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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第六章 東奔西走編
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百九十八、第二次川中島の戦い

 姉小路家が足利将軍家を奉じての上洛を果たした後、姉小路家は山城支配を足利将軍家に任せて近江、丹波へ戻った。草太も観音寺城へ戻り政務を開始した次第については既に述べた。しかし、その直後に服部保長が蜂須賀小六を伴って火急の用として斎藤義龍の妹に当たる白菊を娶るように要請してきた。

 背景が分からない草太は当然にして説明を求めた。唐突であったと同時に、それが火急という意味が分からなかった。だがすぐに服部保長が補足した。

「川中島での合戦、報告書は上げてございますが、その後の甲斐武田、駿府今川の連合軍が既に美濃尾張へと兵を進めております。両家のみでは力が足りず、当家が介入するには相応の縁が必要でございます。この事態が起これば輿入れさせよというのが斉藤道三殿の最後の策でございました」



 天文二十一年から二十三年にかけて、甲斐武田家、駿河今川家、相模北条家の三家が互いに婚姻を結び、また攻守同盟を結んだ。世に言う甲相駿三国同盟である。これにより甲斐武田家は南からの背後を気にする必要なく信濃へ兵を出していた。姉小路家にいる小笠原長時をはじめとした小笠原家、石川長高の仕えていた村上義清を中心とした信濃国人衆は敗北し、小笠原家は姉小路家に、村上義清は越後長尾家に仕えることになった。

 そして甲斐武田家の手は北信濃へ伸びた。これが世に言う川中島の戦いである。前後五回の戦いがあったとされるが、簡単に言えば北信濃の支配権を巡った戦いであった。


 天文二四年(1555年)、甲斐武田家の武田信玄は前年に結ばれた三国同盟を背景に善光寺の別当、栗田鶴寿を寝返らせ、更に旭山城の建設に取り掛かった。これに対応した動きを見せたのは上杉謙信であった。

 天文二十四年水無月二十日(1555年7月8日)、春日山城でお立ち飯を振る舞うと翌水無月二十一日に出陣、一万五千の兵は半ばは山道である十五里の道程を僅か三日で抜けまずは島津忠直が居城である長沼城に入り、更に北信濃川中島の民を動員して旭山城の一つ隣の山に葛山城を築いて対抗した。自身は善光寺のすぐ近くにある横山城へ入り、軍勢の動きを引き絞らせていた。

 この時点では戦力は拮抗していたかに見えた。


 そして文月二日(7月20日)甲斐武田家の後詰として武田信玄自身が八千の兵を率いて川中島のすぐ南方に陣を取ったと聞くと、上杉謙信自身が兵を率いて犀川のほとりへ陣を張ると言い始めた。

「敵が来ておるのじゃ。戦をするのは今ぞ」

 女性的な声ではあるが凛とした声であり、上杉謙信という名将でなければ出せない圧力、圧迫感というよりも威圧感を持っていた。だが謀将宇佐美定満は反対であった。

「八千ばかりの兵は煩きことでございますが、先に栗田鶴寿の籠る旭山城、あれをどうにかせねば面倒でございます」

 興味がない、とばかりに上杉謙信は言った。

「今、甲斐武田家の後詰を叩き、あわよくば武田晴信の首でも上げればそれであの城など立ち枯れよ。そううまくはいかなくても撃退できるだけで十分、旭山城の士気を挫くことになるわ。……時に、川中島の衆の集まり具合はどう」

 これには柿崎景家が答えた。

「既に三千、集め終わりましてございます。この城の島津忠直殿の千五百をはじめ、芋川親正殿千、井上昌満殿五百に振り分けてございます。そのほか、村上義清殿が従軍していると噂を流したところ旧領から兵が二千近く既に集まっております。明日日没までには四千近い数になるかと」

「合わせれば既に二万、二三千は旭山城に割くとして一万七八千、ね。勝てるわね。問題なく」

 こういって、ふふ、と笑った。

「この動きに、晴信はどう動くかしらね」



 一方の武田信玄は、寝返りが上手くいったと同時に旭山城の築城、そして弓鉄砲を豊富に与えた兵三千を派し、更に自身も八千の兵を率いて善光寺平の南に兵を進めた。更に後方からは弟である武田信繁が一万の兵を集めて合流する予定であった。

 しかし、ここにきて武田信玄は読み違えを認めざるを得なかった。既に越後長尾家が布陣しているのは想定していたが、その数は一万に満たないと考えていた。おそらく越中へ兵を出す必要があればその読みは正しかったに違いない。現実には越中から兵を抜き、越中兵も動員しての数でなければこの数はあり得なかった。物見の兵も細作も越中兵の大動員は報告していなかったため、この数は武田信玄の慮外であった。後方の武田信繁の隊と合流すれば兵数は拮抗するが、それを待つほどの上杉謙信ではないはずであった。

 では退却か、といえば退却はあり得なかった。それは旭山城を見捨てたことと同義であり、今後善光寺平では武田信玄と上杉謙信のいずれを選ぶかという状況になった場合に上杉謙信が大幅に有利になるためであった。

「信繁の隊はあとどのくらいで着く」

 武田信玄は珍しく声を荒げて言った。山本勘助は早くとも三日から四日ほど、と答えた。この報告自体は概ね正確であったが、武田信玄にとってはそれだけの時間がかかるのであれば激突を是非とも避けるべきであった。

 方法はいくつか考えられたが、一つは後退することであったが、これは前述したように取ることができない方法であった。旭山城へ入ることも考えたが、八千が入ることができるほどの規模でもなければ八千人分の食料も水も備蓄がないのは明らかであった。

 僅かに後退しつつ防御用の逆茂木を結いまわす、というのがこの時に出した策であった。その上で朝靄の中移動して攻撃をかわし逆襲する、という手筈を整えていた。



 上杉謙信は武田信玄の陣を遠目に見て、炊煙が多いのに気が付いた。横に宇佐美定満が並んでいた。

「御屋形様も気づかれましたか」

 うん、と小首をかしげた上杉謙信であったが、その内容に悟ることがあったのであろう、そうね、と一言答えた。

「夜か朝靄に紛れての行動を考えているみたいね。移動先はここかしらね」

 夜襲の警戒は厳に、と宇佐美定満が言ったのを、上杉謙信は冗談が通じなかったかと思って言い直した。

「おそらくは一度後ろに下がってこちらの攻撃を躱すつもりね。そのうえで直接の戦闘は朝靄の混乱の中で行おうと考えているわね。でも私たちは積極的な戦闘を欲している。それならばどうすればいいと思う」

 宇佐美定満は、一言ぽつりと言った。夜襲でございますか、と。上杉謙信は頷き、ただし炊煙の量はいつも通りに、と釘をさすのを忘れなかった。


 上杉謙信は夕餉の時間に軍議を行った。北信濃衆島津忠直、芋川親正、井上昌満も列席を許されていた。この他、柿崎景家、斎藤朝信、長尾政景といった重臣、村上義清という客将が居並び、軍議が始まった。

「今回の戦は簡単、単純明快。なぜならこちらの方が数が圧倒的に多いからよ」

 最初から上杉謙信が言った。越後長尾家にとって軍議とは軍神上杉謙信の命令を伝達される場であった。この辺りの呼吸は、北信濃衆も分かっていた。

「まず旭山城、あれは出てこなければ充分よ。だから下から攻めると見せかけてなさい。芋川親正隊千の兵で充分でしょう。更にその横合いから南へ、武田の陣と旭山城の間の道を島津忠直、井上昌満、二人で遮断しなさい。向かって来たら時間を稼いで他の隊に知らせるだけでいいから、壊滅するまで死守するとか止めなさいね」

 上杉謙信はここで一息入れて諸将を見まわした。そして言った。

「柿崎景家、正面は任せるわ。七千の兵で正面から叩きなさい。右翼は斉藤朝信、あなたに任せるわ。四千の兵で南東側より攻撃なさい。私も出ます。四千の兵で南西にある霞城を落とす、と見せて後ろに武田軍が出ればそれを叩くわ。現れなかったら霞城は我が手ね。残りの兵は長尾政景、あなたが預かってこの場にいなさい。輜重隊が無事なら適当に動いていてもいいわよ」

 宇佐美定満が言った。

「御屋形様、手配りは良いとして夜襲の合図は何にしましょうか」

 そうね、と少し考えたが上杉謙信は言った。

「善光寺の鐘にしましょう。子の刻の鐘と同時に攻撃開始、他で戦が始まっても攻撃開始」

 一同、畏まりましたと頭を下げ、軍議は終了となった。



 子の刻の鐘を待たずして戦いは両者の想定の外で始まった。

 武田方の南西に回り込もうとしていた越後長尾家の斎藤朝信隊四千と、後方に下がろうとしていた小幡昌盛隊二千と交戦が始まった。戦闘の音を聞き、亥の刻から既に攻撃の準備を整えていた柿崎景家は出遅れたかと突入を開始し、また上杉謙信自身も軍を攻城には向けずに反転させ攻撃を開始した。

 柿崎景家隊は篝火がたかれ逆茂木が結われた陣を攻撃したが弓隊が五十ほど残るだけであったため幾分の時間もなくこれを占拠した。残っていた弓隊は矢を撃ち尽くすと退却しようとしたがそこは柿崎景家であり抜かりはなかった。その数名を捕らえて落ち行く先を尋ねると南方一里ほどの松代の地であるとのことであった。柿崎景家はこのことを使い番に走らせ、自身は追撃すべく南進した。無論物見も放ってはいたが、正確な位置は掴めていなかった。これは深追いできないというよりも武田信玄の用兵の巧みさによるものであるといえた。


 上杉謙信のもとに使い番の報告が届いて、上杉謙信のは不思議な顔をした。

「おかしいね。なぜ晴信は軍を分けたのかしらね。松代へ下がるなら全軍で下がれば良いのに」

 まるで方角が違うはずの南西へ兵を分け斎藤朝信隊と遭遇した小幡昌盛隊の意味が分からなかった。確かに側面に兵を置き、逆襲の際に複数の方向から攻撃しようとしたというのであれば意味が分からないではなかった。それであっても、である。

「やっぱりおかしいわ。……全隊、鋒矢の陣に組み換え、駆け足で川沿いを下るわよ」

 近習が了解して全部隊が千曲川沿いを四千の兵が駆け足で攻め下っていった。



 さて一方の武田信玄は、半数四千の兵を飯富虎昌に任せて松代に置き、更に西方に小幡昌盛隊二千を置いて、残る二千を率いて千曲にある屋代城へと下がろうとしていた。あくまで武田信玄は後詰の武田信繁との合流にこだわったのであり、松代に飯富虎昌を充てたのは越後長尾家の全兵力が千曲屋代城へ攻め寄せた場合の側面からの攻撃を意図したためであり、牽制であった。また小幡昌盛隊は旭山城の救援のためという名目を示すためであった。救援のための兵を出していて敗れた、というのと、救援のための兵も出さなかったというのであれば、今後の国人衆に対する支配を考えた場合には後者の方がはるかにましであった。



 戦闘の趨勢が決まったのは、やはり斎藤朝信隊が最初であった。四千の兵を間断なく繰り出したかと思えば五百の兵を割いて側面から迂回攻撃させ、浮足立ったところに残りの全軍で押しつぶす形で小幡昌盛隊二千のうち兜首六十余りを得、小幡昌盛自身は辛くも退却に成功したものの戦死者三百余、手取り(捕虜)千余という状況はまさに壊滅といってよかった。因みにこの捕虜は奴隷として売却されるという名目で身代金を払っての保釈され、その身代金で潤うのであったであった。一方の斎藤朝信隊も五百名近くが脱落したが、遭遇戦の戦果としてみれば斎藤朝信隊の優位であったのは動かぬ事実であった。


 この戦いの最中に柿崎景家の放った物見が松代へ移動中の飯富虎昌隊を発見、これを急襲すべく駆け足で移動していた。途中左翼に陣営ありと報があり身構えたが、使い番が来て上杉謙信直属の兵四千であることが知れた。両隊は合同して松代へ向かった。柿崎景家に馬を寄せた上杉謙信は言った。

「松代は多分囮と名分、それに無視されたときの保険ね。あの晴信なら下がるなら松代なんかには下がらない。それより南、屋代城か葛尾城に入るわ。でも追いつけないわね。仕方ないから松代を潰して、それで今夜は我慢しましょう」


 そうして松代に陣を構えた飯富虎昌隊四千に上杉謙信、柿崎景家の率いる一万余の兵が襲い掛かった。攻撃の開始された正にその時、間が良かったのか悪かったのか、斎藤朝信隊の勝鬨が上がった。この斎藤朝信隊の勝鬨を聞き浮足立ったのか、飯富虎昌隊は足並みが乱れて崩れ、四千の兵は半刻と持たずに千々に破られ、各所で各個撃破された。特に上杉謙信隊に属していた村上義清とその手勢の働きは特筆すべきものがあり、二千ほどの兵であったが兜首百五十余、手取り千三百余とこの一隊だけで飯富虎昌隊の大部分を撃破する活躍を見せた。戦後の論功行賞で上杉謙信が漏らした言葉はこうであった。

「全く、なんでこんなに強いのに越後に逃げることになったのかしらね」


 ともあれいわゆる第二次川中島の戦いは、越後長尾家の勝利に終わった。

 甲斐武田家は戦力を大きく減らしつつも武将に被害はなく、支配地域も千曲郡から北上することは叶わなかった。ただ敵中に善光寺別当栗田鶴寿の籠る旭山城が残るだけであった。

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