百九十三、尾張織田家の始動
織田弾正忠家の内訌に伴う織田信長、織田信勝の戦いは、遂に那古野城での謀略、稲生での合戦という形を経て、織田信長が兵七百を率いて織田信勝の居城へ攻め込まんとした次第については既に述べた。
一方で岩倉城を出た織田信友、織田信賢率いる千二百の兵は、二里南の稲生の地を目指して進んでいたが日も落ちたことでもあり、九之坪村(現代の北名古屋市西春)の地に陣を敷いて野営の構えであった。
萬松寺雑記にこうある。
「織田信友、織田信賢が兵を率いて九之坪村に陣を取り候。乱暴狼藉限りなし。(略)翌朝、末森城へ向かうも大曾根の地で待ち伏せにあい壊滅いたし候」
この時の織田信友、織田信賢の兵の軍紀は他の資料と照らしてもかなり乱れていたようである。銭だけで数だけを集めた渡りの足軽たちであるから、雇う側に実力がなければ舐められてしまうという良い例かもしれない。こういう渡りを使う以外にも金さえあれば川並衆のような本職の傭兵団をも雇うことはできたはずだが、この二人がそれをしなかったのは謎である。或いは銭がそれほどなかったのかもしれない。
とはいえ、岩倉織田家である織田伊勢守家の家老、例えば山内盛豊が出陣しておらず、織田信安ではなくその嫡男の織田信賢が出陣しているあたり、ある程度難しい戦ではないと考えていたのかもしれない。
払暁直前の茜色の空の下、一人の男が走っていた。目標の大まかな位置は分かっていたが夜の闇により行き違いにならないように大路を走りながら進み、やがて九之坪村で目指すものを、織田信友と織田信賢の陣を発見した。立番はいたが居眠りをしていた。その一人を起こし、織田家の家紋である五つ木瓜の文箱を見せ急用であると案内を乞うた。
岩倉城からの軍勢千二百は村一つを陣屋としており、そのひときわ大きい庄屋のものと思われる屋敷に織田信友、織田信賢の二人はいるようであった。二人は商売女でも買ったのであろう、脂粉の匂いをさせ酒の匂いをさせながら現れた。織田信友が言った。
「用件は何だ」
「我が主、織田信勝様からの使いにございます。織田信長が兵を率いて来襲しております。援軍をお願いいたしたく」
こう言ったのは柴田勝家の子飼いの部下である安孫子右京亮であり、織田信友、織田信賢の両名とも顔を見知っていた。
「柴田勝家殿はどうなされた。林秀貞殿、林通具殿は」
「策が漏れていたようにございます。那古野城は多少焼けたのみでさして被害はなく、織田信長の本隊は既に末森城へ向かっている様子にございます。我が主柴田勝家は末森へ向かい籠城の支度を開始いたしました」
なんと、という顔になった織田信賢に対し、織田信友は言った。
「織田信勝殿さえ無事であれば問題はあるまい。その上で織田信長殿の首を上げればよいのだ。……よく知らせてくれた。礼を言っておこう」
そして織田信友は織田信賢に向きなおっていった。
「聞いたな、兵を起こせ。全軍で末森城へ向かう」
突如として蜂の巣をつついたような騒ぎが沸き起こった。今の今まで酒を飲んでいたり眠っていたり賭け事に興じていたり春を買う順番に並んでいたりしたものを、号令一下隊伍を組ませて末森城まで三里の道程を行軍することとなったのであるから当然であった。まともな隊が出発できるまで半刻、最後の隊が出発したのは一刻半後のことであった。既に夜は白々と明けていた。
織田信勝の居城末森城は比較的簡単に落城した。大抵の城は城門を開けて中に入るまでが一番面倒であるのだが、出撃した攻撃部隊の将自ら城門前に立ち開門を命じたのだ、開門しないわけがなかった。薄暮のことであったから柴田勝家隊以外の隊が後ろにいるのを見分けがつかなかったのはある意味では仕方のないことであたとはいえ、城門が開いた直後に柴田勝家隊百に引き続いて前田利家隊三百が切り込み、そのあとから織田信長の率いる二百が引き続いて入城した。
緩み切った百に満たない末森城の兵に対して猛将柴田勝家、前田利家率いる兵四百が突入し一呼吸して織田信長が二百の兵を率いて突入したのだ。最初から勝負になるわけも無く、しかも城の造りについては柴田勝家が平時には実際に詰めている城であるため迷いようもなかった。
辰の下刻には末森城の掌握は全て終わり、奥の一間に織田信勝、別の一間に林秀貞を軟禁が完了した。城兵の大部分は柴田勝家が織田信長に着いたとみると降ったため、城攻め前よりも兵数はかえって増えたという辺り、織田信勝には将としての器がなかったのかもしれない。
岩倉城からの兵千二百を待ち受ける、そのための軍議を行わせていた。手勢は六百五十名ほどであった。当然、末森城も空ににするわけにもいかないため、出撃するのはこのうち六百名とされた。
信長は物見からの報告から行軍速度の差を予測し、合戦の地を大曾根と定めた。無論、物見は多数出し他の道に行った場合には通報が入るようにしたうえで、であった。この物見は木下光秀の作っている村の民が当たっていた。
那古野城からも百五十を出して側面を突かせることとして手配りをし、塙直政に兵五十を与えて末森城の守備を任せると織田信長自身も兵を率いて出陣した。
予定の大曾根の地に先に着いたのは、果たして織田信長隊であった。側面の林の中には丹羽長秀隊も入っているはずであった。北へ一五町ほどのところに織田信友隊五百、その後ろに織田信長の位置からは見えないが数町の間があって織田信賢隊七百が迫っているということであった。織田信長は佐々成政の鉄砲隊二百に銃撃用意をさせた。
距離が一町に迫った。佐々成政隊の鉄砲が火を噴いた。織田信友隊には竹束の装備もなく、小筒といえども十分な威力があり百名ほどが脱落した。一発撃った後は鉄砲隊は後尾に入り、残り四百の足軽隊が前進を開始した。その最前列は木下光秀の足軽八番隊百五十であった。鉄砲隊の攻撃で前衛が乱れているところに突撃を受け、織田信友隊は大きく崩され、遂には崩壊した。決定打は雄たけびであった。
「敵将、織田信友、討ち取ったり」
崩壊を受けて織田信長は部隊を下げ、織田信賢隊を待ち受けた。鉄砲隊の再装填は終わっていた。
その織田信賢隊であったが、近付こうとはしなかった。鉄砲を警戒しているのかと見ていると、軍使が来た。織田信長は会おう、と即断した。
「岩倉城の織田伊勢守家の嫡男、織田信賢にございます。戦の勝敗はつきました。この上は我らが撤退を見逃していただきたく」
ほう、と織田信長は言った。単身敵将が来て一戦もなく撤退を認めろというのは、中々できることではなかった。織田信長は岩倉織田家の当主織田信安よりもこの嫡男の信賢により興味を持った。それ故、言った。
「よかろう、好きにせよ」
ありがとうございます、と頭を下げ、織田信賢は下がり、程なくして兵も去っていった。
合戦が終われば戦後処理の時間であった。
特に弟の織田信勝に対しては厳しい処罰を与えなければならなかった。家督相続争いであるからには急所はただ一つ、織田信勝の処遇でしかありえないためであった。処分を考えつつ織田信長は軍を返し末森城へ入った。処分は、今後のことを考えれば死罪か、それに準じた厳しいものにならざるを得なかった。
広間の上座に織田信長が座り諸将の居並ぶ中で織田信勝、林秀貞が正面に相対する座を占めていた。当然この二人を裁くための席であるためであった。
「その方らの所業は既に明らかである。何か申し開くことはあるか」
織田信長は静かな声で言った。だが織田信勝は首を振った。林秀貞は震えているだけであった。お家騒動をこれ以上続けないためにも織田信勝は死罪とすべきであり、また林秀貞は平手政秀の死に直接かかわった下手人であるためこちらも死罪にすべきであった。申し開くこともなければ、それで充分であった。
「で、あるか」
織田信長は言い、処罰を言おうとしたその瞬間、騒ぎが起こって一人の女性が入ってきた。織田信長、織田信勝の母、土田御前であった。
「三郎、勘十郎をどうするつもりだえ。そなたらは同じく我が乳を吸った兄弟ぞ。いかに戦をしたとして、死罪だけは許してたも」
織田信長は、今後のことも考えて死罪以外にはないと考えていた。だが母にこう言われればそれを覆すこともまた難しかった。土田御前の後ろに元服を前にした織田信包がいたことも大きかった。ここで退かなければ末弟の織田信包を担ぐということであろうことは明白であった。
ふと平手政秀の諫状を思い出した。
「一時の怒りに身を任せる不可。人の上に立つものは寛恕を持つべき也。許しやすき者を許すのは容易なるもの也。許しがたきものを許してこその寛恕也」
許しがたきを許す、その第一歩として織田信長はこの二人を救おうと思った。それ故織田信長は言った。
「織田信勝、付家老として柴田勝家と林秀貞をつける。今まで通り三河方面を支えよ。佐久間信盛、善照寺砦に入れ。その費えはすべて織田信勝が賄うものとする。輸送は滞りなく行うように。……それから母上。母上が末森城にいるのは良くない様子。なれば清須城に移っていただく」
こうして織田信勝を擁立しようとする織田家内部での内訌は一応の終結を見た。終わってみれば、織田弾正忠家は三奉行の一から清須城を支配する尾張下四郡の守護代としての地位を確立し、更に織田信勝の擁立についても一定の歯止めがかかった。何より最大の政敵の一人である織田信友を討てたのは大きかった。
得るものもあれば失うものもあった。織田信長は平手政秀という忠臣を失った。織田信長は平手政秀を偲んで政秀寺を沢彦和尚に命じて建立させ、その菩提を弔った。




