二百一、尾張の危機
美濃への甲斐武田家の侵攻に遠山家が武田家の服属を決め、西美濃の諸将は対応に追われていた。斎藤義龍は、亡き父の残した策である妹白菊姫を姉小路家に輿入れさせ援軍を求めるという策に同意した。一方で近江で甲斐武田家の美濃侵攻の報を聞いた草太は姉小路家の全軍に出陣準備を命じ、また留守居役に磯野員昌を充てた。この次第については既に述べた。
だがまだ述べなければならないことが残っている。それは甲斐武田家の美濃侵攻と歩調を合わせる形で行われた駿河今川家の尾張への進出である。織田弾正忠家の内訌に介入するという名目で駿河今川家が尾張へ向かうため、三河の地に兵力を集結させつつ調略を活発化させていた。
尾張一代記にこうある。
「織田信長殿、内訌の根を切らんと欲し、病と称して織田信勝を清須城に呼び寄せてこれを討たんと致し候。林秀貞これを見抜きて防ぎ、遂に檄を飛ばしての挙兵となり候。岩倉城の織田大和守家、織田伊勢守家之に応じ、更に駿河今川家之に応じて三河から兵を出し候。ただ守山城守織田信光殿のみ織田信長殿に味方せんと旗幟を明らかに致し候。柴田勝家末森城を抜け、(略)」
今川義元の上洛とも呼ばれることのあるこの尾張への出兵であるが、その戦略目標はどう贔屓目に見ても尾張から精々美濃、伊勢など隣接する国に僅かに出る程度までであるようであり、上洛して天下の号令を、と世に言われるほどの意図はこの時点ではなかったようである。それは兵数のみならず兵站に如実に表れている。
記録によれば四万を超える駿河今川家の兵に対して荷駄として運ぶ兵糧は五千石余りに過ぎない。途中で補給があることを考慮しても、二月分に足りない程度でしかないのである。したがって尾張制圧を目的とした短期的な作戦であったと考えられている。一説には尾張清須城に織田信長がため込んだ兵糧を当てにしての行動であったといわれることがあるが、筆者はこの説には反対である。清須城に大量に兵糧が残されており、短期的に清須城を制圧してなおかつ兵糧も確保できると確信していたということになるが、それは余りにも今川義元という人物が楽観的に過ぎるためである。
ともあれ、守山城の織田信光、善照寺砦の佐久間信盛という二つの拠点に挟まれる形ではあるが後方からの今川義元の軍勢の支援、および清須織田家、岩倉織田家の動向まで考えあわせれば、織田信長は追い詰められていたといっても良く、この時期が織田信長という人物の人生の中で最も危険な時期の一つとされる尾張継承戦が始まろうとしていた。
木下光秀が、味鏡天永寺の一室の織田信長の元へ駆けつけたのは、天文二十四年文葉月二日の早朝であった。
「殿、大変でございます」
織田信長は遠乗りの後の一服とばかりに休んでおり、相変わらずの犬と呼んで近くで使っている前田利家と小者数名を引き連れて味鏡天永寺へ来ていた。一服した後には平田祐秀に陣法の講義を命じてあり、この日は泊まって翌日帰ることのようであった。木下光秀の対応をしたのは、前田利家であった。
「どうした、禿鼠」
どういうわけか二十歳にならぬうちから月代が薄くなり、まだらに髪の毛があるために余計にその禿が目立ち、この頃は愛称として禿鼠と呼ばれていた木下光秀であった。内心面白くはなかったが、それを面には出さずに用件を述べた。
「殿、大変でございます、遠山一族、甲斐武田家に降りましてございます」
織田信長は、既にこのことを知っていた。そのために反応は薄く、畳に寝転がったまま顔を向けることもなかった。
「遠山一族が降り三河への圧力が減れば、さて三河に力のあるものは今川のみでございます。既に今川義元自身が出陣して岡崎に兵を集めております」
織田信長は、これもほぼ知っていた。今川義元自身が出馬したということだけが初耳であり、顔を向けて、であるか、と一言言った。
「殿、お判りだとは思いますが、今は岩倉城にいる織田信友殿、織田信安殿は既に今川に通じております。おそらくは織田信勝殿も」
この言を聞いた瞬間に、織田信長はぴたりと動きを止めた。そして暫しの沈黙の後、がばと起き上がり、言った。
「犬、柴田勝家からは何を言ってきている」
前田利家は、何も、と答えた。実際にはこの時、清須城に柴田勝家の手のものが密書を持って入っていたのだが、早朝に遠乗りに出たままの織田信長には行き違いになり密書は届いていなかった。
「禿鼠、献策させてやる。打開策を言え」
木下光秀は考えた。織田弾正忠家の家督を取るということであれば、織田信勝という一人を除けばそれで済むのだ。ならば、と簡単ではあるが同時に最も難しい策を献策した。
「殿、織田信勝殿を清須城に呼び寄せ、これを討ち取りなさりますように」
「で、どう呼ぶ」
織田信長はこの策を採用するようであった。木下光秀は先を続けた。
「まずは殿にご病気となってもらいます。幸いここは出先、ここより戸板にて城まで運びましょう。必ずや織田信勝の手の者の目に触れるはず。その上で清須城に入ってから家督のことでと呼び寄せれば、まず間違いはないかと」
織田信長は、であるか、と一言言って前田利家に言った。
「戸板を。病人であるからな。中風とでもしておけ。それから母の土御前だが、かねてよりの話が早まった。そうするように」
「畏まりましてございます」
そう言って前田利家は出て行った。何かの策があるのは察したが、それを尋ねても答えてもらえるとは思えなかった。そうしている木下光秀に織田信長が言った。
「病人だ。戸板だ」
木下光秀がにわかに騒ぎ出した。
「殿、殿、しっかりなさいませ。誰ぞある、医者だ、いやここではまずかろう、すぐに清須へお移し申し上げる。戸板だ。戸板を用意せよ」
にわかな騒ぎに天沢和尚も出てきてちらりと見て、天沢和尚も騒ぎ出し戸板を急がせたのを見れば、半ばは察するところがあったのであろう。
「これはここではいかん、すぐに城へ。清須へお戻しするのだ」
小者が戸板の上に信長が寝ころんでいた畳ごと載せ、その上に着物をかぶせて更に天沢和尚の綿襦袢をかけ、揺らさぬように注意させてから小者に戸板を担がせた。前後二人ずつ四人で担ぐというよりも差し上げて、戸板が揺れぬように清須城へ向かって進んでいった。走るほどの速度であったがほとんど揺れた様子がないのは、流石は織田信長の引き連れている小者であった。
一刻ののち、清須城の奥の一室に入れられた織田信長は、味鏡天永寺から付き添ってきた木下光秀の他、城に入った後は付き添っていた丹羽長秀、そして驚くべきことに柴田勝家自身が既に清須城へ来ていた。木下光秀がそっと尋ねると、柴田勝家は織田信勝が調略により今川側についたことを告げ、そして言った。
「朝方には密書を出したが殿は遠乗りとのこと、胸騒ぎがして心配になり清州の近くまで来ればこの騒ぎだ、登城しないわけにもいくまい」
とはいえ、柴田勝家は織田信勝の付家老であり、内情を木下光秀からいうのは憚られた。とにかく見舞いを、と織田信長のいる部屋へ入っていった。
木下光秀が戸を閉め、部屋の中に織田信長、丹羽長秀、柴田勝家、そして木下光秀の四人だけになった途端、織田信長は目を開いた。
「殿」
柴田勝家が何か言いかけたが、おそらくは織田信長は腹芸の苦手な柴田勝家という人物をよく理解していたためであろう、僅かに頷くと口をわずかに動かした。丹羽長秀が耳を近づけると、家督、信勝、譲る、と三語をかすかな声で言い、また目を閉じた。丹羽長秀が柴田勝家に行った。
「見舞い、ご苦労である。だが火急のことなれば使いをしてもらいたい。殿は家督を弟君の織田信勝殿に譲る、と仰った。すぐにでも織田信勝殿を清須城へお連れするように。しかと、頼みましたぞ」
柴田勝家は、畏まりまして候、と一言いうとすぐに部屋を出て行った。足音高く遠くへ下がる音が聞こえていたところを見ると、本当に急いで末森城へ戻ったのであろうと木下光秀には思われた。
柴田勝家が出立したのを確かめた直後、織田信長はがばと起き上がり、扇子を木下光秀に投げて渡した。扇げ、ということであった。
「天沢和尚の綿襦袢、暑うて溜まらぬわ」
ぼそりと感想が漏れたのは、木下光秀には織田信長らしくない言葉に聞こえた。本音を直接話すのは珍しい、そういう主であるためであった。驚いていたのは丹羽長秀であった。今の今まで高熱で唸り生死の境をさまよっているとばかり思っていたものがこの変貌ぶりであったためであった。
「禿鼠、大儀であった。長秀、謀で信勝を討つ。既に呼び寄せた。あとは首を見れば済む」
言葉少なに要点だけを命じたのは、常の織田信長であった。
柴田勝家は奥から駆け出るとそのまま厩へ入り、自らの馬を引き出すと飛び乗って早駆けに末森城に向かって駆けた。
末森城へ入るとすぐに広間へ向かい、政務を執っているはずの織田信勝、林秀貞に目通りを願った。織田信勝はこの時、政務は終わり既に強かに酒を呑んで眠っていた。あの一件以来柴田勝家は織田信勝からは遠ざけられ、領内の巡察や兵の調練に明け暮れていた。その間の政務は、どうやら城中のことは林秀貞が全て執り行い、織田信勝は酒浸りの日々であったようだった。そのことを小姓の一人から聞き、驚くやら呆れるやらであったが、ならばと林秀貞に会った。いかがした、という林秀貞の言葉に赫々云々と事情を話すと、林秀貞は言った。
「殿は、既に休まれておる。あのご様子では駆けつけるとも駆けつけられまい。されど行かぬとあってもならぬ。ならば……」
林秀貞は、確かに有能であった。織田信勝という人物に影武者を用意していた。日頃は総髪の結い方を変えており、また日頃は髭を伸ばしていたために柴田勝家でさえ気が付かなかったが、小姓の一人荘八は、茶筅に髪を結い直し、陽が当たらぬためであろう口元の剃り跡を化粧で誤魔化すと柴田勝家でさえ俄かには違いが分からぬ風体となった。そうして荘八には織田信勝の近臣である津々木蔵人が付き従い、事情の知らぬ村井貞勝と共に清須城へ向かわせた。村井貞勝は所用のために末森城に来ており清須城へ戻るということで同道することとなったのであり、荘八に付けられたのは本当に偶然であった。
本来であれば林秀貞と柴田勝家が両名共に行くべきであったが、この日は今川義元の使者が来るという事情があり、どうしても外せなかった。今川義元の使者が来るというその日に酒を呑み強かに酔って眠っている織田信勝という人物に、柴田勝家は改めて愛想が尽き果てていた。だが林秀貞も何かを悟ったのであろう、柴田勝家には監視が付き、織田信勝の影武者の事を清州城にいる織田信長に知らせることは遂に出来なかった。
清須城に着くなり、荘八は首を討たれた。有無を言わせぬ、ただ捕らえられ首を討たれて広間にいる織田信長の前に三方に首を載せられて据えられた。織田信長の前には三方が三つ並んでいた。一つは織田信長の母である土御前、一つは拾阿弥と呼ばれた茶坊主、そしてこの織田信勝と信じられていた荘八の首であった。拾阿弥は土御前との密通のため、それを詰られた前田利家と争いとなり首を討たれた、その際に土御前も巻き添えとなって斬られたという筋書きであった。三つの首を見て、織田信長は心の中で涙を流した。織田信長という人物は、本来情が篤い人物であった。だがそれを押し殺してでも父織田信秀から受け継いだ織田弾正忠家という家を、そこに住む人間を、守らなければならなかった。内訌の種となり核となる弟織田信勝、それを庇い家督を継がせたい母土御前、そして本来何の罪もない拾阿弥という三人を、私情を押し殺して首を討った。
広間には清須城の主だった将が集められ、三方の三つの首の後ろに三人の人物が平伏していた。一人は土御前と拾阿弥を斬った前田利家、一人は織田信勝に従って来た津々木蔵人、もう一人は織田信勝の首を討った佐久間信盛であった。丹羽長秀が織田信長に代わり、事の次第を説明した。
「土御前、拾阿弥と密通し、拾阿弥を繋ぎに使い信勝様の手引きをしての謀反を企んだは明白。それゆえこの三名の首を討った。申し述べたき事ある者は申すが良い」
一同は水を打ったように静まり返っていた。そして織田信長は言った。その声は心なしか震えていた。
「佐久間信盛、大儀であった。時にその者、信勝が近臣と見たが、どうだ」
「左様にて、ただ首を討つほどにもあたりませぬ故、曳き従えてございます」
織田信長は、ならば牢にでも入れておけ、と簡単に命じ、小者が来て引き立てていった。そして織田信長に続いて丹羽長秀が言った。
「実際に謀反を企んだ信勝様はさておき、ご母堂の土御前、そして密通した拾阿弥は首を討たずに引き据えよとの命でございました。ご母堂であるためでございました。だが前田利家はそれを破り首を討った。前田利家、申し開きはあるか」
ございませぬ、と前田利家は平伏したまま言った。織田信長は言った。
「ならば前田利家、そなたには切腹を申しつける」
こう言った織田信長に、俄かに広間はざわめきだした。まず大きな声を上げたのは、佐久間信盛であった。
「殿、某の此度の功に免じ、何卒、なにとぞ前田利家の切腹はお赦し下され」
この他、佐々成政をはじめとした者たちに加え、内政方で兵のことには詳しいとは言えない村井貞勝でさえ命乞いをした。前田利家は有為の人物でありここで失うは惜しい、と。この声に織田信長は、珍しく配下の声を聞き入れて一度発した命令を翻した。
「分かった。ならば佐久間信盛、その方に恩賞として前田利家の命を与える。二年だ。前田利家、二年の間佐久間信盛の与力を命ずる」
はは、と一同は平伏した。
木下光秀は、この筋書きを知っていたが、それでも感心せざるを得なかった。
一つ間違えば前田利家という有為の武将に腹を切らせるというのに、予め仕組まれた芝居であったというのに、そう知っていた木下光秀でさえ織田信長が前田利家の切腹を言い出した際には本当に前田利家の切腹を命じたのかと心配したほどであった。前田利家も助けられるという筋書きは知っていたはずであったが、佐久間信盛の発言の直後でさえ今にも切腹するのではないかと疑うほどであった。実際、それではと懐紙を今にも出すのではないかと、そして脇差を抜いて懐紙を巻くのではないかと思わされた。
実際にそのようなことはしないと知っている木下光秀でさえ、そう思わせる迫力があった。木下光秀は、今は亡き御屋形様、斎藤道三の目の確かさを今更ながらに思った。




