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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第二章 飛騨統一編
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二十、草太の手紙

 草太が連れてきた三十人は、半数以上を勘定方に取られた。とりあえず、現状でどのくらいの金銀、兵糧、武器、資材があるか、平時にはどのくらいの量が必要なのかが分からなければ、計画の立てようがない。

 また、検地も必要である。どうみても検地台帳は少なすぎる。おそらく袖の下をとって少なくしていたのだろう。検地の仕方自体は問題ない。問題は、庄屋が検地に賛成するとは限らない、という点だ。というよりも、ほぼ確実に反対が予想される。現在の帳面より減っていれば賛成するかもしれないが、それでは意味がない。現在の帳面より増えなければ、年貢の率を上げる以外に年貢として納められる米の量は増えない。かといって強制的に、となれば最悪の場合一揆となる。とすると武力を用いる用意がなければならない。必ずしも用いなくても良いが、検地に反対するなら武力で検地をするかもしれない、と相手に思わせなければならない。もしくは、検地に賛成した方が得である制度を導入するか。

 一応、一条家に出す手紙と同時に城井弥太郎に渡すよう、花脊の里のもの数名と算勘のあるものを十名ほど雇いたし、と書いて送ったから、それが来れば勘定方に取られている分を検地などに回すこともできるだろうが、力づくでの検地を行うのは一揆を誘発する恐れもある。危険だ。何か策を考えなければなるまい。

 花脊の里から技術を移転すれば、秋には乾田の法を試験的に導入することもできるだろう。数年越しではあるが、農地に関しては乾田の法の導入により収量増を見込むことはできる。しかし乾田の法は、既に作付けが始まっているため、出来て今年の秋以降である。

 本格的に導入できるのは来年か再来年の秋以降となるだろう。国全体となると三年や五年でも難しい。最低でも、導入した方が安定して増収となると判明してから出なければ、国全体に広める意味はない。農業の収穫量は、養える人口に直結し、足軽雑兵の数に直接影響する。養える人口が増えれば、黙っていても流人が流入するなどで人口は増えるものだ。

 他にもやるべきことは山ほどある。例えば治水だ。荒れ地の開墾も治水があればできる土地も増えるというものだ。治水については穴田衆に、と言いたいところだが先立つものがない。

 どう考えても手が足りない。資金も資材も、何もかもが足りない。古川富氏から押収した金銀をもってしても足りない。正確にいえば、平時にどのくらいの金銭が必要で、どの程度を使えるのかが分からないため、いくらまでなら使えるのかすら計画出来ない。


 もう一つ厄介な問題がある。寺社勢力との関係をはっきりさせなければならない。簡単にいえば、庶民の信仰の受け皿である浄土真宗、つまり一向宗の動向を無視できない。彼らは寺社であり、武家ではない。この線引きをはっきりさせなければならない。もっと言えば、政治に宗教が口を出しても碌な事がない。逆もまた然りだ。

 問題は、今それを口にすれば一揆という民衆の集団や僧兵という武力をもつ寺社勢力と対立せざるを得ない。つまりは民衆全体と対立する危険性さえ飛騨にはあった。今は飛騨では一向一揆は起こっていないが、越中、加賀、越前と隣国は皆対立が先鋭化していた。その三国と国境を接している飛騨も、一歩間違えれば爆発する危険性は充分にある。実際、かつての飛騨も一向一揆が起こる手前までは行っているのだ。

 であれば、織田信長のように弾圧するか、妥協して手を結ぶか。最上なのは徳川家康のように宗教の側から政治に手を出さないと言わせることだ。どうにかうまい方法はないものだろうか。



 と、筆者は草太の考えを書いたが、筆者自身は織田信長が仏教を弾圧したとは全く考えていない。攻撃にあった寺社勢力は、信長にとっては単なる統制のとれた地侍や地方勢力の一種、という程度の認識だったのだろうと思う。だから敵対すれば焼き討ちもするし、野戦、城攻め、調略と様々なことを行わせ、或いは行わなかったという理由で部下を処罰している。楽市楽座も、寺社勢力の持つ既得権益の剥奪でしかないが、結局は門前町については楽市楽座の制度自体が行われていない場合すらある。現代ですら、例えば香川県金刀比羅宮では、寺域内での五人百姓のように、生き残っている場合がある。家康にしたところで、政教分離など全くできていない。例えば五代綱吉の生類憐みの令は寺の坊主が「子が生まれないのは云々」と言ったのがきっかけだとか言われることがある通りである。

 しかし、小学校低学年で読む程度の知識では、織田信長は仏教を弾圧しキリスト教を優遇したという認識がある、ということを基に書いている。家康についても同じである。

 余談ではあるが。



 ところ変わって、手紙を受け取った城井弥太郎である。彼は草太からの手紙を、堺の商人田中与兵衛宅で受け取った。与兵衛の息子与四郎の日記、天正二十年卯月一日(1551年5月4日)の項に、客人、手紙を受け取り、手代数名を引きぬき堺を去る、とある。与兵衛とどのような会話があったのかは分からないが、この客人が城井弥太郎であることは前後からも明らかである。


「それで、手紙には何と」

と言ったのは田中与兵衛である。これは城井弥太郎と草太を通じて一条家と誼を結びたい、という希望があるからに他ならない。ただ、草太自身と直接取引はないだろう、と見ていた。何しろ飛騨の山奥と堺である。距離が離れすぎている。一条家と誼があれば、土佐回りで薩摩、琉球、明、南蛮へ、或いは土佐の産物そのものも扱うことが容易になるためだ。今のままでも堺では豪商ではあるが、それ以上になれるとは全く思えない。では何になるのかと言われれば言葉に窮するのだが、少なくとも堺十人衆と呼ばれる現在の身上では全く足りない。何が満たされないのか分からないが、それでも足りないという渇望だけがあった。

 勿論、それを満たしてくれるのが一条家であるという確信など何もない。だが、何もしないよりも、目的がなくてもあがく。富を得ることしかできないなら全力で富を得る。それがこの田中与兵衛の生き方であり在り方であった。だからこそ畿内の人足水夫香具師の大元締めという地位に居ながらにして、自身の財産も大部分は喜捨して、飄々と生きており周囲に人物が集まる城井弥太郎の存在がうらやましかった。勿論、だからといって、自分の財産を全て喜捨しても城井弥太郎のような人物にはなれそうもない。田中与兵衛には、他人が敬意を払うのは、自分にではなく自分の財産にだということをよく知っていた。財産を作る能力かもしれないが、同じことだ。

 話が逸れた。

「手代を十人衆からそれぞれ一人か二人、雇いたいと言って来ておりますな」城井弥太郎が返事を返した。「雇いたいというからには武士に、ということでしょうが、おりますかな」

 無論、とばかりに無造作に手元の巻紙に一筆書いて「これを各家で見せなされ」と渡した。田中与兵衛は自分の手代からは武士になりたいと前々からいっていた手代の三太を送ることにして、待ち合わせの場所と刻限を決め、城井弥太郎は去っていった。正確には去ろうとしたが店の前で一人の僧に捕まった。

「き、城井、よ、与太郎さん、だね」

弥太郎だ、と訂正しようと思ったが、その風体はいわゆる荒法師の類であったため止めておいた。だが乱暴を働こうという訳ではないらしい。

「お、和尚、つ、捕まえました、ぞ」

どうも吃り癖があるようだが、誰だったか思い出せない。年だな、などと思いながら待っていると、向こうから現れたのは興仙であった。どうやら自分を探していたようだ。

「京におらなんだで堺に来れば消息がつかめると思って来てみたがな。天の引き合わせだろうよ。実はな」と興仙は話し始めた。

 この吃り癖のある荒法師は、とある寺の僧兵であり、ある僧の護衛であるらしい。その僧の保護を頼みたい、という。小声ではあるがその名前ははっきりと聞こえた。

「実はな、その方は浄土真宗の僧で、名前を顕誓様という」


 浄土真宗は仏教の中では非常に特殊な側面を持っていた。それは妻帯を公然と認めていたという点である。特に八世蓮如は子が多く、十三男十四女の合計二十七人の子がいる。これが後に大小一揆とよばれる内部での権力争いの元になるから皮肉なものではあるが、その蓮如の四男蓮誓の息子が顕誓であり、昨年まで大小一揆に関連して破門されて播磨国本徳寺に幽閉され、ようやく破門が解かれたのだという。


「じゃがな、破門をとかれても、どうもきな臭い。おそらく幽閉される。今度は本願寺にだ、死ぬまでだろうよ」

「で、私にどうしろというのです。流石に一向宗全体を相手取るのでは、私どもでは幽閉も代わりませんよ」

「なに、難しいことではない。草太、今は姉小路房綱だったか。あれのところに送ろうと思うのだよ」

そういった興仙はにやりと笑い、

「花脊の里の衆も一緒に堺に来てる」

と言った。どうにも手の内を読まれているようで、この老僧は苦手だ、と城井弥太郎は思った。


 この当時の堺は城壁のある都市である。一種の城であるといっても良い。日没となると閉門となり、門を締め跳ね橋を上げて、誰も出入りはできない。城井弥太郎が首尾よく十家を回り十二人の手代を引き連れ、門を出たのは閉門直前であった。門のすぐ前には、門に入れなかった者たち相手の宿や居酒屋があり、門が閉まってからしばらくはにぎわいを見せていた。あの後、興仙は言うだけ言って「また後で」と去っていった。今はまだ門の中にいるのか、ついに合流できなかった。

 雑踏を抜けるとふと近付いてくる集団があった。堺の周りには強盗も多い。一同に緊張が走る。

 が、それは興仙率いる花脊の里の二男、三男を中心とした五人ばかりと二人の僧侶であった。一人は昼間見た荒法師、もう一人の五十過ぎの僧がおそらく顕誓であろう。

「お初にお目にかかります。愚僧、顕誓と申すもので、寺はありません。ありませんが」ここで言葉を切った。

「この末法の世、その行く末に平穏をもたらすべき我々が、戦などすべきではありません。それが叔父の権力欲のためであるなら尚更です。何よりも、御仏の導きを民に伝え、民を救わなければなりませぬ。そのためには民に接する場に身を置かなければなりませぬ。寺に籠って権勢を誇るのは、僧の役割ではございませぬ」

「その結果、命を落としてでも、ですか。大小一揆では小一揆側だったと記憶していますが、今は大一揆側が勝利しています。貴方が飛騨に行く、そして小一揆派が息を吹き返したら、多くの民がまた戦に苦しむでしょう。それでもですか」城井弥太郎は静かに尋ねた。

「既に大小一揆など関係ありません。既に破門をとかれた身。街頭で辻説法でもして、一から仏法を見直したいと思います」

「仏典を求めるなら比叡山か鞍馬山か高野山か、とにかく飛騨ではなかろうよ」と興仙が言うと

「仏典は既に読みました。学びて思わざれば則ち罔し。一度仏典そのものからは離れて教えそのものを実践することにより、見直そうかと思っております」

何を見直すかは、顕誓は言わなかった。


 城井弥太郎は京に残ったが、興仙は飛騨まで行くという。何しろ暇なのじゃ、とは言うものの、僧正である。何か目的があるには違いない。こうして一行、総勢二十名は飛騨に旅立った。

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