撃ち、既に二十は撃っているはずなのに一向に整備に入る兵も見えなかった。
既に最前線近くの兵溜りとの間にはわずかな兵が街道脇の僅かな窪みや立ち木に残っているだけであった。後方にいた今川義元は、こちらも鉄砲隊で、と命じてはみたものの、撃つか撃たぬかのうちにほとんどが銃弾を受けていた。
兵の数は、後方の今川義元近くの兵まで合わせれば後陣でもまだ五六千はいた。最前線にいるはずの兵も合わせれば半数以上は残っているはずであった。手当てし再編成する時間があれば万に届くかもしれなかった。だが今川義元ははっきりと、敗北を認めた。この戦場では勝てぬ、そう悟った。太源雪斎の、姉小路家と争ってはならぬという言葉、これを今更ながらに思い出しながら、今川義元は全軍に戦闘停止、後退を命じ、更に朝比奈泰能に軍使を命じた。
兵が退くと姉小路家の軍勢は、最初の陣営に戻っていった。その行動速度は前進の時よりも遅かった。なぜならば薬莢を拾う必要があるためであった。また東海道の街道上に陣を張った本隊は、空堀からけが人を引き出しては武装を剥いだ後、医療隊が手当てをし、あるいは助からぬと楽にされていった。遺体もせめてのことではあるが、水には不足しない土地であるために顔を拭き清め、士分と見える者は脇差程度は残して蓆の上に並べられていた。医療隊にとってはこれからが本当の戦であった。
流石に街道深くまで前進してけが人を回収するほどのことは出来なかったが、せめてものこととして三尺程度の幅のある空堀、その辺りまでの兵はそのようにされた。
朝比奈泰能の白扇を高く掲げ日傘を掛けたその姿に、遠くより平野右衛門尉も田中弥左衛門も、無論草太もそれが軍使であると分かった。最初大高山に入ろうとしていたため、草太の陣営に身柄を拘束されていた松平康親に小者を付け、馬で草太のいる本陣にまで呼び寄せることとなった。草太にはそれが、大高山の陣が本陣であると見られたかと思うと面白くもあり、またその策をとったとすればどういう戦になるであろうと暫し考えを巡らせていた。
陣営へ案内されている間、途中まで銃で撃たれ動けなくなった者たちの群れの間を通り、更に陣に近くなると不思議に血の跡しかなくなった。引きずった後もあったが、死傷した兵の群れはなくなっていた。合戦から数日たっているのであれば話は分かった。近くの百姓が武具を剥ぎ、死体は無縁仏として投げ込んだのであろうと想像がつくためであった。だが合戦から半日と経っていないのに、と妙に思った。
だが陣の中に入って合点がいった。姉小路家の軍勢が兵を引き上げ、手当てをし、あるいは死に化粧を、といっても水で清める程度であったがしているのを見て、姉小路家の懐の深さを思った。
草太自ら陣幕の中で謁見を許した。弥次郎兵衛が常の通り直答を許すと言い、脇に太刀を帯びて平助が控えてはいたが、朝比奈泰能は脇差もそのままに一人草太の前に置かれた床几をすすめられた。
この陣幕の中で何が話し合われたのかは定かではないが、文書で残された通りの内容であれば次の内容であった。
一、尾張より戻る岡部元信隊には手出しせぬこと
一、本隊は岡崎城に戻ること
一、負傷者は手当ての終わり次第解放すること。また負傷者の引き上げのために兵を出すが戦ではないので手出しせぬこと
一、松平康親殿は解放すること
一、近く上洛し将軍足利義輝に謁すること
こうして姉小路家にとっての尾張での合戦は幕を閉じた。ほとんど兵の損耗らしい損耗もなく、大部分が攻城戦の際の負傷者や矢傷を負ったものが出た程度であった。だが尾張の陣は終わっていなかった。草太にとって、歴史上の尾張の陣は、この後の草太と織田信長との会見が残されているためであった。




