二百二、斎藤道三の遺策
美濃には甲斐武田家の軍勢が迫り東美濃遠山家が甲斐武田家の軍門に降り、尾張にはそれと歩調を合わせるかのように駿河今川家が手を伸ばしていた。尾張上四郡を支配する岩倉織田家は駿河今川家に恭順の意を示し、下四郡を支配する織田弾正忠家の内訌に乗じて支配の手を伸ばそうと、織田信勝を味方に引き入れんとしていた。だが尾張織田弾正忠家の織田信長は先手を打ち弟織田信勝を討った、少なくとも討ったと考えた次第については既に述べた。
尾張一代記にこうある。
「織田信長殿、末森城より戻りたる柴田勝家により織田信勝の挙兵を知り(略)。木下光秀、美濃へ参らんと織田信長殿に申し候。織田信長殿之を許し、(略)」
織田信長が一度許した織田信勝を一月ほどで謀殺しようとしたのは、気まぐれが過ぎるためであるという者もあるが、その理由は背後の駿河今川家の動きを勘案しなければ問題が多いものになるだろう。
駿河今川家が織田信勝、そして尾張上四郡の岩倉織田家を完全に支配下に置けば、織田信長は完全に敵に囲まれた形になり、兵法書に言う死地に置かれることになる。これを防ぐためには、織田信勝の排除は是非とも必要であった、というのが現在の通説である。
それにしても、木下光秀をこの時期に美濃に送ったのは援軍要請であろうか。斎藤家側の記録には木下光秀に関する資料は一つとして発見されていないため、詳しい理由は不明である。
天文二十四年葉月二日(1555年8月18日)の夜弟織田信勝を討った織田信長は、即座に尾張下四郡の支配を万全にすべく末森城を接収するために兵を出さんとしていた。土御前、拾阿弥、そして織田信勝の首を見たその夕に出陣を触れ、夜明けには二千の兵を引き連れて清須城から織田信長自らが出陣した。清須城は丹羽長秀が預かり、岩倉織田家の攻撃に備えていた。
この陣触れの後、木下光秀は出陣の支度をさせるべく新智の庄と名付けた領に戻っていた。出陣する先は末森城に他ならず、当然にして近辺を通行することとなるために握り飯の類を作らせ、また参陣できるものは足軽組八番隊の一部に組み入れるべく身支度を整えさせるためであった。
先触れとして木下秀満が既に新智の庄に入っていたが、木下光秀が新智の庄の屋敷に戻ると珍客が待っていた。それは川並衆頭領の筆頭、坪内利定であった。だがその身なりは乞食坊主の態をしていた。木下光秀は川並衆の内情については詳しくはなかったが、頭領、それも筆頭に上がる頭領が変わるとあれば耳に入る程度には詳しかった。未だそのような話は流れておらず、この格好はつまりは密行であるということを意味していた。木下光秀を見るなり坪内利定は言った。
「出陣は今夜か、明日か。まさか年が明けてからということはあるまい」
坪内利定は相変わらずの嗅覚を持っているらしく、戦の気配を正確に読んでいるようであった。だが川並衆はあくまでも傭兵であると木下光秀は知っていたため、言った。
「坪内利定殿、か。久しいな。戦の臭いを嗅ぎつけるのは相変わらずか。だが銭ならない。残念ながらな」
だが坪内利定はにやりと笑って言った。
「銭ならあるさ。それよりもまずはこの文を、な。一通は大殿からだ。こうなった時に渡すように言付かっている。もう一通はあの小僧、竹中の坊主だ」
こういって坪内利定は、手にした錫杖、遊環が二三本しかついていない古ぼけた錫杖に見えたその中ほどを捻って開け、中から二通の書状を出した。大殿とは言うまでもなく斎藤道三、竹中の坊主とは竹中重治に他ならなかった。その二人から言付かった書状とあれば、木下光秀は何を差し置いても読まずにはいられなかった。
斎藤道三からの書状にはこうあった。
「明智光秀は策の通り死に候えど有為の武士新たに生まれたると信じ候。この書至るとあれば、尾張統一は未だならずして今川の手伸び、尾張は死地ならん。美濃斎藤家の竹中重治に策あり、また川並衆千五百、既に銭は払い候故、存分に使うべし」
木下光秀は斎藤道三はここまで読んでいたと驚くべきか、こうまで行く末を案じて手を打っていたのかとありがたがるべきか分からなかった。だが確実に言えるのは目の前にいる坪内利定は川並衆を率いて参陣すること、そして竹中重治の策を実行するかどうかであった。斎藤道三の策である、実行すべきであるが、心情としてはその策を自分ではなく竹中重治に授けておいたというのが気に入らない面があった。
その竹中重治の書状にはこうあった。
一、東美濃遠山家、甲斐武田家の軍門に入り美濃斎藤家は織田信長殿を助ける不能
一、別に岡崎に乱破あり、今川は動くとも月余にて帰るべし。今は出ず堅く守りたるべし
一、白菊姫、姉小路家に輿入れいたし候はば、織田弾正忠家は姉小路家の縁戚也
一、既に姉小路家に動き之有。面談の用あり
一、所詮は小僧の戯言也。なれど聞き流さぬ有為の武士と大殿より聞き及び候故文を致し候。稲葉山にて待ち候
謹々恐言 竹中半兵衛重治
木下光秀は姉小路家という外部の兵力を当てにするのは、逆に乗っ取りなどの危険をはらむため可能であれば避けたかった。だが斎藤道三の遺命であり、それを無下にすることは木下光秀には出来なかった。出陣せずに城で守りを固めておけ、という書状は織田信勝を策を用いて討ったということを知らずに書いたものに違いなく、そうであれば状況が変わったとしか言いようがなかった。結局のところ末森城攻めの出陣を止めることを木下光秀はしないが、木下光秀自身は一刻も早く稲葉山城に登城して竹中重治がいう面談をすることとした。足軽組八番隊は木下秀満に任せ、坪内利定には話を通しておく故に川並衆は出陣後に合流するように指示をした。
そして木下光秀は必要な手配りを手早く命ずるとまた清須城に戻った。
早速に織田信長に会おうと取次に言うと、先客がいるということであった。柴田勝家であった。木下光秀は柴田勝家の内応により末森城を落とすつもりであろうと考えていたため、柴田勝家が清須城に来ていること自体に驚いていた。取次が一室に入り、そして出てきて木下光秀に入るように言った。入ると織田信長は怒ったような顔であり柴田勝家は平伏していた。織田信長は言った。
「禿鼠、来たか。あの信勝だがな、今日打った首は紛い物、よく似た影武者のものだ。林秀貞め、やってくれるわ」
実際には林秀貞が策を見抜いての行動ではなく、単に織田信勝が強かに酒に酔い清須城に登城させることができなかったのであるが、それは柴田勝家は話さなかった。それよりも善後策であったが、末森城を攻め落とすという方針そのものは変える必要はなかった。ただ柴田勝家の内応を期待できぬこと、そして守将として織田信勝が健在であることから、当初よりも激戦となることが予想された。
「信光叔父には文を遣わせてある。おっつけ返書も来よう。細かい戦の流れは別として連絡は密にせねばな。……して木下光秀、足軽組八番隊、何か問題でもあったか」
それよりも、と木下光秀は言った。
「柴田勝家殿はなぜここへ」
「先程のことだ。あの信勝が首、偽物であったわ。勝家がそうというまで分からぬほどの影武者、それも儂ですら欺かれるほどに似た影武者を用意するなど、信勝が手腕ではあるまい。林秀貞、あ奴の手腕よ。見事なものだ。逆に虚を突きこちらへ攻め寄せんとしているそうだ」
織田信長は愉快そうに言った。
「あれほどの手腕だ。敵に回ろうとさえせねば我が手元で追い使いたき者よ。残念ながら儂とは反りが合わぬ。惜しいことよ」
織田信長は木下光秀が末森城攻めの支度について何らかの支持を仰ぎに来たと考えた。木下光秀は斎藤道三の策を伏せ、新智の庄の兵を足軽組八番隊に加える、それも密かに坪内利定の川並衆を加える形で加えることについてまずは許可を求めた。織田信長はこの手回しの良さに何かを感付いたようだが、良かろうと許可を出した。数は、と聞いて織田信長は驚き聞き返した。木下光秀は再度言った。
「間違いではございませぬ。坪内利定が川並衆、千五百にございます」
これに足軽八番隊百五十名が従い、新智の庄の五十名が従う、とすれば既に千七百という数であった。織田信長は、それほどの銭の持ち合わせがあるはずもない木下光秀がどのような手妻を使ったか、何となくわかった。しかしそれには口を噤んでいった。
「何が必要だ。将か」
木下光秀は、織田信長の頭の回転の速さに、今更ながらに頷いていた。自ら選んだ主人であったとは言えないが、最後まで付き従うべき主人であると確信した。
「将が必要にございますが、それに加えてもう一つお願いがございます。某を美濃へ、稲葉山へ使いに出していただきたい」
「稲葉山か。……明智に戻ろうというのは許さぬぞ。明智光秀は死んだのだ。死人は蘇らぬ」
さにあらず、と木下光秀は言った。
「ここにいるは流れ者の木下光秀、所用在りて稲葉山は竹中の小僧に会いに参ります」
浮世の義理か、と織田信長が問うと木下光秀は、間髪入れずに殿のためにございます、と言った。織田信長は、であるか、と言った。それで決まりであった。
織田信長は手を打ち小姓を呼んだ。常であればこういう場合には前田利家が出てくるのであったが、今は池田恒興がその役であった。その池田恒興に命じた。
「森可成を、一軍をくれてやると言って呼べ。木下光秀、一人で行くのであろうな。……ならば残る木下秀満は森可成に、この戦限りで与力に就ける。坪内利定もだ。異存はないな」
はは、と木下光秀は平伏し、出陣の支度を急がせることとした。
部屋を出がけに、いつ頃戻る、との織田信長の問いに木下光秀は答えた。
「遅くとも月が替わるまでには。遅れるのであれば繋ぎをつけましょう」
「ならば此度の戦、その方の出番はあるまい。精々、弟の手柄の余禄を得るが良い。……弟は良きものなればな」
木下光秀は平伏し、そして戸口から出て戸を閉め、織田信長という人物の内面に深い傷を残した織田信勝の死、いや実際には影武者を使い生き残りはしたが、それでも一度はその手にかけたという事実そのものの影響が、やはり重く暗い影響を及ぼしているように思われてならなかった。
木下光秀は共に城下に来ていた木下秀満に事情を話して新智の庄の兵を坪内利定の川並衆と共に森可成の与力となったことを話し、その足で清須城を離れて北へ、稲葉山城へ向けて歩き出した。ただし城内にある八番隊のものに古着を出させ網代の笠を目深に被って両刀を手挟んだ姿であり、扇子袴の類はくたびれた風呂敷に入れて斜め掛けに背負い、竹筒に水を入れて腰に下げ、着流しの裾を尻に端折った姿であった。足回りは草鞋であり、替えの草鞋を刀の鐺につけた。目立って岩倉織田家の目を引かぬよう、夜陰に紛れられるうちはかけ通しに駆け、夜明けが近付けば宿場付近の社の陰で袴を穿きなおし草鞋を履き替え髪を一度乱して結い直し、その社の陰で眠り宿代を節約した態を装って旅人に交じり、勿論そういう態であるから朝食も摂らずただ竹筒の水を飲み、人の流れの多い道を通るために多少の遠回りもして、それでも八里半の道程を抜けたのは午の下刻であった。
一方、そのころ織田信長は既に清須城を二千の兵で発し、途中名塚砦で新智の庄の衆及び川並衆と合流し、更に織田信光の嫡男織田信成が兵五十を率い、初陣として参じていた。織田信長はこれを賞し、本陣に居りしばらくは動かぬようにとの命を発していた。
織田信長はこの時、岡崎には兵は多く集まっていたが物資、特に兵糧の集積がまだ不十分であるため、今川家の出陣はないものと判断していた。織田信長の中に、弟織田信勝を討ちたくないという意思がなかったと言ったら嘘であった。織田信長の脳裏には、今川家は動かぬか動いたとしても少数だけが織田信勝を救出するために出陣する、そうして織田信勝を逃しても末森城を落とし尾張下四郡支配を確立して秋から冬に岩倉織田家との決戦に臨む、という方策が立てられていた。
だが織田信長は、やはり情に篤かった。降伏してくれさえすれば、織田信勝は出家、林秀貞は今まで通り上級の家臣としての面目を保たせたい、そんな思いすらあった。何しろ織田信勝は既に清須城で討たれているのだ。これから攻める末森城にいるのは影武者であり、影武者であれば討つ必要はなく精々出家が分際であった。
甘い、と言わざるを得なかった。織田信勝が逃げたとしてその帰還のための挙兵とあれば今川家にはよい名分になるが、それを見抜けぬ織田信長ではなかったがそれは後の話であり、その甘さは情を殺しきれぬ織田信長という人物の魅力を構成する一部ですらあった。




