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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第六章 東奔西走編
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二百四、末森城包囲

 木下光秀が稲葉山の麓にある井ノ口の街の竹中家の屋敷で竹中重治と会談した次第については既に述べた。同じころ、織田信長は清須城の兵二千に川並衆千五百、新智の庄の五十、織田信光の嫡男織田信成の兵五十を加えた三千六百の兵を率いて那古野城へ入り、翌朝、末森城を発した林秀貞率いる兵をすべく兵を進めていた。


 尾張一代記にこうある。

「織田信長殿、(略)末森城を攻むるも今川家臣岡部元信背後を突かんと天白川を越え、また岩倉城よりの兵清須城をうかがい候。織田信長殿、佐久間信盛に殿しんがりを命じて清須城に退き(略)」

 織田信長は華々しい戦の多い戦国大名ではあるがこの尾張継承戦を通じて、華々しい武功はほとんどなく、全体に見れば味方である織田信光の討死に代表されるように守勢に回っていた時期が長い。尾張継承戦は一月程度の期間を通じてのことであるが、そのうち最初の数日と最後の一週間ほどを除けば、中途のほとんど半月近くは攻められるのをただ守っているだけ、という風情であった。



 天文二十四年葉月三日(1555年8月19日)未明に清須城を立った織田信長率いる兵五百は、まずは新智の庄の衆、それに川並衆の待つ名塚砦へ向かった。ここに佐々成政率いる鉄砲衆二百、森可成の率いる足軽八番隊百五十は当然のごとく織田信長と共に出陣していた。これに織田信長直属の兵百五十が従っていた。後から織田信長の庶兄織田信広と柴田勝家が残りの兵千五百の集結を待ち、これを引き連れて那古野城で落ち合う、という予定であった。留守居は丹羽長秀であり、特に北側を警戒していた。言うまでもなく、岩倉織田家が清須城を狙って兵を動かす、それを警戒したものであった。

 名塚砦に付いた織田信長は、川並衆千五百、新智の庄の兵五十が既に終結を済ませていつでも出陣できる準備を整えているのみならず、辰の刻ということであり朝餉の支度として握り飯が支度されていたことに満足していた。支度にも相応の時間と手間がかかるが、それを木下光秀が出立前に手配していたことを意味していたためであった。


 織田信長は配下の兵五百に朝餉を摂らせ、物見を放った。森可成に川並衆の坪内利定、前野長康といった頭領を与力に付けた。森可成は坪内利定とは面識があったが前野長康とは初対面であり、今回の川並衆副将として配することとした。

 朝餉の終わった頃物見が帰り、報告した。

「林秀貞の兵八百、末森城より出て那古野城より東へ半里の地に陣を構えております。末森城に兵が集まっておりますれば、末森城より後詰の兵が来次第、攻め掛からんとの構えかと」

 織田信長には林秀貞の魂胆が見えていた。那古野城を攻めると見せかけて、その実狙っているのは野戦であり織田信長自身であった。この戦は将棋に似ていた。お互いに王将を、織田信長は弟信勝の、織田信勝は兄信長の、首級を上げさえすればその他がどうなっても織田弾正忠家の家督の帰趨は明らかであった。那古野城の攻略など、見せかけでよかった。

 もちろんそれを見抜けぬ織田信長ではなく、そうであることは林秀貞もよく分かっていた。であるからの、目の前に合戦場とすべき距離を置いての布陣であり、那古野城との挟撃を嫌ったものと思われた。


 後詰がどの程度か、織田信長には分からなかった。だが自身の兵は既に二千を数え、林秀貞の隊を圧するほどの兵を用意できていた。おそらく林秀貞にとって川並衆千五百の合流は誤算であった。織田信長ですら直前まで知らなかったほどであるから、林秀貞が知る由もなかった。織田信長は物見の報告を聞くや、命を発した。

「出陣する。向かうは那古野城東の林秀貞の陣、打ち破りし後、那古野城に入る」

 織田信長の命に従って諸将は動き始めた。彼我の距離は僅かに一里、さほどの時をうつさずに戦となるはずであった。



 一方の林秀貞であった。

 林秀貞も物見は怠らずに出しており、五百を率いて織田信長が清須城を出たとの報告を受けていた。林秀貞の兵は八百、陣を築いていることもあり、いかに織田信長が戦上手といっても不利であるという認識はなく、おそらくは一度那古野城に入り後詰を待っての合戦と思われた。そのため物見は那古野城に張り付け、特段の動きがないかを確認させた。事によれば城付きの守備兵をも繰り出して出陣することも、織田信長であれば考えられたためであった。あるいは、那古野城に入ろうと兵の気が緩む、その気の緩みに漬け込む隙が出るかもしれない、という淡い期待は持ってはいたが、林秀貞はそのような兵の気の緩みを許すような織田信長ではないことは良く知っていた。


 それよりも気になるのは織田信勝その人であった。

 後詰の兵が集まり次第、織田信勝自らが後詰千八百を率いて出陣することとなるが、こうなれば末森城には百と少しが守備兵として残るだけであった。柴田勝家が鍛えた精兵はほとんど前線に持ってきてしまい、末森城には林秀貞の手勢が、佐久間盛重の手勢と共に周辺からの兵の集結を待っているが、考えてみれば佐久間盛重は織田信長方の佐久間信盛の一族であり、今も織田信勝に付いているのは彼が先代織田信秀から織田信勝付家老とされたためであった。佐久間信盛の守る善照寺砦からの攻撃、そして佐久間盛重の内応による落城も、考えてみればありえない話ではなかった。

 いかんな。

 林秀貞は一つ首を振った。弱気になっていては勝てる戦も勝てない、そう思った。だが善照寺砦方面への物見も新たに出した。もっとも、鳴海城に備えるための最前線の砦から兵を抜いてまで末森城を攻撃するとは考えにくかった。善照寺砦から末森城までは距離にして三里、内応が確実に起こり何事もなく開城させることが出来たとしても往復だけで一日から二日、とあれば、昨今の三河での今川家の兵の集結を考えあわせれば善照寺砦から兵を抜くことは考えられなかった。

 とにかく、今は目の前の戦に気を入れるべきであった。



 織田信長の左右の将として、柴田勝家が従っていた。織田信長は柴田勝家を信用することにしていたとはいえ未だに与えるべき一軍は用意しておらず、というよりもこの時代の日本における兵の集団は、おそらく例外は姉小路家やその姉小路家の流れをくむ指揮系統を持つ軍組織だけであるが、中世封建制の編成であり、将に兵を与えただけでは軍としては機能しない。古参の武将が上に立ち、その命令を受けた下位の武将が、更にその命令を受けた下位の武士が、そして郎党雑兵の類という命令系統が必要であり、織田家であったとしても織田信長が任命したとしてもそれだけでは、柴田勝家の手勢がいればまだしも、それもなく単身を将として任命しても軍としての働きは期待できなかった。それ故柴田勝家は郎党数名と共に織田信長の馬廻りに加わり、いわば副将のような地位を与えられていた。


 名塚砦を出た織田信長の軍勢は、一時後、林秀貞と南北に対峙ていていた。織田信長は北側の低地に、林秀貞は南側の坂を上ったその上に陣をはっていた。到着からは少し時間が経っていた。それは双方が双方の出方をうかがっていたためでもあった。陣としてみれば坂の上の方が有利ではあるが、特に林秀貞は織田信長の率いてきた兵が事前につかんでいた情報の四倍近い数であることを知り、守勢を取ることを余儀なくされていた。柴田勝家はこの戦にどうにも気が乗らないものを感じていた。当然であった。相対している林秀貞の率いている兵は、柴田勝家が手塩にかけて育てた精兵がほとんどであったためだ。何やら思案顔をしている柴田勝家に、織田信長の母衣衆の一人神子田正治が声を掛けた。

「なにやら気が乗らぬようでございますが気に入りませぬか」

 事情は察していたのであろう、何が、とは神子田正治は言わなかった。柴田勝家が頷くと、神子田正治は言った。

「ならば、こちらに引き抜きましょうか。なに、殿に許可を取り、大音声に末森の衆に声を掛ければよい。こちらに合力するなら寝返り候え、と」

 ふむ、と柴田勝家はこの神子田正治の案を考え、そして礼を言うとすぐさま織田信長の下に駆け下った。策を聞いた織田信長は、であるか、と短く返し、ならば右翼より声を掛けよ、我らは中央から仕掛ける、と命じた。


「末森の衆よ、柴田勝家、義により尾張織田弾正忠家の家督は織田信長様にお味方いたす。我が下で働きたいものあれば、こちらへ参れ」

 果たしてこの策は、大いに当たった。林秀貞は元々文官よりの、兵を率いて戦い調練をするよりも内政をしている方が合っており、事実として柴田勝家が織田信勝の武を担当する家老であった。それ故に兵は柴田勝家についており、織田信勝が普段から偶には兵を練り、なおかつここにいれば話は全く別であっただろうが、現実はそうではなかった。柴田勝家の声に、前線の兵が動揺すると同時に末森城の城兵は大部分が動き始め、潮のように東へ、柴田勝家のいる方へと流れていき、動揺しただけで動きがないのは林秀貞の手勢百だけであった。

 その手勢百にも動揺ははしっていた。七百が向こうに付けば、今でさえ八百対二千余という劣勢であるのに、これが百対二千八百余という状況となるためであった。ここまでの数の計算は出来ぬにせよ、相手の方が多いのにその相手の数がさらに増えこちらの数が減る、その意味を理解せぬものは一人もいなかった。林秀貞の手勢の一人がその波に入ると、当然のようにまた一人、また二人と波に加わる兵は増えていった。林秀貞は軍勢の引き締めを命じ逃げる者を二三切り捨てさせたが埒が明かなかった。

 その間、兵を動かさずにおく織田信長ではなかった。森可成の与力とした川並衆を前進させ前線に圧力を加えさせると柴田勝家の元へと走る波はさらに大きく広がりを見せ、林秀貞はもはやこれまでと兵を纏めて撤退を命じた。


 撤退後、織田信勝の後詰のための兵糧の類を収め、更に柴田勝家が降伏させた兵七百五十を柴田勝家の隊として編成させ、当初の予定であった那古野城に入らずそのまま林秀貞を追撃、可能であればそのまま林秀貞撤退の混乱に乗じて末森城を攻略しようと兵を進めた。

 戦場から末森城までは僅かに一里、林秀貞とその郎党が中心で大半が馬に乗る騎乗の武士であることもあり、末森城に付くまでに織田信長が追いつくことは出来なかった。


 末森城に入られた織田信長は、物見の報告から末森城には意外に兵の数が多く残されていることを知った。その数は千二百近くであり、近隣からの農民を徴したものであろう、とは柴田勝家の言であった。

「おそらくは周辺から集めた兵を後詰となして攻め寄せんとしていたものが入っているだけにございましょう。ほとんどは何の訓練もない雑兵、数は多いと言えども将を抜けば易かろうと存じます」

 柴田勝家の献策に、織田信長は頷かなかった。織田信勝も林秀貞も、織田信長が内心助けようと思っているなど両名は夢にも思わないであろう、既に調略ではどうにもならない状況に置かれていることは分かっているはずであった。だが柴田勝家は続けて言った。

「城中の兵は佐久間盛重が率いており、善照寺砦の佐久間信盛の説得なれば応じるかと」

 織田信長は、ここではじめて、であるか、と言った。

 早速佐久間信盛が呼ばれることとなり、代わりの将として青山信昌を派すこととした。夕刻には織田信広が兵千五百を率いて合流し、ひとまず末森城の包囲を完成させた。佐久間信盛による佐久間盛重の内応が成功するのであれば、攻城戦は非常に楽になる、そのはずであった。



 一方の末森城内では、軍議が行われていた。軍議といっても参加しているのは織田信勝、林秀貞、そして佐久間盛重の三名だけであった。本来であれば佐久間盛重の席には柴田勝家が座るべきであったが、柴田勝家は出奔同然に城を出、織田信長と共に敵陣にいることは分かっていた。佐久間盛重も柴田勝家と昵懇の間柄であれば、織田信勝、林秀貞両名にとって佐久間盛重は位が足りないだけでなく、寝返りを警戒すべき武将でもあった。そのため軍議も早々に、林秀貞が籠城を主張すると織田信勝も同意し、佐久間盛重は特に発言することを許されなかった。更に陣割についても、佐久間盛重は農民兵を率いて外周、内側の二の丸、本丸は織田信勝、林秀貞直属の手勢三百五十で固めるという形をとることとした。

 これで軍議は終わりだと告げられ、早々に佐久間盛重は追い出されるように部屋を出た。そしていなくなったのを見て織田信勝は言った。

「籠城はよい。だが勝てるのか」

 心配はもっともであった。古来より籠城して勝つのは援軍が来るか、敵が兵糧切れなどで諦めて去るか、さもなければ期を見て逆襲をするかのいずれかしかありえなかった。このうち兵糧切れも逆襲で勝つことも難しい、となれば援軍が来なければ勝ち目はなかった。勝ち目がないなら籠城せずに降伏し、また母土御前に助けてもらい期を待つ、というのが織田信勝の見込みであった。もっとも、その土御前は既に首にされていたが、それを織田信勝が知る由もなかった。不安そうな織田信勝に、林秀貞が言った。

「既に今川家に使いを出してございます。岡崎にいる今川が動けば自然囲みは解け、その後方を突けば」

 林秀貞はここで言葉を切った。そしていった。

「織田家の家督は殿のもの、尾張下四郡は殿の領地、そうなりましょう」


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