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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第六章 東奔西走編
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二百八、美濃の陣

 草太達一行が稲葉山城に上り、それに遅れること一日、姉小路家の軍勢は陸続と関が原を越え美濃へ入った次第については既に述べた。

 姉小路家の兵はその数三万二千、この中には四千の非戦闘員が含まれていたものの、大部分が農民を集めた雑兵で構成されたこの時代の他の戦国大名の軍勢と異なり、その全てが専業の訓練を受けた兵であるという一点において、装備をさておいたとしても一線を画するものがあった。



 姉小路家日誌天文二十四年葉月十三日(1555年8月29日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、大垣にて軍勢を迎え、木下光秀殿に先導させ田中弥左衛門を将とする一隊を派し候。残る兵をば纏め、渡辺前綱先手を務め稲葉山城下を通り長良川沿いを関へと向かい(略)旧明智の庄にて合戦仕り候」

 遠山家の軍勢は、確かに精兵ではあったものの明智の庄で戦ったのは一分家である明知遠山家であり、三遠山とも称される東美濃の名家ではあったが、所詮は一国人に過ぎなかった。数も装備も練度も、何もかもが明知遠山家の遠山景行の兵とは違いすぎたといえるだろう。遠山景行は落ち延び甲斐武田家の介入を招くのであるが、そうなるまでにもまだ一波乱も二波乱もあったのである。

 ただ、大垣で別れた隊は木下光秀が先導し、東へ向かった隊には竹中重治が従軍していたというのは、他の資料でも見える間違いのない事実のようである。



 稲葉山城での会見を終えた草太達一行は軍と合流すべく取って返した。その一行には一人の姿がなく、二人の人物が加わっていた。姿を消したのは蜂須賀小六、これは川並衆が名塚砦に籠っていると聞き、そこに合流するためであった。加わった二人は言うまでもない、木下光秀と竹中重治であった。この両名が先導役となり、尾張美濃での戦を助けることとされていた。


 大垣で渡辺前綱率いる先陣、渡辺前綱を主将とする一鍬衆五千、中筒隊二千と合流した一行であった。本陣として平野右衛門尉が率いる隊は北近江で訓練を終えた兵は既に合流を済ませ、半日遅れで移動中ということであった。竹中重治は言った。

「尾張の情勢は気になりますが、既に敵陣は固まっております。一方、東美濃の情勢は切迫しておりませんが敵陣は固まっておらず、こちらが急ぎ動けば地の利を得ることもできましょう。先手は東美濃へ出し地の利を得、尾張へは本陣より兵を出すべきでございましょう」

 渡辺前綱には、尾張を助けるにはこの先手では足らぬ、そう言ったように聞こえた。それ故に言った。

「尾張が今攻められている、それを救援するための出兵ではないのか」

「尾張と共に美濃も攻められてございます。清須城の織田信長殿は未だ健在、後方から川並衆の攪乱在り、ならば一月は問題ないかと」

 竹中重治が涼しい顔で言うと、尾張に援軍を呼び込むべき木下光秀もこれに同調し、言った。

「あの殿がこれしきのことでへこたれるとは思えません。が、誰か使いを立て援軍来たれりと伝えれば兵の士気も上がるかと」

 これには竹中重治は反対であった。

「お主が行く、と言いたいところであろうが、危険すぎる。相手はあの岡部元信、そうそう城内と連絡は取れぬ。それにお主には尾張への道案内という重大な役目があるはず。それを果たさずに清須城に戻ることは許されぬと心得なされ」


 草太はこのやり取りを興味深く見ていたが、やがて言った。

「竹中重治殿、道案内を頼む。渡辺前綱、そなたは先手全軍と共に東美濃へ進出し、全軍の半分以上、二万程度はそちらに振り向けられるよう陣をはれ。尾張へは田中弥左衛門に本陣より兵を分け、野戦にて叩く」

 竹中重治は、陣取りはどうするかを尋ねてきた。すると草太は言った。

「狭い山間やまあいを避け、平地での戦が上々。ならば関へ長良川を遡り、そこから東へ進むがよかろう。明智の庄の辺りに陣をはれれば上々だが、さて相手次第だ、細かいところは任せる」

 竹中重治は驚いた。確かに飛騨は美濃のすぐ北であり、飛騨から郡山を経て南下すれば関であった。地理に明るいのは不思議でもなく、また武将の心得としても地理は心得るべきものの一つであった。しかしここまで美濃の地を、まるで掌を差すように示すのは、なるほど飛騨半国から一大勢力を築き上げただけのものはある、と感心した。



 草太達一行を残して渡辺前綱率いる先陣、一鍬衆五千、中筒隊二千は葉月十四日(8月30日)、関に至り、そこから東へ向かい明智の庄の跡地を目指して進んだ。明智の庄の跡地には既に住人がいた。明知城から移り住んだ移民、そして土地なしの浮浪者の一群が明智の庄の跡地に既に村を作っていた。明智の庄に住んでいたものは既に追い出されていたものの、耕作可能な土地が空いていればそこに人が住み村ができるというのは、ある程度当然の成り行きであった。旧明智城は廃城となっており、拠るべき陣とすべき建物は一つもなかったといってよい。寺社仏閣などがあればそこに拠るのも一つの法ではあるが、この地域は未だそこまでは復興していなかった。

 渡辺前綱率いる先陣は明智の庄に着くや、その村を抑えた。いずれは配下の誰かの所領とするか、或いは自身の蔵入地とするかはべつとして、当面は代官が置かれていた。その領域を明知遠山家が領有していると主張するためのものであった。当然にして姉小路軍の接近は、姉小路軍が関を越えたころにはもたらされ、代官は逃亡した。軍備も城もないただの開拓中の村であり、元々の明智の庄の者もおらずめぼしいものは既に略奪されていたため代官が固執するような地でもなかったためでもあり、また明知城に知らせる必要があるためであった。


 渡辺前綱率いる先陣が着いたころには明智の庄は既に日が落ちようとしていた。明智の庄の周辺、元は砦があったと思しき小高い丘に土壁を巡らせた陣をはり、渡辺前綱は物見の報告を待った。予測では明知城、岩村城、苗木城などの遠山家の拠点から、既に兵が出陣しているはずであった。

 程なくして物見からの報告が上がってきた。明知城より兵四千が出陣、岩村城、苗木城は未だ動かず、とのことであった。おそらくは威力偵察に近い一撃であろうと察した渡辺前綱は、陣を出ての迎撃を企図した。


 陣には一鍬衆千、中筒隊五百が残り、まだ張り終えていない陣を張り、掘り終えていない空堀を掘り続けさせ、渡辺前綱自ら指揮を執って一鍬衆四千、中筒隊千五百を前に押し出した。また医療隊百が後方から従った。会戦の場は竹中重治と相談の上、明智の庄と明知城の中間にある土岐盆地、瑞浪盆地のいずれかを戦場とすることを想定して行動することとした。これは土岐川を前にしての戦いを想定したためであった。敵の進軍速度が早ければ土岐盆地、遅ければ前へ出て瑞浪盆地で戦う、と決し、既に日も落ちていたが松明を明々と掲げ、五千五百名の兵は進んだ。陣に残った千五百の兵に補給隊、医療隊五百は篝火も明々と焚き上げ、姉小路家の陣はここにありと示していた。


 土岐盆地へ進む姉小路軍の渡辺前綱の下に物見が来て、明知城を出発した明知遠山家の軍勢四千は瑞浪盆地に既に着陣していることを報告してきた。未だ岩村城、苗木城から敵軍が出陣したという報告はなかったが、渡辺前綱はこれらの城からの軍勢と合流される可能性を視野に入れ、可能な限り早い時点での攻撃を行う方針を立てた。とはいえ明智の庄から土岐盆地まで五里、瑞浪盆地に張られた敵陣までは更に一里半の道程があり、攻撃は直前で息を整える時間も考えると払暁となるものと見込まれた。

 渡辺前綱は小休止の合間に松明を持たせた兵を少数残して篝火を焚かせ、徐々に松明の数を減らしていった。これは遠目に見れば兵を要所に残しながら進んでいるようにみえ、松明の数から推測すれば三割近い兵を途中に残しているように見えるはずであった。このような小細工にさして意味はないのは、渡辺前綱には薄々分かっていた。この数年続いた戦場往来の結果身に付いた勘、とでもいうべきであろうか、物見の気配が見えない、という理由であり、竹中重治がその根拠を尋ねてもそれを説明することは出来なかった。


 葉月十五日(8月31日)払暁、中山道を瑞浪盆地に入った渡辺前綱隊は土岐川を押しわたって小休止し、物見を密にした。明知遠山家の軍勢は大通寺に本陣を置き、その周辺に兵を展開していた。渡辺前綱はこの小休止、そして姉小路軍の着陣に対応した動きがあるかと考えていたが、案に相違して明知遠山家の軍勢に動きはなかった。これには二つの可能性があった。既に何らかの策があり動きが目に見えないだけであるか、全く姉小路軍の存在に気が付いていないかであった。

 もう一つの可能性は、現在の陣容で十分に対応が出来ると考えているというものであったが、渡辺前綱には全くそうはみえなかった。渡辺前綱の感触では存在に気が付いていないというものであった。竹中重治の意見も同じであったが、こちらはもう少し論理的であった。それは、もし何らかの策があるのであれば、それは瑞浪盆地に入る前、おそくとも土岐川を渡る前に攻撃がなされなければならなかった。半里しかない、しかも川などの障害物も何もないこの位置まで姉小路軍の接近を許しては打てる策はほとんどなかった。後方からの奇襲部隊を用意しているとしても、そしてそれが物見をすり抜けることに成功していたとしても、後方の土岐川を渡っての奇襲の成功は期し難かった。


 そして小休止が終わった後、朝靄の中で姉小路軍は距離二丁まで急接近し、まず中筒隊が銃弾を放った。気が緩んでいるのか、見張りも居眠りでもして立っていなかったのか、この攻撃によって明知遠山家の軍勢は姉小路軍の接近を知ったようであった。これは後に捕虜の一人から聞き出したことであるが、明智の庄からの出撃は知っていた。その時刻から渡辺前綱隊が到着するのは昼過ぎから夕方と見られており、払暁の攻撃は予想されていなかったため全軍に休息を取らせていたためであるということであった。

 いずれにせよ、銃撃を二撃打ち込み、八百近い兵が脱落しただけでなく、全軍弛緩しきっていた明知遠山家の軍勢は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。そこへ一鍬衆が、投げ槍も投げずに三間槍を持ち殺到した。

 明知遠山家の軍勢は至る所で打ち破られ、小集団ごとに降伏し、本陣である大通寺の遠山景行は郎党に助けられ辛くも身一つで逃げ出したが、鎧はおろか佩刀すら大通寺に置き忘れるほどの慌てようであった。従軍していた小里城主小里光忠は自らの城から一里余りという油断もあったのであろう、遊び女を連れ込んでいるところを捕縛された。


「なんとも、弛んだ戦だ」

 頭をかきながら、ぼそりと木田八郎が言った。


 この戦で姉小路家は手負いも含め手取り二千四百という捕虜を得た。遊び女、行商人の類は召し放ったがそれでも二千余という数であった。常であればすぐに解放するところではあるが、東美濃遠山家、ひいてはその背後にいる甲斐武田家との戦いは始まったばかりであり、解放するわけにはいかなかった。渡辺前綱は対応に苦慮していたが、竹中重治が提案した。

「武装を解いて清水山へ送れば、竹中家の陣で預かりましょう。その後は姉小路房綱公の指示を仰ぎましょう」

 渡辺前綱は頷き、捕虜は武装を解除し手当てをした上で清水山目指して歩き出した。十里ほどの道程であり、三日ほどかけての移動となる見込みであった。このために渡辺前綱は明知城攻めを一旦諦めざるを得なかった。


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