百九十六、松永久秀という男
足利将軍家が山城支配を確立した事を受け、姉小路家の兵は近江へ、或いは丹波へ戻ることとなった。また草太は近江観音寺城への下向願が通り下向することとなった次第については既に述べた。しかし京での最後の一仕事として、三好家の丹波攻略部隊、その首魁である松永久秀に拝謁を許すことが残されていた。
姉小路家日誌天文二十四年葉月五日(1555年8月21日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、本能寺にて松永久秀を引見致し候。(略)松永久秀、問答の中で公に三好家の行く末を尋ね候。公、根も無ければ難しき事なりとぞ」
三好家の丹波攻略を担っていた内藤宗勝、松永久秀の兄弟は、内藤宗勝が戦死し大部分の兵が京を巡る戦いの中で消耗したため、松永久秀の降伏という形で内ケ島家の丹波攻略が完成したのは歴史的な事実であるが、この後松永久秀が草太に謁見を許されるまでにひと月以上も時間がかかり、謁見の場所も草太の陣のある双林寺ではなく本能寺であったというのは、なんとも解せない話である。大法会のために忙殺されていた、ということが挙げられることもあるが、それでも会見の時間を作れぬほど忙しかったとは思えず、真実は謎である。
この会見の後、松永久秀はそれまでの三好長慶の忠実なる側近から独立への道を歩み始めるのは事実であるが、それが内藤宗勝の討死のためか、それとも草太との会見の影響であったかは定かではない。
ところで田中与四郎の日記によれば、この日本能寺で茶会があったことが明らかになっている。本能寺の庭での野点であったとされるが、その野点には草太他、とあるだけで誰が参加したのかは明らかではない。
丹波老ノ坂を目の前にした王子の地で三好家の丹波攻略部隊は内ケ島氏理の手により壊滅し、八木城に戻った松永久秀は降伏を決めた。丹波は内ケ島家の手により平定され、草太はその全域を内ケ島家の領土として認めた。
だが厄介な問題があった。それは丹波に残っていた三好家の丹波攻略部隊の残党ともいえる松永久秀を筆頭とした者たちの取り扱いであった。降伏した兵の中には内ケ島家の兵となったものもいたが、大部分は帰郷を望んだため武装解除をしたのちに羽束川で解放した。川を下れば摂津、播磨であり、三好領も近いため帰国の便はあるものと思われたためであった。
兵はそれで済んだが将はそうはいかなかった。三好家の将は内ケ島氏理の判断で処断も解放もできかねた。そのため、主だった将は丹波八木城に留めおき、内ケ島氏理自身が一鍬衆五百を引き連れ松永久秀を京へ護送することとなった。丹波の始末に目途を付けた内ケ島氏理は大法会に間に合うように老ノ坂越えで京入りし、大法会の直後から松永久秀の処遇を草太と話し合っていた。
「松永久秀が降伏の条件はただ一つ、姉小路房綱公に拝謁すること、これでございました」
内ケ島氏理は、だからこその拝謁をと頼み込んだのであった。無論、内ケ島氏理は近江犬上川の合戦の後に起こった一幕を知っていた。それ故に弥次郎兵衛、平助の難色を示すのは予想していた。それでもそれを押してでも拝謁させるつもりであった。何よりも、今後二度と敵将と会わないなどということはありえず、会うのであれば近く近江へ戻るこの時期は悪い時期ではなかった。都合が悪いことが起こるならば、切り捨ててもよい相手でもあった。
草太は、最初に松永久秀の名を聞いたとき、歴史上の梟雄、反復常のない謀将であり当時一級の文化人であるということを思い出していた。だがいわゆる松永弾正の三悪、三好家への謀略、東大寺焼き討ち、将軍足利義輝の暗殺のいずれも松永久秀には身に覚えのないことであった。それらは草太の知識にある歴史上、草太のいる時点ではまだ起こっていないためであった。多くの人物評は松永久秀を、分別才覚に優れ武勇にも優れた立派な人物と評しており、また弟の内藤宗勝の縁により出世した人物と評していた。良く言えば前者、悪く言えば後者なのであろうと草太には思われた。いずれにせよ、いかに弟が優れていたとしても三好家の一方の方面を任される武将の一人であるのは間違いがないことであり、一筋縄ではいかぬ人物であるのは確かであった。
草太は二段構えで松永久秀に接することとした。まずは通常の形での拝謁を許す、という形であった。これで問題がなければ二段目として茶会に招き、より近くで松永久秀という男を観察しようと考えた。場所は双林寺と竜安寺の中間にある本能寺となったことを聞いた草太は、何となくではあるが歴史というものを考えていた。草太の記憶にしかない歴史によれば、この本能寺は織田信長が討たれた寺であった。
だが草太には不思議に思うことがあった。本能寺から京の御所まで、ほんのわずかの距離であり十町まではなかった。いかに兵がいたといっても街中ということであり展開できる兵士の数にも限界があるはずであった。それを考えながら自分が周辺の民が全て敵兵だとして、突破して御所に入ることができるかどうかを考えた場合には可能であるという答えしか浮かばなかった。なぜ織田信長が本能寺で討たれることを選んだのか、草太には理解できなかった。
準備もあり、また諸事に時間が取られ、結局松永久秀と会うことができたのは葉月五日のことであった。内ケ島氏理は龍安寺に陣をはり松永久秀を留めつつ大法会にも参加したが、十日ほどの間松永久秀は大法会にも参加できずにただ黙って竜安寺の石庭を眺めながらの座禅を組んでいた。
葉月三日の夜、明後日五日に草太へ拝謁が叶うと知らせると、喜ぶかと思ったが松永久秀の反応は鈍かった。まさか草太を害そうと思っているかと考えたが、その考えを見透かしたかのように松永久秀は言った。
「別段、姉小路房綱公を害そうなどとは考えておりませんよ。ただ、石庭を見ながら座禅をして、そうして些か思うところがあったのみにございます」
そして葉月五日となった。本能寺の空は秋晴れに晴れ渡り、夏の終わりを惜しむかのように蝉の声が響いていた。
その方丈を借り、草太は武将衆を引き連れ松永久秀に拝謁を許した。草太の左右には平助、師岡一羽の両名が座り、松永久秀が何かをしても十分に防ぎえる態勢を整えていた。といって草太は、平助や師岡一羽の出番があるとは思えなかった。もしこの二人の出番が来るような相手であれば内ケ島氏理が草太に会せようとはしないはずであるためであった。草太は内ケ島氏理という男の人物眼を信用していた。
であるならば、松永久秀について警戒すべきはその言説であり裏手搦め手の権謀術中の数々であった。これについては弥次郎兵衛と服部保長が控えていた。だが既に三好家の兵は虜囚の身にはなく松永久秀の配下の武将も療養中のものを除いて全て解放したため、舌先三寸で何を得ようというのかその狙いが草太には読めなかった。或いは単に自分を売り込みたいというのかと思ったが、そう簡単な話ではなかろうと思っていた。
方丈の、南無阿弥陀仏と書かれた仏壇を背に上座に座った草太の前に、程なくして松永久秀を連れて内ケ島氏理が入ってきた。内ケ島氏理は体格に恵まれているわけではないが、その内ケ島氏理と比べても松永久秀は体が小さく、だが麻の着物の下からは筋肉質であろう肉体が透けて見えるような初老の男であった。精力的に活動してきたその身の内からあふれ出る力を隠そうともせず、若いころには秀麗であったであろう顔には縦に一筋斬られた古傷があった。年齢並みに衰えはあるものの、その眼光はやはり鋭かった。
用意された円座に座らず板の間に直接正座した松永久秀は、丁寧に草太に頭を下げた。そこへ内ケ島氏理が紹介して言った。
「三好家が家臣、松永久秀にございます」
そして例のように特に直答を許す、面を上げよと弥次郎兵衛が言い、松永久秀が姿勢を正した。だがそれだけであった。一言も発することなく、松永久秀はただその双眸で草太を見ていただけであった。といっても草太の前には御簾がおかれたため、直接顔を見ることはなかった。しばしの沈黙の後、内ケ島氏理が焦れたように言った。
「松永久秀、そなたは何か用があるから拝謁を願い出たのであろう、申せ」
松永久秀はにやりと笑いながら言った。
「用など、最初からございません。内ケ島氏理殿には用はありましたが、それも済みました。それ故、はや退出しようかと」
内ケ島氏理には分からなかったようだが弥次郎兵衛には通じたようであった。
「戦に敗れ弟を討たれたからといって、意趣返しに顔を潰すとは感心せんな。……どうせ他にも用があるのだろう。勿体をつけよって」
草太には意外なことであったが、松永久秀は弥次郎兵衛とは昔からの顔見知りのようであった。
「なに、今は松永久秀と名乗っているが出自は京の遊女で父親は知らぬ。母は春を売って暮らしていたからな。同じ長屋で某が八つ、弥次郎兵衛殿は四つだったか、それまで暮らした仲だ。その後も、京にいた時分には随分と世話になったでな。……用は、本当にないのだ。強いて言えば京見物か。竜安寺の石庭、改めて見たが素晴らしいものだな」
その後も四方山話をしたが、本当に用はないようであった。姉小路家の内情を探る、或いは姉小路家への仕官を匂わせる、そういったことすら一言もなく、松永久秀の話は京の寺々の見所に、四季折々の名所の数々に、歌の枕と名所に、古典から連歌、狂歌戯れ歌と取り留めもないものであった。
この後昼餉となり、未の刻より茶会であった。昼餉は、これだけは松永久秀たっての希望とあって草太の常の通りの蕎麦掻であった。これに蓮根と鴨の煮物が付いた。蓮根は珍しかったらしく松永久秀はしげしげと見ていたが、全体に豪華とは言えない食膳であった。蓮根こそ珍しいものの、近江であればさほどの銭も出さずに手に入るものであった。ただ作られる量が少ないために珍しい、それだけのものであった。一言でも仕官なり姉小路家の内情なりが話題に上れば、この後松永久秀を帰して内ケ島氏理を招いての茶席の予定であったが、一言もなければその席に松永久秀を呼ぶことに草太は決めていた。このことはその日の亭主を務める田中与四郎にも話していなかったため、内ケ島氏理も松永久秀も知る由もなかった。
そして昼餉が終わるまで一言も出なかったため、草太は松永久秀を茶席に招くことに決めた。草太は、何となくこの松永久秀が何をしに来たのか、分かったような気がした。松永久秀は自分を、草太自身を見に来たのであった。であるならば存分に見せてやろう、そう思うようになったのは、やはり松永久秀の術中に嵌ったということなのかもしれなかった。
同じ茶の湯の同好の士である田中与四郎は勿論松永久秀とは旧知の仲であった。茶席には上下なしとあり、亭主である田中与四郎は茶をたてると静かに草太の前に置き、それを一服すると次の座にいた内ケ島氏理、そして松永久秀へと回されていった。結構なお手前で、と松永久秀が言うと田中与四郎は僅かに微笑んだ。茶碗はこの頃の田中与四郎の好みの黒茶碗であった。草太もこの黒茶碗は気に入っていた。斑のある黒い地肌には模様ともつかない景色が見え、巧まぬ美を写そうとしているようであった。
そうしてぽつりと松永久秀が言った。
「姉小路房綱公、三好家をどう見ますかな」
敵だな、と答えるのは簡単なことであったが、そういったことを尋ねているわけではないのは草太の目からも明らかであった。代わって内ケ島氏理が言った。
「何がききたい」
「行く末を。姉小路家が作る天下の先を。……近い将来に三好家は足利将軍家との対立を深めるでしょう。既に戦に及んでいてもこれまでであれば和睦し推戴する道がございました。しかし今回はない。姉小路家を叩くほどの力が三好家にありますかどうか。その上でお教え願いたい。三好家をどう見ますかな」
つまり、松永久秀は姉小路家が将来、三好家をどうするつもりか、攻め滅ぼし取り潰すのか、和して取り込むのか、同じ足利将軍家の臣下として膝を並べるのか、どうするつもりなのかを問いたいのであった。草太は言った。
「三好家、か。……三好家がどうなるのかは分からぬよ。だがその根はどこにある。讃岐阿波は知らぬが畿内は言ってみれば細川家の領土の簒奪にすぎぬ。それも力だけの、な。民が三好家を選ぶとはあまり思えぬ。先の戦でも三好長徳が首を村人が献じに参った。それだけを見ても、そういうことなのだろう」
ここで一息をついて草太はまた口を開いた。
「民の心もなく朝廷も幕府もその地の掌握を認めぬとあれば、残るは力のみであろう。力だけで得た土地はやはり力だけで奪われる。三好家の畿内を支配するも、そういうことなのであろう。なれば、危ういだろうよ」
松永久秀は一瞬思案顔になったが、すぐにまた四方山話に戻った。
結局のところ政治向きの話はこの短い問答だけで終わり、松永久秀は百文の銭を与えられて解放された。その目には新たな決意が宿っていた。




