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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第六章 東奔西走編
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二百九、続、美濃の陣

火、木、日の午前0時更新ですが、間違って土曜日の午前0時に更新してしまいました。

だからといって日曜日の更新をなかったことにするのも、なんだかなぁ、と思いまして、連日の更新と致します。

昨日の更新(二百八、美濃の陣)を見ていない方はそちらからどうぞ。


 渡辺前綱が明智の庄に陣を構え、進出してきた明知遠山家の軍勢を急襲し撃破した次第については既に述べた。だが大量の捕虜を護送する必要から兵を取られて明知城攻撃は諦めざるを得ず、遠山景行は明知城に戻り再戦に向けた準備を練っていたのであった。



 姉小路家日誌天文二十四年葉月十八日(1555年9月2日)の項にこうある。

「渡辺前綱殿、兵を率いて恵那郡へ出、苗木城を攻め候。後方を突かんとした遠山景任を散々に破り、余勢を駆って岩村城、明知城を攻め落とし(略)しかるに苗木城に甲斐武田家の軍勢入り、恵那にて滞陣いたし候」

 基本的に速戦を好み、陣を築いてもほとんど時間を掛けずに打って出るか陣を転じるかという動きの多い姉小路家の戦ぶりにおいて、非常に珍しい滞陣しての戦の一つがこの美濃の陣における甲斐武田家の軍勢との滞陣である。この時の陣は二つ、一つは苗木城を望む丘陵地にある深沢の陣、そして木曽川の上流に当たる落合の陣である。

 この滞陣における渡辺前綱の狙いは議論が分かれるところである。一つは甲斐武田家の本隊が救援に来る、それを撃破せんとしたという説であり、もう一つは単なる兵糧攻めであったという説である。実際にこの苗木城には甲斐武田家の軍勢一万の増援が長期間立て籠るほどの兵糧は存在しなかったが、それを渡辺前綱が知る由はなかった。更に岩村城、明知城を攻め落としたといっても遠山景任自身はこの時苗木城にあり、遠山景行は援軍要請のために武田信玄のいる伊那谷の甲斐武田家の陣にいたため、遠山一族の遠山直廉らがいたものの、これを陥落させる意味は恵那郡以西の支配権の確立以上の意味合いはなかった。

 美濃の陣は妻籠城の攻略、そして改築による防衛体制の確立により終わったとされているが、それにはまだ時間が必要であったのである。




 瑞浪盆地に陣を築いた渡辺前綱は物見を多数出し、遠山一族、そしてその背後の甲斐武田家の動きを注視していた。駿河今川家の動きは既に気にしていなかった。尾張を抜かれれば話は別だが、そうでもなければ駿河今川家の軍勢が二十里の山道を踏破しての攻撃をかけて来るとは全く考えられず、しかもそれをしたところでさして得るところはないはずであった。また、既に清須城包囲の解放に向けての兵が動いている頃合であり、尾張で何らかの失策が起こりそれが渡辺前綱隊に影響するのであれば、既に報告が来なければおかしかった。報告がないということは、今のところは順調であるようであった。

 竹中重治がその父竹中重元に文を出し、捕虜は明智の庄で引き渡し清水山で預かることとなったため、護送の兵は明智の庄までの往復だけでよかったものの、それでもたっぷりと二日半という時間を要求した。


 瑞浪の土岐川を目の前にした陣を張った渡辺前綱隊は、四方に物見を密にしていたが、敵側に大きな動きは二つあった。

 一つは遠山一族の集結であり、苗木城へ兵を集結させていた。一族を率いる遠山景任をはじめとする東美濃遠山家が可能な限り兵を集め、苗木城に入っていた。兵糧その他の物資の輸送には手間取っているようではあった。これは渡辺前綱達の知るところではなかったが、年貢の収められる時期でもあったために年貢の収納と苗木城への輸送という二つの作業に、事務方が破綻をきたしていたためであった。


 もう一つは、渡辺前綱の恐れる事態が起こっていた。甲斐武田家の軍勢一万が馬籠峠を越えた、ということであった。

「確かか」

 渡辺前綱は何回か確認したが、越えた軍勢は確かに一万程度、それも甲斐武田家の軍勢であり、旗印からその主将は馬場信春であるということが知れた。渡辺前綱も馬場信春の戦ぶりの際立っているのは良く分かっていた。ただ、その率いている軍勢が、馬廻り郎党衆は別にしても一万の大部分は伊那谷の農民兵であるということのようであり、真に恐れるべき武田家の中核五千は未だ伊那谷の武田信玄に従っており動いていないようであった。すこしほっとした竹中重治に渡辺前綱は言った。

「弱卒であっても勇将が用いれば弱卒ではなくなることがある。それも一万という数であればなおさらだ。これに遠山家の軍勢が加われば、数の上ではこちらより多くなるやもしれない。……さて竹中重治殿、これからの策はいかに」

 既に明智の庄に後方から追いついてきた兵が到着しており、翌葉月十七日(9月1日)には姉小路家の美濃攻略部隊、一鍬衆一万、中筒隊三千、騎馬隊三千、合計一万六千に医療隊及び補給隊二千が集結する運びとなっていた。明智の庄に姉小路家に代わって不破家の兵が入って維持をするため、こちらについては特に心配はなかった。竹中重治は答えた。

「道は二つございます。一つは明知城、岩村城を攻め落とし中津川沿いに苗木城に向かう道。岩村城を足溜りに使うことが出来るという利点もあり、また明知城、岩村城の両城は守備兵が比較的少ないため、今のうちに攻め落とすは容易にございます。ただ遠回りになります故、岩村城付近で野戦、ということになるかとは思われます。

 もう一つは目の前の川沿い、中山道を五里程進み、直接恵那に出る道。この道で恵那に入れば、苗木城より二里半の地に出、要害らしい要所は苗木城の面している木曽川程度でございます。直接敵の本陣を突けるのが、利点でもあり欠点でもございます」

 ふむ、と少しだけ考えた渡辺前綱に、横から木田八郎が口を出した。

「明知城、岩村城にはどの程度の兵が残されているか、報告はございますか」

「両城共精々二百から三百、と。特に明知城は百数十とさえ見積もられてございます」

 それならば、と木田八郎が言った。

「隊の一部、一鍬衆三千、お預けいただければ両城共攻め落とせましょう。残りの兵で苗木城を叩く、これでよいのではございませんか」

「良く言った。それでは一鍬衆三千を預ける。木田八郎、明知城、岩村城を攻め落とせ。残る全軍を苗木城攻めに充てる、それでよいな」

 はは、と軍議が終了した。



 翌朝合流した兵のなかには、見慣れない兵が従っていた。稲葉一鉄が足軽二千を引き連れてきていた。渡辺前綱が尋ねると「陣借りだ」と一言言った。竹中重治はこれを聞き、木田八郎隊に加えるように、そして木田八郎を稲葉一鉄の補佐とするように言った。

「あの稲葉一鉄殿は頑固者にて、こうと決めたら引き下がりません。おそらく美濃での戦で西美濃からの兵が戦に参加せぬのに納得はいかなかったのでございましょう。兵糧その他、万事準備があれば、陣の端に置くべきかと。……木田八郎殿の補佐に置く、というのは、序列の差でございます。木田八郎殿がいかに軍学校出とはいえ、戦場往来の長い稲葉一鉄殿に学ぶことも多いことでございましょう」

 一々理に適っている、と渡辺前綱は感じたが、同時に人の感情についてはまだまだ経験の甘さが見えるような気がした。そのため稲葉一鉄と木田八郎を呼び、言った。

「稲葉一鉄殿、陣借りご苦労でございます。それなるは木田八郎、その下に三千の一鍬衆を付けまする故、合わせて五千、明知城、岩村城を攻め落としてもらいたい。我らは支度の済み次第恵那へ出申す。……木田八郎、稲葉一鉄殿の与力を申しつける。姉小路の名を汚さぬように奮起せよ」

 はは、と木田八郎が平伏して両者が下がった後、竹中重治は不思議そうな顔をしていた。

「稲葉一鉄殿ほどの者を木田八郎、いかに軍学校出とはいえ若輩の下につける訳があるか。策もよい、展望もよいが、人を学ぶことだ」




 午の刻を前に稲葉一鉄隊、木田八郎隊の合わせて五千を見送った後、姉小路軍は再び進軍を開始した。土岐川沿いの中山道を進み、日暮れ過ぎに恵那郡に入ることが出来た。渡辺前綱は物見を出し谷あいでの戦闘を警戒していたが遠山家の軍勢は苗木城から一歩も出ず、甲斐武田家の軍勢を待っている風情であった。渡辺前綱は青地茂綱に命じ一鍬衆二千、中筒隊五百を率いて中津川に陣を張らせ、渡辺前綱自身は残りの兵、一鍬衆四千、中筒隊二千五百、騎馬隊三千を率いてかなり下流で木曽川を渡った。一夜を木曽川を渡ったところで過ごした後、渡辺前綱隊はそのまま苗木城のすぐ隣の丘である深沢に陣を張るべく、苗木城へ向けて進軍を開始した。


 一方の遠山景任であった。甲斐武田家の軍勢一万が苗木城へ入ることを約束してくれ、既に馬籠峠を越えたと聞いてはいたが、入城にはまだ一日以上の時間が必要となる見込みであった。物資の搬入も木曽川を使ったものは昨日中津川に陣が張られて以降滞っており、兵糧も心許なかった。

 いずれにせよこの苗木城主遠山直廉の手前もあり、接近してくる姉小路家の隊とは一戦せざるを得なかった。野戦での勝ち目は、限りなく薄いと思われた。



 奇しくも遠山景任の軍勢八千が陣を張ったのは、姉小路家が陣を張ろうと考えていた深沢の丘であった。この位置であれば、敗勢が濃くなれば苗木城へ入ることも出来、また甲斐武田家の軍勢の入城を支援する形も、川向うの中津川から攻撃をするにしても川を前にしての戦いとなるため有利に戦いうる、そう考えたためであった。

 渡辺前綱隊の到着に先立つこと一時、甲斐武田家の軍勢一万が苗木城へ入った。彼我の距離からすればこれを待っての攻撃なのかと遠山景任は疑念を感じつつ、全部隊に弛緩する気配が広がっているのを感じていた。甲斐武田家の軍勢が苗木城に無事に入ったことに安心した、と言い換えてもよかったであろうが、それは渡辺前綱には見逃すべからざる隙となった。


「撃て。早合、三連。……続いて投げ槍二投、騎馬隊突撃。一鍬衆は騎馬隊に続き突入せよ」

 渡辺前綱の矢継ぎ早の命令に、横にいた竹中重治は、これが戦の仕様しざまか、と感じていた。大殿、今は亡き斎藤道三に戦に勝つ極意を尋ねた時に、一言「期を外さぬことだ」と言ったその意味が、何となしではあったが腑に落ちた。

 遠山景任の陣八千の兵は、その大部分は最初の銃撃の段階で逃げ腰であり、更に天から槍が正に降ってくるという攻撃に驚き、指揮系統は既に壊滅し組織立った戦い方は出来ずに敗退した。だが被害は陣に籠っていたためにそれほど多くはなく、苗木城に入ることが出来た兵は五千五百を数えた。苗木城に入らず逃げ散った兵も多かったことから、死傷者も千もいないようであった。


 だが、ここに深沢の丘は、苗木城から半里に満たない距離にある深沢の丘は姉小路家の支配するところとなり、既に木曽川を利用した搬入も中津川に展開した姉小路軍の横やりにより難しく、苗木城への物資の搬入は絶望的になった。

 渡辺前綱は、苗木城からの出陣に備え、陣構えを直し縄張りを張り直し空堀を掘らせ土塁を巡らせ、そして武田信玄の出方をうかがっていたのであった。

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