二百十一、続、尾張の陣
姉小路家が尾張美濃へ兵を出し、美濃へは渡辺前綱に軍を任せ尾張へ進軍を開始した次第については既に述べた。
一方、駿河今川家の軍勢は岡部元信隊を中心とし、織田信勝隊を加えて清須城を囲んでいた。岩倉織田家の軍勢も加わってはいたが、黒田城の落城の報と前後して織田信勝隊と交代に清須城包囲から抜けて岩倉城へ向け進軍を開始ししていた。
姉小路家日誌天文二十四年葉月十五日(1555年8月31日)の項にこうある。といっても、姉小路家日誌の特徴ではあるが、合戦に関しては数日分が一日にまとまっていることには留意が必要である。
「姉小路房綱公、(略)兵を進めて那古野城、末森城を攻め候。両城共に留守居役ありとはいえども兵はさほどに居らず(略)岡部元信清須城包囲の兵を戻し、又三河岡崎の駿河今川家の軍勢動き(略)」
この後の動きは尾張一代記の方が詳しいが、織田信秀の死の直後の山口家の離反による失地を回復し、更に岩倉織田家、犬山織田家の服属もあり、織田弾正忠家の尾張を統合したのはほぼこの時期とするのが定説となっている。
姉小路軍は黒田城に籠っていた兵を解放し士分を捕虜としたが、その守将であった岩倉織田家の家老山之内盛豊は、無腰ではと脇差を返された寛容さに感動し、士分以下を説得して姉小路家、特に田中弥左衛門の配下となることを草太に願い出た。田中弥左衛門の顔を見て拒否のないのを確認し、草太はその願いを容れた。
その山之内盛豊が言った。
「既に我が殿であった織田信安様は清須城包囲から抜けて岩倉城に一度戻り、兵を整えて防備を固め、さらにはこの城の奪還を意図すると思われます」
兵力は、と問うとおそらくは三千程度、と言った。その程度までならば、姉小路家の兵力から考えて手出しはしてこず、岩倉城の守備を固めるものと思われた。そこへ木下光秀が口を出した。
「実は某の手のものが既に岩倉織田家の中に入っております。明智光忠という利発なものでございまして、既に側仕えの末に入っている様子。策を用いて内部抗争で動けぬようにいたしましょう」
草太は一言、任せる、と言った。策の詳細を尋ねなかったのは、木下光秀という人物に対する信頼のためであり、更に織田家のことは織田家がすべきという考えのためであった。
軍議は続いた。
兵を出して那古野城、末森城を攻め取り、更に鳴海城を攻め落とす、というのが最終的に草太が決定した案であった。これらの地域を抑えると清須城包囲を行っている織田信勝、駿河今川家の軍勢は孤立するためそれ以上清須城包囲を続けることは出来ず必ずや撤退することになるが、同時に三河から駿河今川家の本隊を呼び寄せる可能性が高かった。半ば挟撃される形で、おそらくはこちらよりも多い兵力を相手に戦闘を行うのは不安がないわけではなかったが、おそらくは攻撃に対する備えを怠らずにとっているであろう包囲軍を直接叩くよりも危険は少ないように思った。
黒田城の守りには既に安藤守就が兵を出しているため兵を割く必要がないというのも好都合であった。
一方の清須城包囲を行っていた岡部元信は、重い腰を上げて清須城包囲の陣中にいた。とはいえ本国との連絡が必要であり、先に攻め落とした那古野城を連絡の城として松平康親を兵五百を宰領させて残し、また山口教吉の居城でもある鳴海城の防衛は山口教吉に一任していたが、これも連絡の城としては重要であった。だが一抹の不安は常にあった。兵糧を運び込ませるために牛にひかせた荷車を編成して往復しているものの、そのうち三回に一回は襲撃を受けた。付近の農民か野武士の類と見られるが、正体は良く分からなかった。岡部元信は根切りをするつもりはなかったが、根切りも視野に入れざるを得ない、と考え始めていた。
この襲撃を行っていたのは、言うまでもなく蜂須賀小六も合流した川並衆であった。坪内利定をはじめとする川並衆は当初は包囲陣そのものに対する攻撃を考えていたが、探りを入れると意外にも兵糧などの物資が少ないため、物資の輸送隊への襲撃に切り替えた。物資輸送隊の襲撃は、思わぬ副産物があった。兵糧等の物資を奪うということは、その分だけ儲かるのだ。とはいえこれを運んで売るのは時期尚早であった。銭に替えれば足が着く、その心配が大きかった。駿河今川家の軍勢に本格的に目を付けられぬ様に気を付けて行動していたが、名塚砦にはいつしか物資があふれていた。ただし、徐々に兵の消耗はしていた。千五百の川並衆は、この時期には千を漸く超える程度にまで数を減らしていた。
一方で新智の庄の衆は、兵として戦うよりも情報を集めることに力を注いでいた。清須城の包囲陣があるといっても、民は尾張からいなくなったわけでもなく、農作業も行われなければならなかった。また戦陣にはつきものの行商人、売笑婦の類に紛れて情報を掴み、いつ頃にどういう物資輸送が行われるか、その情報を中心に川並衆に流し襲撃に一役買っていた。
葉月十六日(1555年9月1日)の午の下刻、安藤家の兵と交代に姉小路軍は兵を纏めて黒田城から出撃した。目指すは南東へ三里にある岩倉城であった。岩倉城は攻め落とす予定はなかったが、迎撃の兵を出すか、防備を固めるか、おそらくは防備を固めると踏んだ草太であった。案の定、迎撃のための兵は出てこないようであった。岩倉城に籠るというのであれば、それで充分であった。念のために大手門の前に陣幕を張り旗を多数立てさせ、一鍬衆五十を残し、夜は篝火を明々と焚かせてさも岩倉城を攻めようとしている、と見せかける偽兵の計をしたものの、草太自身はこの偽兵の計をしなくとも出陣はないだろうと読んでいた。
岩倉城前を通った姉小路軍は進路を南に取り、黄昏時に名塚砦の川並衆と合流した。早速に軍議が開かれた。坪内利定、蜂須賀小六達も参加、発言が許された。
「今夜、那古野城へ夜襲を仕掛ける」
草太はそう宣言した。名塚砦から那古野城は一里も離れていないため、川並衆のように村人と変わらぬ服装で三々五々に分かれて入るのであれば出入りに問題はなかった。だが姉小路軍のように武装した万余の軍勢が動けば、多少の木立での偽装があるとはいっても発見されないことは難しかった。発見されずに奇襲をかけるのであれば夜襲しかなかったとさえいえた。
城の構造はかなり破壊されているにしても木下光秀が詳細に把握しており、川並衆はこの半月というものこの周辺を往来している関係上、松明の類を使わなくても行軍に支障はなかった。ならば、と木下光秀は城の北側からの攻撃を提案した。外堀は確かに厄介ではあるが、北側の櫓は稲生の戦いの際に焼き落とされたままであり、また川並衆からの情報では練塀も崩れているところが多いということであった。那古野城の兵は五百前後と見積もられていたため、土嚢で外堀を埋め塀を乗り越えれば、そう難しいことにはならぬようであった。
草太は名塚砦に蓄えられている兵糧等を見て驚いた。確かに奪った兵糧を一時的に名塚砦に集めていたのであろうが、それにしても相当な量の兵糧であった。量を聞けば、千石に近い量であった。万余の兵であってもひと月分に近い量であり、この倍近い量が既に清須城包囲を行っている今川家の軍勢の手に渡っているとの事であった。もっとも、その半分以上が那古野城にある、というのも事実であった。草太は即座に決断した。全て買う、と。銭は後払いだが、と前置きしたが、蜂須賀小六は千貫という値を付けた。米一石が一貫、というのは、一般的な相場では二石が一貫であるため、相場の倍であった。しかし、草太は気にしなかった。差額で川並衆を雇ったと思えば、腹も立たなかった。
亥の上刻に出陣、一鍬衆と川並衆の肩には土嚢が二つ載せられており、都合一万八千の土嚢が子の刻の鐘を合図に外堀に投げ込まれ塀は既に塀の役割さえ果たさぬようになり、そこへ三間槍を一間の手槍の形となし、或いは小太刀を抜いた一鍬衆が城内に殺到した。城内には不寝番の兵も見張りもいないではなかったが、主に大手門のある南側を見張っていたため、夜陰に乗じての北側からの攻撃は完全に奇襲となった。本丸で、流石に軍装のまま眠っていた松平康親は騒ぎを聞きつけて目を覚ましたが、左右のものに何が起こったか尋ねても確かなことは分からなかった。五百の兵は四百までが既に寝入っていたため碌に反撃も抵抗も出来ずに捕虜となり、松平康親も気が付けば一鍬衆に囲まれ降伏勧告を受け容れて降伏した。
兵は武装を解除したうえでひとまとめに括り、城の一角に集めた。三日経ったら一人五十文渡して解放する、と約束した。松平康親だけはしばらくは捕虜として引き回すこととした。何かの取引に使えるかもしれない、と考えたためであった。
この件が露見する前にすることがあった。それは名塚砦にあった兵糧その他の物資と那古野城の兵糧その他の物資を持出し、隠すことであった。これには蜂須賀小六が妙案をだした。庄川をつかって海へ出す、というものであった。
「湊であれば蔵の類も少なくなく、津に運ぶ船に紛れさせてしまうのが上々にございましょう。伊東屋に話を通しておけばさらに確実かと」
伊東屋に話を通すのは、刻限も遅いために無理があった。だが庄川を通じて海へ、というのは良い手であるように思われた。要は駿河今川家の軍勢の手に渡らなければそれで良かった。
伊東屋には手紙を一通書いて蜂須賀小六に渡すと、物資の始末と三日後の解放を川並衆に任せ、姉小路軍全軍に兵糧を使わせると払暁に那古野城を出撃した。向かう先は東へ一里半、末森城であった。
末森城は織田信長が攻撃した際に大手門を叩き割られており未だ修繕はなっていなかったため、実質的には二の丸、本丸だけが城としての機能を果たしていた。その上にこの度の出撃であった。城兵の大部分は清須城包囲のために出撃しており、城内には百も兵は残っていなかった。将も、林秀貞も織田信勝と共に清州城包囲陣にいたために島田秀満が守将を務めてはいたものの、兵の数よりも女房衆の方が数が多いような状況であった。
そこへ姉小路家の軍勢一万二千が殺到した。朝日の中、末森城は周辺を十重二十重に囲まれていた。島田秀満はこれを見て籠城しても即座に落城することを悟り、降伏した。
かくして那古野城、末森城は姉小路家の手に落ちた。




