二百六、草太の出陣
尾張に駿河今川家が、美濃に甲斐武田家がそれぞれに手を伸ばし、尾張は既に清須城を除く大半が駿河今川家の手に落ち、美濃は東美濃遠山家が甲斐武田家の手に落ちた。竹中重治は斎藤道三の遺策の通り西美濃の国人衆を纏め上げて姉小路家にその領するところを献じさせ、稲葉山城近郊の斎藤家の領土のみを美濃譲り状の履行として織田信長に継がせる、という実利、そして白菊姫を草太に輿入れさせ、姉小路家、斎藤家、織田家を縁続きとするという二段構えの策により、尾張美濃へ姉小路家の援軍を呼び寄せる策を打った次第については既に述べた。
姉小路家日誌天文二十四年葉月十一日(1555年8月27日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、令を以て軍を率いて観音寺城を出、関が原で後藤帯刀率いる近江兵を合わせ美濃に入り候。又牛丸重親、軍を発して飛騨より信濃を脅かし(略)」
この項にある牛丸重親の行動は、他の資料からすれば二十日頃である。姉小路家日誌にはよくある、合戦関連の日付がまとめられる一例だとみてよい。ただ牛丸重親隊の働きはこの時は単なる陽動でしかなかったらしく、ほとんど戦果らしい戦果もなく引き上げている。信濃攻略はこの後、信濃守護小笠原家の小笠原長時の帰還を助けるためとして行われるが、それはまた別の項で語るべき話である。ともあれ姉小路家はこの時、西に三好家という大敵を抱え、甲賀の調略が進んでいるとはいえ未だに六角家の脅威は去っておらず、伊勢北畠家、一向宗という難敵も未だ健在であるというのに、尾張美濃への援軍をほとんど即断したようである。
この後西美濃国人衆がこぞって武将衆となり、東美濃遠山家を滅ぼして美濃のほぼ全域を姉小路家の直轄領とすることになるが、そのような密約があったかのような姉小路家の動きである。
一説には既に姉小路家の調略の手が西美濃に伸びていたとする説があるが、この当時の西美濃の主である斎藤家は姉小路家と深いつながりを持ち同盟関係であるため、この時期に既に調略していたというのは誤りであろう。
因みにそれ以前も小規模なものは見られるものの、中折れ式の新型銃の大規模な使用が確認できるのはこの尾張美濃への出兵が最初である。
葉月十日(8月26日)の夜に緊急の軍議を開いた草太は、いつにない口調で出陣を命じた。
「美濃、そして尾張へ兵を出す。甲斐武田家、駿河今川家に目に物見せてくれるのだ。今すぐ動かすことのできる全軍を充てる。無論、三好、六角への抑えは残す。……弥次郎兵衛、どれだけの兵が動かせる。出し惜しみはなしだ」
は、と弥次郎兵衛が答えようとした矢先、滝川一益が言った。
「確かに美濃は我らが同盟関係にある相手、ですが今すぐ美濃を助けるほどのことでございますか。両者争い、甲斐武田家が疲弊した、その後に叩けばよろしかろうと存じます。またなぜ尾張まで助けるのでございますか。白菊姫を娶るという、その義理でございますか」
こういうと渡辺前綱が言った。
「これ、黙らぬか。御屋形様の命だ」
「黙らぬ。御屋形様の命だとて、納得のいかぬものは納得がいかぬ」
滝川一益は強情であった。それを田中弥左衛門が不思議そうに見ていた。
「滝川一益殿、そなたには分からぬのか。所詮は他国者であったか。……美濃の北には飛騨があるのだ。その南部は三木領でな、我らが働きにより切り従えた。その際にはそなたもおったであろうが、あの戦で疲弊した三木領には、防衛体制を未だ構築できておらぬ。一年ほど前、あの朝倉の背いた一件、あの一連の戦で甲斐武田家は動いたが美濃は動かなんだ。美濃が動けば飛騨は危うかった。それが分からぬそなたではあるまい」
ぬう、という顔の滝川一益は、それでも言った。
「だがなぜ尾張まで」
「黙れ」
草太が低い声で言った。
「飛騨と美濃は唇歯の間柄、それと同じように美濃と尾張は唇歯の間柄だ。分からぬとは言わせぬ」
滝川一益は、この言葉にはっとした様子であった。美濃が敵地になれば飛騨が危うい。それと同じように尾張が敵地になれば美濃が危ういのだ。
「黙りませぬ。それをいいだすと尾張と三河は唇歯、切りがありませぬが」
滝川一益が尚も言うと、平助が言った。
「御屋形様の志も果てしなくきりがない。が、ここでは今は言うまい。だがな、飛騨は御屋形様の故郷、我らが本拠地であり失うことのできぬものがあるのだ。危険にさらすまいぞ、と思うからこそ牛丸重親殿を配してまで守っておるのだ。わかるな」
こういわれると滝川一益も黙るしかなかった。改めて弥次郎兵衛が説明を始めた。
「三好家は、内ケ島氏理殿が抑え、更に越前兵が山城にございます。更に比叡山延暦寺の僧兵も京の防衛には協力的であり、奈良興福寺、筒井家をはじめとした大和国人衆の協力もございます。それ故、この方向は南近江の守備隊を兼ねても問題はございませぬ。南近江には土地勘のある磯野員昌殿に五千を与えて遊兵とし、更に防衛線維持のための八千があれば足りましょう。蒲生定秀殿の下には雑賀衆もいる様子なれば、こちらもさして気にするほどのものではございませぬ。それ故、京での戦いに投入されたのと同規模の一鍬衆一万五千と鉄砲隊五千、騎馬隊三千、これに近江北部で訓練の終了した一鍬衆三千と鉄砲隊千、騎馬隊千が動かせる全軍でございます。……鉄砲隊と申したのは、中筒隊と中折れ銃隊の合計でございます。近江北部の千、この南近江から出す鉄砲隊二千の合計三千は中折れ銃でございます」
「中折れ銃の弾はいかほどある」
草太は気になったことを尋ねた。一人三十、との答であった。一度の戦いならば充分であったが、三度目ははや弾切れとなるばかりの数であった。
「少し心許なきものでございます。許可をいただければ中折れ銃隊にも中筒を携えさせたいと考えてございます。その分近江の中筒は減り訓練にも支障が出ることになりますが」
「いや、出し惜しみはなしだ。二挺目を許す」
吉田重政よりこの時、提案があった。
「御屋形様、某は出陣せず残る組とされてございます。それ故、弓隊を育てることをお許しください」
草太は、銃の威力はもちろん分かっていたが、近江攻略後から弓の利点も分かってきた。まず雨であれ使えるということ、訓練すれば速射性に優れることの二点であった。また矢も銃弾よりも安くついた。訓練にかかる時間は鉄砲よりも長くかかるが、それだけの意義は持ち合わせていた。
「よかろう、許す。六角家にいた弓隊の過半は六角義治が引き連れて越前へ引き連れて行ったが、鈎の陣に入った弓隊は未だに我らの悩みの種。意義はあるだろうよ」
一鍬衆一万八千、中折れ銃隊三千、中筒隊三千、騎馬隊四千、合計二万八千、これに相応の補給隊及び医療隊が付くとすれば、総勢三万二千程である。大軍、と言ってよい。数の上だけからいえば甲斐武田家も遠山家を加えればこれよりも多く、また駿河今川家もほぼ同じ規模の兵を用意していた。ただしその質は大きく異なっていた。甲斐武田家、駿河今川家の兵はほとんどが農民兵であり、胴丸に陣笠、刀槍の類はそれぞれの領主の自前であり練度もさほど高いものではなかった。また鉄砲も甲斐武田家、駿河今川家ともに小筒が中心でありその数も少なかった。弓も農民兵であれば元々が狩人の兵程度しか扱えないため、ほとんどが雑兵であるといってよい。
無論、だからといって侮ることは出来ない相手であることは、草太をはじめ姉小路家の諸将は知っていた。
「服部保長、敵情を可能な限り正確につかめ。渡辺前綱、滝川一益、田中弥左衛門、平野右衛門尉、兵をすぐに動けるように支度させるのだ。更に磯野員昌に留守の間の南近江を任せる。早速準備を始めよ」
諸将は軍を整え出陣の支度をし、更に宮部城にいる後藤帯刀にも出陣するよう使い番が飛んだ。篝火がたかれ、夜を徹しての出陣準備となった。全ては翌早朝の出陣に間に合わせるためであった。
その夜、草太はつうの部屋で過ごした。つうの出産までに戻れるとは限らず、更に側室が増える、そのことを話すとつうは笑って言った。
「そのようなことは些事にございます。つうは御屋形様を、草太を信じております。ご無事にお帰りを。それだけを願っております」
明けて翌葉月十一日早朝、草太は観音寺城を出陣した。
先手としてまずは先陣、渡辺前綱を主将とする一鍬衆五千、中筒隊二千。これに引き続いて本陣として草太が一鍬衆八千、中折れ銃隊二千、騎兵三千が出発し、これに遅れて後陣として滝川一益率いる一鍬衆二千と中筒隊千が、集まり次第補給隊と医療隊を護る形で出立することとなっていた。勿論、最低限度の補給物資、医療隊は先陣、本陣共に引き連れていた。
いや、正確に書こう。本陣として兵を率いていたのは草太ではなく平野右衛門尉であった。草太は先陣に前後して弥次郎兵衛をつれ、護衛として平助、諸岡一羽を供回りとし、蜂須賀小六の案内で密かに先立って美濃へ入ることとした。
これは白菊姫の件もあったが、それ以上に斎藤義龍と面会してこの援軍について話し合うこと、そして西美濃国人衆の処遇について話し合うこと、更に特に今回の策を実際に取りまとめたとされる智将、竹中重治との顔合わせのためであった。竹中半兵衛重治、草太の記憶にある歴史では豊臣秀吉を助けて中国地方を攻めるまでの間の軍師を務めるほどの人物であるはずであった。
会う場所は稲葉山城であった。
弥次郎兵衛は最初反対した。会うにしても途中の寺社であるべきである、という主張であった。草太一人を除けば姉小路家打倒の目がある、そう斎藤家が考えているのであれば、この意見はさして的を射ていなかった。草太一人を除けばよいほど楽な組織では、姉小路家はなかった。ただ、そうであっても草太という柱は得難い柱であった。
丁度同じころ、遠山家は一族を集め、兵を岩村城に集結させていた。その数は号して一万八千、だがその大部分は農民兵ですらない浮浪者を雇い錆槍を持たせて雑兵としたものでしかなかった。その中核となるべき兵力は、遠山家の直属の兵ともいえる兵三千であり、農民兵が五千であった。絞ればまだ農民兵は増えたであろうが、これ以上の農民兵の抽出は農作業への悪影響の懸念が大きかった。
だがその中核となる兵の練度も装備も、甲斐武田家の中核五千に比べれば格段に落ちていた。それでも西美濃国人衆の出せる兵力と比べてみれば兵力にせよ練度にせよさして大きな違いがないため、極端に不利ではないが攻め込むには後方の甲斐武田家の動きを待つ必要があった。川並衆の雇用は、先約があると失敗していた。
しかし甲斐武田家は伊那谷に陣をはってから動きがなく、先に遠山家に動かすものと見えた。
南方の尾張では既に今川家の兵が国境を越えて進軍を開始しており、あまり時間をかけて今川家が美濃に乱入した場合には、美濃における支配権は今川家と武田家の間で線引きをされ、割を食うのは遠山家であるのは明らかであった。そのため、遠山景任は兵を進めることを決め、武田信玄の下に軍使を発した。後詰の要請であった。




