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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第六章 東奔西走編
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百九十九、続、第二次川中島の戦い

 犀川の戦いともいわれる第二次川中島の戦い、その合戦の次第については既に述べた。

 結果からいえば戦術的には越後長尾家の圧勝であったが、それで領土が増えるわけでもなく未だ旭山城が武田方として残されているなど、戦略的には勝利したというよりもそれ以前の失点を取り返したというのが実情であった。



 甲陽軍鑑にはこうある。

「武田晴信公、軍を発し犀川のほとりで戦うも利不在、即ち千曲屋代へ引く。長尾景虎抑えを残し、旭山城落城致し候。文月六日武田信繁殿来着、越後長尾家の兵と対峙するも互いに攻め手に欠け候。同七日、後方より今川義元来たりて和議となり、公、今川義元殿の顔を立て善光寺平を譲り候」

 甲陽軍鑑は言うまでもなく武田側の資料である。したがって、その記述もかなり割り引いて考える必要がある。特にこの項で扱われている第二次川中島の戦いについては、惨敗したにも関わらず単に「利あらず」としており、また今川義元の和議も今川義元の顔を立てて善光寺平を譲ったとあるが、実力で越後長尾家が占領したものを追認したに過ぎない。この辺りの呼吸は、歴史の資料を批判するうえでは必須のことである。




 松代の地で飯富虎昌隊を破った上杉謙信は勝鬨を上げたが、上げた首級には武田晴信の首級はおろか旗印から将であると分かっていた飯富虎昌をはじめとした重臣たちのいずれの首級もあげられなかったことを知って、少し残念に思った。首級を上げられなかったのが残念だったのではなく、それほど早くに松代を捨てたということは最初からさしてこの場所で戦う意思がなかったということであり、戦う意思の薄いものと戦って勝っても面白くもなんともなかったためであった。そのため興味なさげに戦場を見回ると、戦の後始末を柿崎景家に任せ南よりの後詰に対する備えとしてそのまま松代の地に残るように指示した。村上義清を慕ってくるものは未だ多数あり、既に四千を超えていたため松代の柿崎景家に付けたため、松代の陣営には一万近い兵力が入ることとなった。宇佐美定満に兵四千を与え霞城を攻め落とすように命じ、上杉謙信は近習を含む千の兵を引き連れて横山城に戻った。


 そして翌文月四日(7月22日)、霞城を攻め落とした宇佐美定満隊が合流するのを待ち、斎藤朝信隊に参加していた三千五百と合わせて六千の兵で旭山城を攻めた。旭山城は、城と名がついてはいるものの峰を斬り空堀を掘り簡単な宿舎を立て並べただけの城であり、城というよりも土塁であった。虎口さえも一つしかないこの小城では、斎藤朝信、新発田長敦、宇佐美定満らが指揮する越後兵六千が殺到しては支えきれず、その日のうちに落城した。その守将である栗田鶴寿は捕らえられ、上杉謙信の前に引き立てられた。

「何故背いたのかな。申し開きがあれば聞こうよ」

 上杉謙信の声に栗田鶴寿は言った。

「某、善光寺の別当でございますが、武士に、武将になりたく存じます。それ故に武田晴信殿の言に乗り申した。失敗は致しましたが後悔はしておりません」

 左様か、ならば首は要らぬな、と小島弥太郎が太刀に手をやったのを上杉謙信は笑って止めていった。

「要らぬ首を獲っても面白くもない。精々、逃げられぬように繋いでおけばよいわ」

 そういって笑って広間から出して横山城の牢へ入れた。


 その直後、報告が来た。

「報告します、今川義元、兵八千を引き連れ北上しております。既に上田に陣を張っております。また武田信繁隊と見られる武田家の軍勢一万余、葛尾城にあり明日にも屋代城にはいる模様」

 武田信玄が屋代城にあるのは知っていたが、手出しをしなかったのは半分は上杉謙信の欲であった。上杉謙信は武田信玄と思うままに戦ってみたいと思っていたため、寡兵で屋代城に立てこもるしかない武田信玄を攻め殺すのは本意ではないのと同時に、いかなる策を以てか引き延ばしをかけたならば後方から後詰が来た場合の対応を嫌ったためであった。

 だが、武田信繁隊一万、今川義元八千という数を聞いて陣中は色めきだった。一万八千という数は、容易な数ではなかったからだ。上杉謙信は少し瞑目して考え込むと、横山城には斎藤朝信隊三千を残し、残りの全軍を松代へ移すこととした。幸いにして武田信玄と武田信繁、今川義元の合流までには最低でも一日、おそらくは二日から三日の余地があると見られていたため、軍を移動させて空堀、土塀を巡らせた簡易的な防衛陣を築く時間は十分にあった。


 文月七日となった。

 兵は千曲川を堀に見立てた防衛陣を張らせていた上杉謙信のもとに、駿河今川家の家臣、朝比奈泰朝が軍使として到着した。供回りは騎馬武者が三騎ばかりに小者二十名ばかりであった。上杉謙信は直ぐに会うことにした。

「この度はお目通りいただきましてありがとうございます。主君今川義元に代わり礼を申します」

 ふん、と上杉謙信は返し、そして尋ねた。

「して用向きはこの度の戦のことであろう。向こうはどういった内容で和を乞うてきたのだ。申せ」

 講和条件としてはこうであった。

一、国境を千曲郡と定め、千曲郡以北を越後長尾家が、埴科郡以南を甲斐武田家が領有する。

一、向こう三年はこの地域での軍事行動や調略を慎む

 二つのみか、と上杉謙信は尋ねたが、朝比奈泰朝はその二点のみと言った。ならば、と上杉謙信は言った。

「ならばその二か条、一条を付け加えるなら飲むわ。栗田鶴寿、あれを引き取ること。値は吹っかけて銭一疋よ。これより高くはしないからそのつもりでね」

 そうして細々とした話が出、捕虜の売却のための市の立つ日などを決めた後に朝比奈泰朝が陣営を出たのはその日の夕方であった。



 余談ではあるが、この当時の日本における捕虜は奴隷という形で売られるのが一般的であったが、その実奴隷売買という形をとった身代金の支払いという性質を持ったものであった。そのため戦時下の捕虜の扱いは極端に悪いということはなく、基本的には普通の兵と同等か多少悪い程度であるのが普通であった。といっても一般的な兵の待遇自体が劣悪であるため、捕虜の待遇が良かったというわけではなかったが。

 この奴隷売買であるが、どの程度の身分であればどの位、というような一般的な相場はなかったようで、一般的な戦の直後では一般兵は二十五文程度から二貫文という幅があったようである。しかし総じていえば一般の農民兵は安く、土豪、武士、武将と位が上がるにしたがって高額になるのが普通であった。そのためか、あまりに安いと「安すぎる」と逆に買う側が値を吊り上げる、つまりそれだけの価値のある人間であると戦勝者側に認めさせる交渉をすることすらあった。逆に国内の労働力不足を補うために非常に高額の身代金をつけて買い戻せなくし、鉱山などで働かせた例も見ることができた。

 したがって、栗田鶴寿に銭一疋、つまり十文という一般兵に比べても半分以下の非常に安価な値を付けたのは温情でも何でもなく、上杉謙信という人物が栗田鶴寿という人物にはそれしか価値がないと断じたことに他ならない。

 因みに言えばこの当時の日本の奴隷は基本的にはギリシャなどで見られる債務奴隷に近く、雇われている側が債務を弁済できれば奴隷を所有している側は解放しなければならなかった。この意味で、アメリカなどで見られる黒人奴隷とは一線を画する存在であった。



 朝比奈泰朝が退場した後、小島弥太郎が不思議そうに尋ねた。

「御屋形様なら武田、今川の兵、それも大部分の精鋭を集めた兵と野戦をする機会を逃す訳はないと思いましたが、しませんでしたな。なぜでございますか」

 上杉謙信は言った。

「武田、今川の兵合わせて一万八千、これにおそらく後ろから今川の後詰が一万も来ているはずよ。それに屋代城に元々いた兵も合わせて三万。戦って勝つのは勝てるとは思うけれどもね、被害が大きすぎるわ。その後に支障が出る、そういう戦いになるわね。それならここが潮時、止め時よ」

 しかし、となおも食い下がる小島弥太郎に脇から宇佐美定満が言った。

「御屋形様の決定だ。何ともいうまいよ。……時に弥太郎、そなたは博打に勝つ方法を知っておるか」

 存じません、と小島弥太郎がいうと宇佐美定満が言った。

「博打に勝つ方法はな、たった一つだ。……勝っているうちに止めるのだ。勝っているうちに止めることが出来さえすれば博打は勝つ。難しくあるまい。戦も同じだ。勝っているうちに止める、これが勝ちだ」


 そして善光寺に上杉謙信と朝比奈泰朝、そして飯富虎昌が会盟をし、全ての条件で同意が得られ、武田晴信は第三の条件をも呑み和睦が成った。栗田鶴寿は解放されたものの流石に銭十疋と値が付けられた屈辱に顔をゆがめていたが、兵たちに十疋殿が通る、などとはやし立てられても何もできなかった。こうして和議が成り、上杉謙信は上野国への進出を本格化させるべく兵を引き上げていった。これは、三年の間は軍事行動を慎むという一項を遵守するためでもあった。

 和議が成った後、上杉謙信は宇佐美定満に村上義清を呼ばせた。村上義清が何事かと上杉謙信の前に座ると上杉謙信は言った。

「すまなんだね。村上領、目の前までは来たけれども佐久郡、埴科郡、小県郡、水内郡、高井郡、いずれも取り返せなかったわ。埴科郡はあと一歩だったけれども、今川義元が来てしまった。今いる兵だけなら何とかなるにしても、今川の後詰が来たら無理ね。だから今回はここまで。そなたの旧領は、また今度ね」

 村上義清は次があるのかと言いかけたが、上杉謙信という人物が次と言っているからには次であった。今回は旧領の奪回は成らなかったが、それでも善光寺平の支配は悉く越後長尾家のものとなったのは確かなことであった。そして次の戦場は上杉憲政の要請による上野国の奪回であり北条家との戦いであった。



 第二次川中島の戦いの対陣は僅かに数日、栗田鶴寿の寝返りから数えてもひと月に満たなかった。だが武田晴信はこの僅かの間に内藤昌豊率いる別動隊が木曾谷を攻め落としていた。

 そして上杉謙信への抑えとして葛尾城に高坂昌信に兵四千を与えて守らせ、残りの全軍を拡張のできる唯一の方角、つまり西へと振り向けた。今川義元もこれに和し、ここに甲斐武田家、駿河今川家の連合軍による西上作戦が開始されたのであった。

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