表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
草太の立志伝  作者: 昨日の風
第六章 東奔西走編
212/291

二百五、清須城防衛戦

 織田信勝の謀反に対し兵を起こし末森城に追い詰めた織田信長であったが、その織田信勝の背後には駿河今川家があり、その最前線にある鳴海城を封じる形で配した善照寺砦には佐久間信盛が将として詰めていたが、末森城の将佐久間盛重の寝返り策としてこれを呼び寄せ、織田信長の三番家老、青山信昌を代わりの将として派遣した。次第については既に述べた。


 織田信光の最期を主題に取った講談「尾張の義将」にはこうある。

「織田信光公、天守よりはるかに遠くを見、信長は落ちたかと問えば、左右のもの声もなく、ただ嫡男市郎信成殿、はるかに落ち申し候と申し上げ、さて周囲を見れば万余の今川兵、那古野城を取り囲み(略)。織田信光公、囲みは破れぬが一人でも、多くを斬らんと欲して大薙刀を、鞘を払い自ら旗本と共に戦えば、雑兵どもも近寄るなく(略)。寄せ手の大将岡部元信、あれほどの武者也、弓矢にては無礼ぞと左右に言えば山口教吉応とぞ返し(略)、かくて義将は、先代織田信秀公の御恩を忘れた徒の手にかかりたり」

 講談は所詮講談である。この講談では那古野城に織田信成がいたように書かれているが実際には織田信長と共に清須城に戻っており、織田信光が那古野城の城将だったわけでもない。この時の那古野城主は飯尾定宗であったことが尾張一代記他の記録から強く推測されるが、いずれにせよ織田弾正忠の那古野城までは落城し、その支配権は庄内川以西、清須城を中心とした一帯にまで押し込まれたのは事実である。




 佐久間信盛がその与力である前田利家を伴って現れたのは、夜半を過ぎていた。佐久間信盛は柴田勝家の依頼に快く応じ、矢文を一本、打ち込んだ。これが当人に届けばよし、当人が知らずに織田信勝、林秀貞の知るところとなって手討という騒ぎになれば、それはそれでまた良かった。その混乱に乗じて攻撃が可能であったためだ。

 幸いに、というべきなのか、佐久間信盛の矢文は佐久間盛重の知るところとなり、日頃から疎まれている気配のある主である、かくなれば、という気持ちになり、矢文を返し、その未明には佐久間盛重の手引きにより大手が開かれ、夜明けとともに二の丸、本丸への攻撃が始まった。

「こうなることは予測済みだがな、いざなってみると辛いものだな」

 織田信勝は林秀貞に言った。もっとも、織田信長付家老の筆頭がここにいること、その意味は織田信勝といえども分かっていた。



「まだ落ちんのか」

 織田信長は少し苛立ちながら池田恒興に言った。林秀貞の指揮が良いのか、弓隊の数が多いためか、二の丸は意外の固さを見せていた。織田信長麾下の兵を総動員しても俄かには落ちる気配がなく、門扉を破壊するどころか未だ食違いになした虎口を越えて門にたどり着いた者もいなかった。姉小路家であれば門を諦め土嚢を積んで塀を越えるか、七太郎の棒火矢で塀を破壊するという方法を使うところであるが、織田家にはその備えはなかった。発想自体がなかったといっても良いかもしれない。


 その織田信長の下に急報が届いた。

「報告にございます。岡部元信、兵八千を率いて進軍を開始、鳴海城の山口教吉これに呼応し善照寺砦落城、守将青山信昌殿討死」

 ぴく、と織田信長の眉が動いた。驚きを隠し動揺を面に表さないのが武将の嗜み、とはいえ動かぬと見ていた駿河今川家の兵が尾張に進出してきたことは、脅威であった。織田信長は急遽作戦の練り直しを迫られた。善照寺砦が落ちたということは末森城から二里半には既に今川家の兵が充満していることを意味していた。攻城戦を行いながら野戦をしても勝てぬ、そう考えざるを得なかった。

 決断すると織田信長は早かった。

「兵を退く。佐久間盛重、殿しんがりをせよ。織田信成、そなたは急ぎ犬山城へ向かい信光殿に知らせよ。我らは清須まで退く。飯尾定宗、那古野城の物資を根こそぎ清須城に運び込め」

 命じるや否や織田信長は馬を引かせた。轡を取っていたのは池田恒興であった。ひらり馬上の人となった織田信長は、勝手知ったる尾張領内を一路清須城に向かって馬を駆った。近習のものも慌てて後を追い、池田恒興は森可成にこのことを告げるため本陣を駆けだした。


 一刻の後、末森城には既に織田信長麾下の兵は一兵もおらず、ただ織田信長に殿の命を受けた佐久間信盛、佐久間盛重、前田利家の三名が、先の戦で林秀貞を破った辺りに兵百五十で陣をはり、殿を務めていた。そこへ急を聞いた織田信光が自ら兵六百を率いて合流してきた。その兵の中には織田信成もいた。

 合流しては見たものの、八百に届かぬ兵であれば野戦で痛撃を加えるどころか一蹴されて時間稼ぎにもならない、と織田信光が主張し、そして言った。

「那古野城、あれからめぼしい物資は運び出されているだろうが、なに腰兵糧もある、我らの運んだ兵糧他の物資もある、あれに拠ろうと思うがいかに」

 確かに野戦よりは長く足止めできるであろうと思われた。


 日は既に暮れかけていた。佐久間信盛は左右に命じた。

「ここにあらん限りの旗を立てよ。篝火を明々とたけ。我らが大軍でここに陣をはっていると見せよ」

 そして兵そのものは那古野城に入った。既に飯尾定宗が大半の物資を持ち出しており、飯尾定宗自身は未だに那古野城にいるとはいえ、兵も五十ばかりしか残っていなかった。その様子を見て飯尾定宗は言った。

「佐久間信盛殿、悪いが殿しんがりは戦の花、譲ってはもらえぬか」

 殿に命じられている、と言ったが飯尾定宗は受け入れず、織田信光も嫡男織田信成に兵の大部分を預けて清須城へ向かわせた。前田利家は二人がこの城を枕に討死するつもりであると直感し、止めようとしたが佐久間信盛がそれを制して言った。

「佐久間信盛が役割は殿しんがりにて、それを譲るわけにはいかぬ。……が、那古野城より物資持出しの命を受けた飯尾定宗隊がもたついて我らが追い抜いても、それは知らぬことだ。織田信光殿については我らは特に何の命も受けておらぬ。ご随意になさるが良い」

 かたじけなし、との声を背中に受け、留まろうとする織田信成を連れて佐久間信盛は清須城へ向け兵を率いて去っていった。



 翌葉月六日(1555年8月22日)、佐久間信盛以下七百の兵は清須城に入った。既に那古野城は囲まれているとの報があり、更にその翌日那古野城は力攻めに落城した。

「報告します、那古野城落城、織田信光殿、飯尾定宗殿、討死の模様」

 物見が報告を上げてきた。囲まれた、と聞いた時にこうなることは予測できてはいたものの、そうであるからこそ助けられなかったことに対する織田信長の痛恨は深かった。広間にて軍議をし、敵情を述べさせれば織田信長自身にも救出の兵を出すどころか、自身の身の安全も望みえない状況であった。軍議の際に丹羽長秀が、判明しているところではあるが、と前置きしてから言った。

「駿河今川家の陣に後詰なく、ただ岡部元信隊八千、これに山口教吉の千に織田信勝の兵千、合計一万の軍勢が、現在はまだ那古野城にとどまっている様子に存じます。岩倉城には兵が集まっており、おそらくkこれとの合流、連携を図っているものかと思われます。美濃よりの援軍は、木下光秀が美濃入りしているものの東美濃遠山家は甲斐武田家の支配下にあり、これを叩くために西美濃の兵が動いております故難しかろうと」

 籠城か開城しての降伏か、さもなければ乾坤一擲の野戦という選択肢か、三つの案をそれぞれに主張する者があり、軍議は容易に決する見込みはなかった。一時、皆に頭を冷やすように言い、織田信長は軍議を打ち切って奥に入った。


 この休憩時間に木下秀満は森可成に言った。

「我ら新智の庄の衆、それから川並衆ならば民に紛れて後方より戦を仕掛けることも可能、さらば我らを名塚砦、新智の庄に伏せさせますよう願います」

 普通の将に言えば、これは危険になったから逃げを打とうと考えたか、と思われても仕方のない献策であった。だが森可成はこの策を受け容れて言った。

「わかった。殿には儂から言っておこう。すぐに立て。だが足軽組八番隊、あれは残してもらおう」

 城兵には城兵の戦いがあり、傭兵には傭兵の、民兵には民兵の戦い方があった。木下秀満のやろうとしている戦いは、正に民兵の戦い方であった。その代償は、最悪の場合であれば根切り、つまりその地域の住民の皆殺しであった。そのため、できれば取りたいとは思わない戦い方であった。だが森可成は、許可を与えた。未だ清須城は囲まれていないが、囲まれた場合には既に取ることのできない手段であり、新智の衆や川並衆が後方を脅かすのであればそれに対応する兵力を割かねばならず、当然にして清須城に対する敵兵はその分だけ減るためであった。


 奥の間で織田信長は考えていた。

 まず開城しての降伏、これはありえなかった。当然であった。家督を織田信勝に譲ることを了承しても、その後織田信長を生かしておく必要などどこにもなく、もっと言えば織田信長が死ななければ巻き返される危険性を考えれば、まず確実に斬首か暗殺か、いずれにしろ命は助からなかった。

 であれば、籠城か野戦かのいずれかであった。兵糧のことを考えれば敵は速戦を目指していると考えるべきであった。早稲わせ狩りをするにしても時期が少し早すぎた。しかも寡兵で多勢の相手を打ち破るのであれば、その狙うべき急所は将であった。だが岡部元信は未だ鳴海城にあり、末森城にさえ入っていないようであった。長躯して鳴海城を攻めても岡部元信の首級を上げるどころか、岡崎より本隊がなだれ込んでくるのは目に見えているのみならず、清須城を出ることは既に拠るべき拠点が全てなくなることを意味していた。

 織田信長は、分の悪い賭け、程度であれば乗るほどには勝負強さを持っていたが、全く勝ち目のない賭けに乗るほど愚かではなかった。その二つを明確に見極められるほどの才知をもっていた、といってもよいだろう。


 織田信長の肚は決まった。籠城であった。

 古来籠城で勝つには、後方からの支援は欠かせなかった。さもなければ敵陣の勢いが衰えた後に野戦をするだけであった。

 この意味で、織田信長は木下光秀が引き連れてくるであろう援軍に、未だ音沙汰はない上に美濃にその余力がないが、それでも引き連れてくるであろうその援軍に期待していた。その援軍は、おそらくは姉小路家の兵であることは予測がついていた。


 美濃の蝮、その置き土産、か。


 織田信長の脳裏には美濃譲り状の中の一行が浮かんでいた。「姉小路家と斎藤家、織田家は縁続きなれば」とあったな、と思い出し、そしてその策が斎藤道三のもう一人の娘白菊姫の姉小路家への輿入れであろうと見抜いてはいた。だが白菊姫を姉小路家に入れたところで、情勢の切迫していない美濃でさえ姉小路家の援軍が間に合うとは考えにくく、それ以上に尾張にまで援軍を出すとも考えにくかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ