二百三、続、斎藤道三の遺策
斎藤道三の遺策を受け川並衆を織田信長に合力させる手引きをした後、木下光秀は竹中重治との面談のために稲葉山の城下町、井ノ口の街に入った次第については既に述べた。
木下光秀は知己に会わないとも限らぬため、井ノ口の街に入るや一直線に竹中家の屋敷に入った。時に天文二十四年葉月三日(1555年8月19日)のことであった。
尾張一代記にはこうある。
「木下光秀、斎藤義龍の問いに竹中重治を評して曰く、天の龍でも土地の蛇には敵わぬ、竹中重治は美濃の龍なれば美濃で竹中重治に敵う者はあらず(略)。竹中重治、斎藤義龍の問いに木下光秀を評して曰く、彼の者は小さき策にて大きな策となすを知るもの也(略)」
木下光秀が斎藤義龍と面会したという記述は、尾張一代記、または尾張一代記が元となった書物にしかないため、現実であったかどうかは相当に疑問視されている。斎藤義龍のこの後の行動を見ても、木下光秀と会ったと考えるべき行動はほとんど見受けられない。しかしこの時点での会談そのものの史実性は否定されているものの竹中重治、木下光秀の両者が相手を評して互いに認め合っており、好敵手というよりも心強い味方として捉えていたのは事実であったようである。
木下光秀は午の刻に竹中家の屋敷の門をくぐったが、肝心の竹中重治はおろか竹中重元も屋敷にはおらず、屋敷にいたのは女房衆を除いては留守居の郎党が一人に庭師が数名だけであった。この庭師は竹中重治が特に雇っている者であると聞き、間者として方々へ派遣されているのかと尋ねると郎党は答えた。
「庭を直す前に時折旅をする程度でございます。野面石を運ばせて帰ってくることも多く、単に若の道楽にございます」
そう言って、竹中重治に離れにお通しするようにと案内した。
離れは方丈の簡素な造りであった。畳敷きであれば四畳半に相当するが、畳敷きではなく板の間であった。木下光秀は考えた。竹中重治の指示でこの離れに通されたからには、この離れに通すことそれ自体が何らかの意味があるに違いなかった。そのため木下光秀は離れを見まわし、仔細に観察することにした。
離れの壁は土壁であり、漆喰もないところを見ると質素であるとさえいえた。天井は板目のものを張ってはいたがさして上等なものであるとも思えなかった。畳も畳表が擦り切れたものであり、全体に質実剛健、というよりも起居できさえすればそれで十分という程度に考えているように思われた。竹中家は確かに美濃の中でも豊かな家ではなかったと記憶していたが、それでも嫡男の起居する離れを建てるのに不自由するとは思われなかった。木下光秀は、竹中重元が吝嗇という噂を聞いたこともなく、であれば別のところに銭を使っているためと考えた。
まずその木下光秀の目についたのは床の間であった。普通であれば刀掛けか書画骨董の類か、さもなければ生け花でも飾ることが多いものであるが、この床の間にあったのは箱庭であった。どこかで見たような箱庭であったが、それがどこかを思い出すことは、俄かには出来なかった。次に見たのは文机であった。文机に書が三冊おかれていた。流石に読むのは失礼が過ぎるかもしれぬとは思いつつも、興味に駆られて木下光秀はその書を開いた。その書は孫子注解であった。古典的な兵法書であるが、兵法を学ぶ者としては等閑にすることが出来ぬ書であった。ただ孫子注解は斎藤道三も所有していたはずであり積まれている三冊もその写本であるように見えたため、さして銭のかかるものではないように思われた。
だが木下光秀はそれ以上、目を引くものを見つけられなかった。違い棚には紙筆の類が置かれてはいたが紙は美濃紙の上質なものとはいえ特に何か書かれていたわけでもなく、手文庫や天袋を開ける訳にもいかなかった。長押には槍ではなく薙刀が掛かっていたのは珍しいことではあったがそれだけであり、第一に木下光秀自身も戦場で騎乗しない身となってからは薙刀を使っていたため、また美濃でも徒歩で戦うことも少なくないため、さして不思議ではなかった。だがその薙刀も、戦のため最上等のものを長押に置いたまま出陣したとは思えなかったが、鞘を払うまでもなく数打ちよりも多少上等、程度の出来のものとしか見えなかった。
木下光秀は、さて竹中重治がこの離れに案内させ、何を見せたかったのかを考えた。しかし、一刻程過ぎても分からなかった。
ふと木下光秀は厠へ立とうと思った。といって場所も分からぬため先ほどの郎党を呼ぼうと障子を開けると庭が見えた。庭には見事な枯山水があり、確かに野面石が幾つか並び、その間を川に見立てたのであろう白砂が幾筋か、そうして池に見立てたのであろう白砂が大向こうを飾っていた。白砂以外の場所は美濃であればどこでも見られる茶色の砂であり、ほとんどは黒砂ですらなかった。ただの土であると言われれば納得するような、どこの河原にでもある砂であり、いくらかの苔が生していた。砂に苔が生すとは不思議であったから、苔の下には石でもあるのやも知れなかった。黒砂は確かに存在はしていたが、少なかった。それは幾筋かの黒い筋を、縦横に走らせていただけであった。また樹木が一本生えていたが手入れがしてあるらしく形が整えられていた。野面石には或いは苔が生し、或いは野面のままであった。手前に大きな石が多く積み上げられ特に左側は屋敷が見えぬほど石が並んでいたが、奥はほとんどが平らであり、横一文字に白砂が横切って、といって左側では幾筋にも分かれており、庭の中ほどの少し右から奥へと向かい大きな白砂の池へとつながっていた。
だが枯山水に似つかぬものが二つあった。一つは長楊枝とも見える三四寸ばかりの串に色を塗った紙を添えて作ったのであろう小さな幡が幾本か立てられていることであった。概ね向かって右側が青く、左側が赤、左奥は黄であった。一際大きな幡は左側、植えられた樹の脇に作られた、白砂の筋の脇に作られた築山の頂上に立てられていた。
もう一つは、あるというよりあるべきものがないというべきものであった。それは三種類の砂が使い分けられれているにも関わらず、白砂の方は奥の池を除き平らで模様とてないものであるのに対し、茶色の砂は幾つかの築山が作られている他にも緩やかに波打っているように見えた。だが波打っているだけであり、寺社で見ることができるような模様は一つとしてみることができなかった。黒砂はただの筋でしかなく、模様を描くほどの幅もなかった。
木下光秀は、この庭を見てどこか見覚えのある、だがそれがどこなのか思い出せないもどかしさに駆られた。だが先ほどの庭師のことを考えると、竹中重治が銭を費やしているのはこの庭に他ならなかった。そのためこの庭をしばらく眺めていたが、やがて厠に立った。
厠は入ってきた通路を、入口とは反対側に曲がった先にあった。その先にある厠で用を足し、厠から出たところから枯山水を眺めた。
突然、木下光秀は理解した。
これは、尾張美濃を中心に、信濃、三河、近江に至る地図である、と。
樹は、稲葉山であった。野面石や築山は山であり、白砂は川であり海であった。黒砂は街道であった。苔は林であった。起伏はそのまま土地の起伏であった。なるほど見覚えがあるはずであった。縁側から見た庭は、鷺山城から稲葉山を臨んだ際に見える景色であった。
木下光秀は改めて床の間の箱庭を見た。街道こそ入っていないものの、それは木曽川、長良川の地図であった。戦いの要諦は天の時、地の利、人の和というが、そのうちの地の利は美濃であれば竹中重治は逃さぬようになしているものとみえた。
夕刻、陽も落ちようという刻限となって竹中重治が戻ってきた。竹中重治は木下光秀と通り一遍の挨拶を交わした後、長く待たせた詫びを言い、そして言った。
「待っている間、何をなさいましたか」
木下光秀は言った。
「庭を見てございました。赤き幡を青くすべく、黄の旗を動かさぬべく、庭を見てございました。囲まれている青き幡、この周囲の赤き幡を青い幡にしたく思いますが、中々」
竹中重治には、これで木下光秀は共に語るべき者であると信じるに足りた。
竹中重治は、まずは木下光秀の知る美濃の情勢を確認した。木下光秀の語った美濃の情勢は概ね正しく、ただ竹中重元と安藤守就が兵を出す気配があるというところまでしか掴めていないようであった。木下光秀は、これは推測であるが、と前置きをして言った。
「竹中家、安藤家とも兵を出す気配があるが他はまだ動きが鈍い。おそらくは両家は独断で兵を動かそうとしている、少なくとも斎藤義龍殿からの命で兵を出そうとしているわけではない、そう見ましたがいかに」
竹中重治は、木下光秀が情勢を掴みきれば斎藤義龍の命がないことを見破ることまでは予測しておらず、確かに斎藤道三の目に叶った人物であると改めて思いなおした。そして言った。
「美濃は、実のところさして危険ではございませぬ。甲斐武田家、後詰があり号して三万とありますがその実半数以上は伊那谷で集めた農民兵であり、残りも信州で集めた雑兵ばかりにございます。中核は先ごろ甲斐から善光寺平に出した兵のうち五千程であり、木曾谷に出した兵は武田信繁が率いて上州との境に兵を置いているようにございます。おそらくは上州に動きがあったかと」
上州、つまり上野国へはこのころ上杉憲正の求めもあり、越後長尾家が兵を動かす気配を見せていた。そのことは流石に竹中重治、木下光秀共に知らなかったが、西上野の長野家は上杉憲正から甲斐武田家の同盟者である北条家に寝返った者であり、再び寝返って甲斐武田家の背後をうかがっているとしても不思議はなかった。殊に、上杉憲正の背後に越後長尾家が、あの上杉謙信がついているとすれば、尚更であった。
「したがって、怖いのは中核である甲州兵五千、三万のうち二万五千までは、精々五千の兵で打ち破れます。ただこの中核の五千は」
ここで竹中重治は言葉を切った。おそらくは野戦では打つ手がない、そう言いたいのかもしれなかった。少しの間があって、竹中重治は言葉をつないだ。
「そう簡単にこの五千を傷つけることは出来ぬため、おそらくは国境を越えるのも最後でございましょう。越えるのは、勝ちが動かなくなった後であれば、戦わずにも済みましょう」
していかように、と木下光秀が尋ねると、竹中重治は言った。
「大殿は、斯様になることを読んでございました。斯様になれば、東美濃の遠山家を滅ぼさねばなりませぬ。しかし西美濃の兵で東美濃を討つのは難しく、良くても相打ちにございます。相打ちならばその後方の甲斐武田家三万、美濃全土を抑えるでしょう。それ故に東美濃を、西美濃以外の兵にて滅ぼす必要がございます」
「西美濃の他、となれば、姉小路家か」
流石に木下光秀は話が早かった。というよりも、兵を出せる勢力が伊勢北部の長野工藤家か姉小路家か、そのいずれかしかなかった。だが長野工藤は南部の伊勢北畠家との抗争により力を失いつつあり、更に一向一揆によって伊勢から兵を美濃へ入れることは難しい情勢であった。残るのは姉小路家だけであった。だが姉小路家が東美濃を得たとしても、細長い飛び地に近い領土が甲斐武田家、駿河今川家の両家と接するだけであり、守備のための費用は莫大に必要でありながら得られる石高は少なく、また甲斐武田家の領土に攻め入るつもりであれば直接信濃松本平へ入る道を通れば足りるため、姉小路家にしてみれば全く旨味のない土地でしかなかった。おそらくはその旨味のない土地に兵を出させる、それが策であろうと思われた。
その策は、と問う前に竹中重治は言った。
「それより危うきは尾張。今は上四郡を支配する織田伊勢守家が織田信長殿を圧殺すべく動き、今川家も下四郡の支配へ向かっております。織田信勝殿の内訌もありましょう。尾張が落ちれば次は美濃、流石に東より甲斐武田家、南より今川家の兵が圧力を掛ければ、姉小路家も当家を守り続ける訳もなく内応する者も出ましょうから、美濃はもちませぬ。それ故に、尾張は織田信長殿の下に統一してもらい、美濃と連携を取っていただく」
美濃と尾張は唇歯の間柄と考えたからこそ、尾張防衛まで含めた策を竹中重治は練ったのであった。おそらくそれは斎藤道三の置き土産ともいうべき策であり、指図でもあったのであろうが、細部はやはり臨機応変にせざるを得ず、その意味では竹中重治の策であるといっても間違いではなかった。
してその策は、と木下光秀はいささか焦れたように言った。竹中重治は簡単に言った。
「白菊姫、殿の、斎藤義龍の妹君でございますが、これを姉小路家に側室として出しましょう。縁戚なれば兵を出すのも易きことにございます」
木下光秀は些か拍子抜けした。落胆したといってもよかった。姫を一人差し出せば兵を借りることができるなど、甘すぎるように思われた。なんら利益のない出兵を、ただ側室に姫を出すからといってするほど甘い家では、姉小路家は決してなかった。しかし竹中重治は続けた。
「美濃と尾張は唇歯の間柄でございますが、飛騨にとっての美濃も唇歯の間柄、美濃が落ちれば南からの防衛に兵を割かねばなりませぬ。姉小路家の兵は平野で力を発揮する兵、山での戦いには向いておりませぬ。狭い山道で戦いに力を発揮する甲斐武田家の兵とは、飛騨の南で戦うにはいささか相性が悪いようにございます。それ故、名分があれば動くでしょう」
そういう見方もあるか、と木下光秀は少しこの竹中重治を見直しつつ、だが実利もなければ尾張までは守るまいと言うと竹中重治は簡単に言った。
「殿を説得し、斎藤家は姉小路家の軍門に降るつもりにございます。殿はまだしも、ご嫡男龍興殿ではこの先がありませぬ」
木下光秀は、竹中重治が斎藤龍興を龍興様ではなく龍興殿と呼んだことに、どうやら斎藤龍興を見限ったようだと気が付いた。だがそれは面には出さないだけの腹芸は持っていた。
「他の譜代はどうするおつもりか」
木下光秀の問いに、竹中重治は答えた。
「それぞれが決めることでございましょう。が、竹中家は武将衆に加わる所存。少なくとも西美濃四家である稲葉、安藤、氏家、不破は武将衆に加わる所存でございます。無論、この一件が終われば、でございますが」
「そこまで根回しが済んでいて、斎藤義龍殿はどう考えておいでだ」
何も、と竹中重治は言った。
「殿は知らぬことにございます。少なくとも表向きは」
もう一つだ、と木下光秀は言った。
「美濃を、斎藤義龍殿の跡は織田信長殿に譲る、譲り状に書かれていたのは、あれはどうする。大殿の、斎藤道三殿の遺志を無にするつもりか」
竹中重治は言った。
「譲り状通り、確かに譲りましょう。譲り状通りに。……譲り状にはこう書いてあるはずでございます。斎藤家の支配する美濃の地を譲る、と。支配していない地は譲れませぬよ」
何を、と木下光秀が言いかけると、竹中重治は手元の手文庫から一通の書状を取り出し、大殿からでございます、と木下光秀の前に置いた。
「激昂する気配あれば見せよ、との仰せにございました」
竹中重治の言に、木下光秀はひとまず書状を開けて見た。奉書紙にくるまれた書状を開けると、確かに懐かしき斎藤道三の手蹟でこう書かれていた。
「策とは斯様に使うもの、小僧は大仰に使いすぎるが、本来は小さく使うもの也。些事にこそ心せよ」
日付は長良川への出撃の前日であり、署名花押が書き込まれていた。なんとなく斎藤道三が人が悪く笑っている顔が見えたような気がして、木下光秀は竹中重治を許すつもりになってきた。勿論、織田信長がどう思うか、どうするかはまた別の話であり、織田信長の命令であれば美濃へ攻め入ることも辞さないのは変えるつもりはなかった。
いずれにせよ、木下光秀は竹中重治に姉小路家の援軍を呼ぶこと、そしてその援軍によって織田信長を助けることを決意したのであった。




