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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第二章 飛騨統一編
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二十一、政務事始め

 飛騨小島城から政務の中心である岡前館に起居を移し、政務を始めることとした。当面、戦をおこすようなことはないし、戦をしかけてくる勢力もない。なにしろ、雑兵となるべき百姓がほぼすべて農作業に追われる時期だからだ。半年は戦のない猶予がある。これはかなり重要なことである。


 草太は朝、起きるとともに、寝ていた布団の位置を昨夜敷いてあった場所に戻した。

「戦国大名というのはな、寝ている間に暗殺されることがある。だから、寝場所は分からぬようにせよ」

との興仙からの忠告である。眠る前に不寝番が襖の外に去ると、布団を部屋の中央へから隅へと移動させて眠るように心掛けていた。それも毎晩、別の隅である。不寝番に見とがめられたらその時はその時と腹をくくり、とにかく床下からの一撃は避けられるように板張りの上に畳一畳分ほどのうすべりを敷き、その上に綿入れをかけて眠るのである。これから夏に向かうからそれほどでもないが、冬になれば藁の中に潜るように眠っていた鞍馬山が恋しくなるかもしれない。少なくとも、今は板張りの寝室に畳を敷ける程度にはなろう、と変な決心をした。

 そうして、毎朝日の出と共に起きて朝食をとり、その後政務、ということになるのだが、政務を取ろうにも未だに日々の生活にどのくらいのものが必要なのかが正確に把握できず、そのための作業を優先させなければならないためだ。確かに記録は書いてある。昨年は例えば薪を月に十把買っている、などというのは分かっている。だが、どうもそのうち何把かはすぐに運び出されている上、売ったという商人に話を聞くと買ったのは八把であり、代金も三割ほど食い違いが見られる。その全てが城の帳面の方が多く書かれている。つまり差額を抜き取っていたものがいる、ということである。当然古川富氏一派であろう、と結論付けるのは早い。おそらくそういった腐敗は全域にわたって行われていたと見るのが妥当なのだろうと弥次郎兵衛は言った。

 無論、綱紀粛正のために引き締めは必要だが、引き締め過ぎて誰も残らないのは本末転倒も甚だしい。

 ということで、すべて古川富氏が行った「ことにして」、以後行われなければ追及はしない、と通達した。無論、中には古川富氏と共に甘い汁をすすった連中も多数存在しているが、それはそれだ。今すぐどうにかしようとするのは不可能である。


 行列で入国した三十人のうち二十人は勘定方に、残りの八人は勘定方と商人との昨年の取引の裏取りに、弥次郎兵衛はその宰領監督に忙しく、そういった作業のできない草太と平助は、暇であった。草太は手紙で城井弥太郎に勘定方となるべき人材と、それから何人かの花脊の村の村人を乾田の法の伝授のために派遣してくれるよう要請したがその手紙を持った一人を送り出したところで、伝令となるべき一人を除き、既に手元には平助しか残らなかった。元から城に詰めていた者たちを草太は基本的には信用していたものの、それでもまだ重要な事項を任せるつもりはなかった。

 といって、衣食住から門番、城詰、果ては草太の不寝番に至るまでを今まで通りに任せる辺り、元から城詰をしていた者たちにとっては「充分に信頼されている」と感じる行動であったのではあるが、そのものたちは基本的には一門衆である後藤帯刀とその配下が勤めているため、手をつけなかったという方が正しい。


 因みにもう一人、渡邊筑前守は傍系庶流であるため一門衆と呼ぶのはかなり微妙であったが一門衆を名乗ることを許した。年齢も二十代半ばとまだまだ若く、後藤帯刀の配下として城詰を行っていたが、一人でも味方を増やさなければならない手前、一門衆が増えるに越したことはない。

 彼は筑前守を私称しているように思えたが、聞けば父親が筑前に縁のある人物だったらしく本名が筑前守なのだそうだ。なので仮に飛騨守に任官した場合に改名しなければ、渡邊飛騨守筑前守という訳のわからない名前になってしまうらしく、本人も気にしている。現代風にいえば、子供に渡邊都知事とでも名付けるようなものであり、奇妙な名前をつけられて本人も困っているのだという。それでも改名しない辺り、親孝行なのか何か思うところがあるのか、何とも分かりにくい。近いうちに何かの手柄を立てさせて「改名を許す」と言ってやらなければならない。そうした大義名分でもあれば、何らかの名前に変えることは吝かではないはずだ。


 草太に出来る政務は、今はまだ四方の視察、村々を回り庄屋に土地を案内させる。精々その程度でしかない。しかし、牛車にも輿にも乗っておらず馬にまたがっているとはいえ、この村の人間は彼を天上の人のように扱った。何しろ、草太は堂上人、彼らは地下人である。時代が時代なら文字通り平服して顔を見ることも直答を許されることもない。

 だが、草太は最初に全ての村に触れを出した。草太の支配地に限り、草太に対して平伏は無用、直言、直答を全て許す、という前代未聞の触れであった。その上で、弥次郎兵衛の作業が終わるまではすることとてほとんどない草太は、支配地にある全ての村々を回ることとした。この慣習は、草太が回れる範囲内においてという条件が付くが、草太、そしてその影のように付き従う平助の二人は、支配地を回り続け民衆との交流を常に忘れなかった、と様々な逸話が残されている。だが、それらの逸話は、真偽のほどはさておき、また後日紹介することにしよう。さしあたっては飛騨国府周辺のことである。

 飛騨国府周辺で多くみられたのは、放牧地、というよりも未開拓地がかなりある、ということであった。また、鞍馬山付近であれば確実に棚田を作ろうという機運の持ちあがる区画でさえ、全くの手つかずのところが多く見受けられた。そのことについて下問すると、決まって帰ってくるのは、曰くそのような計画はない、というだけであった。無論、水利の便などは整備が必要ではあろうが、それでも概ね多少の灌漑で充分に水を確保できるのは、宮川の水量からも明らかであった。

 そういった地域を開発しない理由は、大きく三つに分けられた。一つは村と村の境目がはっきりとしないため。これは草太達支配者側の領分である。どこを境とするか、江戸時代には畔を少しずつずらして自分の土地を広げた話が残っているほど、この辺りはかなり繊細かつ微妙な話である。当然にして当人たちも神経質にならざるを得ず、更に水利権も絡むとなれば触らぬ神に祟りなしの言葉通り、両者共に触れないことで利害の先鋭化を避けているのだろう。

 二つ目に出てくるのは、資金、資材不足。要するに開発をするだけの余裕がない、ということである。

 三つ目に出てくるのは、人員不足。要するに、開発したは良いが、そこで農作業するだけの人員が確保できない、ということである。

 逆に考えれば、村と村の境目をはっきりさせ、資金や資材を供給し、そこで働くだけの人員を確保できれば、そこは荒地ではなく田畑になる、ということでもある。

 実際、戦国時代には三万八千石程しかなかった石高は、明治維新直後には五万七千石程へと、大幅に増えている。もっとも、明治維新直前の石高であっても、戦国時代の美濃、越中、信濃、加賀、越前といった隣国が軒並み五倍から十倍程度の石高を持っている辺り、飛騨の国は小国でしかない悲しさがあるが。

 少なくとも開拓、開墾による食料増産は、少なくとも土地の面積という面からいえば可能、ということが分かっただけでも、草太には明るい材料ではあった。


 草太がもう一つ探し求めていたのは、収入源となるべき何らかの名産品、特産品の類である。

 草太の目論見は、一つは郷土史の知識で養蚕が盛んに行われていたことから絹であったが、これはどうやら期待が外れたようであった。飛騨で養蚕が大規模に発展するのは明治維新を待たなければならない。実のところ養蚕自体は行われてはいるが、行われているだけであり、天候に左右されやすい非常に不安定なものでしかなく、しかも蚕がさなぎになってから羽化するまでの期間に茹でて絹糸として巻き取る時期に大規模な人手が必要となるが、この季節が、春の終わりころから秋である。現在は小規模に行われているだけではあるが、大規模に養蚕を行おうとすれば、農作業と養蚕の両立という弊害が出てくることが予想される。蚕を茹でて絹糸として巻き取っておけば、絹布として織って出荷するのは冬の仕事にするとしても、桑の葉の確保、農業との両立、そもそもの布としての織り方まで、相当な困難がある。到底、数年のうちに安定的な収入源として期待するのは無理であった。


 因みに明治期には温暖法という温度管理を行って一年中養蚕を安定的に行う方法が発明され、更に絹糸の巻き取りも人力から汽力(蒸気機関)や水力へと置き換わり、明治維新後の輸出という大きな需要もあって、飛騨地方の絹糸生産は最高潮を迎える。ああ野麦峠に描かれているように人買いに女工として長野へ売り飛ばすようなことではなく、逆に飛騨地方の女工を長野の工場が雇いに来ていた、というのが本当なのだそうだ。

 しかし、草太自身は温暖法も知らないし、知っていたとしても温度計一つ作れないから、結局のところ実行できない。透明なガラス一つ存在しないのだ。養蚕についての知識があったとしても、おそらくほとんど何の役にも立たなかったであろう。



 もう一つ目をつけていたのは漆器であったが、これも当てが外れた。春慶塗として増産をかければ、というのが草太の当初のもくろみであった。

 漆器は確かに飛騨地方でも盛んにつくられていたが、話を聞けばそれこそ日本中どこでも漆器を作っているものは多くあり、漆器を何とかして売り込んだとしてもさして利益を出せるという見込は全くなかった。いわゆる春慶塗が有名になったのは茶人としても有名であった金森氏が「わびさびに通じるものがある」として売り出してからの話であり、そういった売り出す方法がない現状ではどこにでもある漆器の一種、という程度の価値しか持たない。多少質が良いものがある、という程度であり、大きな利益は見込めそうにない。


 他にも、現代で言えば飛騨の名産といえば飛騨牛であるが、牛が大規模に消費されるようになるのは江戸時代後期を待たなければならない上、この時代の飛騨地方における牛は農耕用の大切な動力であり、現代で言うところのトラクターであり軽トラである。こういったものも名産品、特産品としては不適当である。大体、飛騨牛自体、子牛を買って来て飛騨で育てているだけであるから、飛騨だけで完結した産業として考えた場合には全く適当ではない。


 どうにもならない。生産という意味では、現状として簡単にできることなど何もない、ということは、薄々は感じていたとはいえ、草太には「現代知識とはなんだったんだろう」と考えざるを得ない状況であった。少なくとも現状として、ほとんど何の役にも立っていない。今後も役には立ちそうもない辺り、本当になんだったのだろうか。例えば温度計の読み方がわかったからといっても、温度計自体存在しないのだ。



 このことを弥次郎兵衛に相談すると、簡単な策を一つ講じることを提案してきた。関税である。

 ぶり街道が飛騨を通って信濃へ、ということは既に書いたとおりである。つまり、ぶりそのものは飛騨では精々塩を替える程度で消費されず、信濃に行って売られ銭に代わる。その売値が多少高くなろうが、こちらの懐は痛まない。

「だからね、旦那、じゃないや御屋形様、ぶりや塩といった、通過していくだけの荷に通行税をかけてやればいいじゃありませんか。何銭か。なに、どうせその分は信濃の売値に載せるだけで、信濃ではぶりは縁起ものですからね、値段が数銭上がったからといって売れる量はほとんど変わりません。塩だってそうです。高いからといって止めるわけにはいかない。で、その何銭かの分はこちらの懐へ入る。信濃からこちらへね。どうです、この案は」

「それにはまず、どの程度のぶりや塩が通っているのか、それからその通航銭を誰に払わせるのかをはっきりさせなければならぬな」とは平助である。口数は少ないが、きちんと見るものは見ているし話すべき時には話す。聞くことは聞く。平助らしい口の挟み方である。

「無論、その辺りの調べは我らは不得手、弥次郎兵衛殿、宜しくお願い致す」

「どうせ、ぶりは秋から冬の話だから、今すぐにどうにか出来る話ではありませんがね。その頃には手代衆も付いていることだろうし、言い出した手前です、やりますよ。やらせていただきますよ」

 それとなく平助は弥次郎兵衛の仕事を増やした形になった。この辺りが平助の上手いところだろうと感心する。草太ではこうはいくまい。勿論そつのない弥次郎兵衛であるから、年間を通じての増減まで加味した形で、おそらく運上金という形を取らせることで通行料を得ることだろう。


 この時の弥次郎兵衛は気がついていなかったが、草太にはこれが非常に強力な一手であることに気が付いていた。布石としてでしかないが、越中への侵攻の際、ぶり街道を利用する商人、ひいては人足衆には通行税の減免をちらつかせれば、少なくとも敵にはならない。おそらく味方として利用できる。越中の東半分への布石としての意味もあるという意味で、この手は使える。また、甲斐信濃への塩の道の一つはこのぶり街道である。彼らに対する牽制にもなる。


 まだ堺を経ったはずの手代衆、花脊の衆は興仙が宰領して連れてくるという手紙のみが来た段階であり、彼らの到着にはまだ少し時間がかかる。興仙がくるというのが非常に気になったが、それは来ないと始まらない。

 とはいえ、内政が全くどうにもならないというわけでもなさそうだ、という位の希望は持っても罰は当たらないだろう。


活動報告にも書きましたが、飛騨統一までの間は毎日0時に更新します。

推敲が甘くなる可能性もありますが、その場合はご指摘ください。

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