二百十三、続、桶狭間合戦次第
姉小路軍が那古野城、末森城を落とし、清須城包囲陣の兵糧物資を集積していた那古野城の物資を悉く奪った次第については既に述べた。
駿河今川家の軍勢は大規模な補給か撤退かを迫られており、大規模な補給としての補給路としては海路も難しいため、東海道を使っての補給以外には手がないこととなった。逆に言えば姉小路家との合戦が起こるのであれば、東海道のどこかで起こることとなる、という見方が大勢であった。
姉小路家日誌天文二十四年葉月十五日(1555年8月31日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、鳴海城を落とし桶狭間に陣を置き、岡崎より急進してきた駿河今川家の軍勢を大いに攻め破り候(略)中折れ銃二千、大いに功あり(略)」
小規模なものは何度か行われていたようではあるが、資料として中折れ銃の大規模な用兵と効果が確認できるのはこの桶狭間の合戦が初めてである。他の資料と突き合わせると、野戦陣地を構築し待ち受ける姉小路家の軍勢に到着後すぐの駿河今川家の軍勢との間で合戦が始まり、両軍ともに正に殴り合うという表現が正しいような大規模な合戦が繰り広げられた。
同時期に鳴海城落城の報に接した岡部元信は清須城包囲を解き桶狭間に向け転進させていたが、織田信長もこの機を外さず攻勢に出、勢いというものもありこれを破った。
駿河今川家の尾張進出の意図は、この日、潰えたというのが定説である。
もっとも、この後姉小路家は駿河今川家と将軍足利義輝の仲介により和睦しており、大規模な駿河今川家と姉小路家の合戦はこの一回だけである。
天文二十四年葉月十八日(1555年9月3日)払暁に、末森城の主だった士分、それに織田信勝の妻子を捕虜として近くの寺に預けた草太は、全軍に出陣を命じた。抑えの兵も残さない、ということもあり、誰もいないのを確認して本丸、二の丸に火をかけ、さらに武者溜りの脇に大穴を開け門の意味を大きく損なったのは、城としての価値を低くするためであった。既に廃城も同然にするのは、外側から砕くのは難しいが内側からであれば意外に容易なものである。
草太が個人としてこの城で得たものは、一幅の掛け軸であった。大きく鷹の絵が描かれた水墨画であり、賛も添えられていないものであったが良いものであると草太は思った。焼くのは惜しい、と草太はこの掛け軸の持ち出しを支持した。この他、宝物庫には茶器類もあったが、その辺りは目録を作り、後に織田家に返還する予定とした。
実のところ、草太がこのように必要に迫られたものではなく欲しいものを取った、というのは、珍しいことであった。
姉小路家が末森城に火をかけた、その煙は遠く清須からも見えた。方角と距離から織田信勝の居城末森城であることは明白であった。織田信勝は岡部元信に面会を求めたがすげなく断られた。岡部元信の側近の話では、家督相続さえしてしまえば勝ち、末森城など枝葉に過ぎぬ些事、とさえ言った。
それよりも岡部元信の心配しているのは鳴海城であった。この鳴海城は東海道を抑える要所の城であり、連絡の城として考えた場合には那古野城は迂回することが容易であったが、末森城も落ちたこの時点では既に鳴海城への攻撃はあるものだとして戦略の練り直しを迫られていた。至急物見を出して鳴海城付近を捜索させているものの、この時点ではまだ何も報告は上がっていなかった。
午の刻に鳴海城への姉小路家の攻撃は行われた。午の上刻に城門前に着いた後、大手門を七太郎の棒火矢を用いて簡単にこじ開けると一鍬衆が突入し、元々が清須城包囲陣に出陣していたため兵が三百程度と少なかったことも手伝って姉小路軍に抵抗敵わず、ごく簡単に落城した。山口教継が残っていたが、三百の手勢で万余の姉小路軍を押しとどめることなど、土台出来なかったのだ。大手門が破壊され一鍬衆がなだれ込み始めた時点で本丸に高々と白旗が掲げられ、軍使が降伏の意を伝えてきた。草太は、城外退去を条件に降伏を許した。
山口教継は西ではなく東へ、即ち岡崎城へ向けて撤退していった。
岡部元信の放った物見は、この様子を望見し、そして復命して言った。
「報告します、鳴海城落城、山口教継殿兵を引き連れ岡崎城をさして落ちた模様」
この報告は岡部元信を落胆させるのに充分であった。岡崎城からの兵が出てきて姉小路軍と雌雄を決するのであれば、勝利すれば包囲を続けることも可能であったが、勝利を確実にするためにはやはり岡部元信隊が後方を突く、少なくとも姉小路家にそう思わせ備えさせることが不可欠なように思われた。だがそれは清須城包囲陣を一度解くことを意味していた。偽兵を用いて陣に兵がいるように見せかけても、あの織田信長の眼力はそれを容易に見抜くであろうと予測がついた。
より確実な勝利のために包囲を一度解くか、このまま包囲を続けて戦は駿河今川家本隊に任せるか、岡部元信はかなり難しい判断を迫られていた。
鳴海城落城の報は、葉月十八日の夕刻には一報が入っていたようであるが、詳細な報告は翌朝、敗兵を率いて岡崎城に入った山口教継によりなされた。姉小路家の兵は一万余りで末森城を破却し、更に鳴海城に至ったとの報に、今川義元は尋ねた。
「将は誰だ。誰が率いている」
「旗印からは田中弥左衛門とみえました。ただ後方については別にございます」
「鉄砲はあったか」
「少なくとも尾張で姉小路家が鉄砲を使った戦をしたという話はございませぬ」
それは野戦もなかったからだろう、と言いたくなったがそれは言わずに、朝比奈泰能は言った。
「鉄砲隊をかくしてそれだけの力がある、そういうことであろう。だが岡部元信隊との戦いは避けている。……御屋形様、これをどう見ます」
今川義元は流石に太源雪斎の愛弟子であった。
「速戦で周辺を落とし糧道を断つ、そして戦わずして撤退を促している。囲魏救趙の計だな。更にこちらが岡崎から出れば姉小路家は待ち受けて戦う以逸待労の計、こちらが出なければ岡部元信隊は兵糧もない。関門捉賊の計だ。……全く、よほどに良い師に恵まれたのか、それとも天性のものか、兵法を知り抜いているとしか思えぬな」
どうなさいます、という朝比奈泰能が言うと今川義元は言った。
「知れたこと、ましな結果を生みたければ、こちらから攻める以外にあるまい。動ける兵は二万、そのうち一万八千を押し出す。なに、長対陣は向こうも望んでおるまい、短期決戦で行く」
今川義元の決心に反対する理由もなく、朝比奈泰能は尋ねた。
「岡部元信に後ろを突かせましょうか」
「可能ならな。難しかろうが」
ところで、忘れ去られたようにこの合戦に絡まなかった岩倉織田家は、織田弾正忠家と同じく内訌の危機に瀕しており、目前の陣がもぬけの殻だと分かったところで手出しするようなことはしなかった。
事の発端自体は明智光忠の預かり知らぬことではあるが、岩倉織田家の家督を織田信安が嫡男である織田信賢ではなく愛妾の産んだ次男である織田信家に家督を譲ろうとしていたことであった。これは織田信勝の挙兵以前、明智光忠が入った時にはその家督争いは既に高まりを見せていた。
そこへ、清須城包囲陣があり、黒田城落城の報に接しての急の帰還があった。当然、ねぎらいの酒宴があった。これは、意気を上げるための酒宴であり、酔うほどには誰も飲まないのが常であったが、その際に明智光忠は僅かな細工をした。とある秘薬、現在ではノックビンと呼ばれる薬を織田信賢の飲む水に密かに飲ませていたのであった。この薬は、単体では全く何の効果もない薬であり、毒味役は下役であり酒宴では別のものが務めるのが常であるため、酒宴にこの毒味役が飲むこともなかった。
果たして毒味役の試した水を飲んだ織田信賢であったが、酒宴の席では盃に一つ、二つ酒を受けただけであった。その直後、酒宴の席では無事を装ってはいたものの、風邪にございます故と中座をし奥の間に入ると七転八倒であった。明智光忠は甲斐甲斐しく介抱し、水などを飲ませ横に寝かせて嘔吐で窒息しない様に配慮し、万病の毒消しと言って薬を飲ませた。
といって、盃に一つか二つ程度である、一時から二時程度で症状は治まった。だが織田信賢には深い衝撃があった。酒宴に事よせてまで、自分を毒殺せんと企んだ、というその事実が彼をさいなんだ。
同じころ、岩倉城の広間では評定が行われていた。議題は言うまでもなく織田信賢の廃嫡、代わりの嫡男として織田信家をつけるということであった。その場にいた生駒親正はそっと席を離れ奥にいる織田信賢の下へ入っていった。織田信賢は、まだ気分は悪いとはいえ怒りと失望が勝っていたのであろう、さして平常と変わらぬ様子であった。傍らに明智光忠がいるだけで他には護衛も見当たらず、人払いの必要もなかった。生駒親正は元々織田信長に近く、親織田信長を掲げる織田信賢派と言ってもよかった。その生駒親正に明智光忠は言った。
「何の毒かまでは分かりかねますが、何らかの毒にございましょう。盃が二つ程度でございました故、解毒剤を飲んでご回復と見えまする」
毒を用いてまで織田信賢を廃嫡したいのか、という思いが生駒親正には沸いてきた。そして言った。
「そのような殿ならばこちらから願い下げにございます。信賢様、いや殿、殿にとっては父親と弟なれども、織田信安と信家、この二人は是非とも除かねばなりませぬ」
織田信賢は目を閉じて暫し考え込んだ。親殺しはやはり親殺しであり、追放するにしても巻き返しがあるとなればそう簡単に頷くわけにもいかなかった。やはり二人は首にしなければならない、そう考えた。
「他の家臣はどうなのだ」
織田信賢は確認するように言った。
「中風にて倒れたとあれば致し方なし、という議論が大半、殿が元気な姿を見せれば廃嫡には賛成しないでしょう。それでも廃嫡に賛成するのは元からの織田信家側の梶原源左衛門ら数名だけにございます」
「父を除くとして、我に味方するとするのは」
生駒親正はこの質問に少し考え、そして答えた。
「やはり中風という虚言を弄したと知れ渡れば、味方せぬものは少ないかと。大半は殿に着く、精々が中立を保つ程度と考えて間違いございますまい」
ならば、と織田信賢は決心した。
その夜、首が二つ飛び、岩倉織田家の家督は織田信賢のものとなった。




