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草太の立志伝  作者: 昨日の風
間章、尾張の覚醒
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百九十、清須奪取

 明智光秀が木下光秀と名を変えて尾張織田家に仕官し、所領ではないとは言えども庄内川のほとり、名塚に千石の土地を得た次第については既に述べた。



 尾張一代記にこうある。

「織田信友が家臣坂井大膳、守山城主織田信光と計りて織田弾正忠家の家督を織田信勝に移さんとせしも、織田信光これを不興として坂井大膳を打ち取り候。織田信長殿、織田信光殿の援軍を待たずして出陣、庄内河畔にて一戦に及び候。清須勢二千に対し那古野勢八百、(略)かくして織田信長殿は清須城に入り尾張下四郡全域に威を張り候」

 天文二十四年当時の尾張の状況を簡単におさらいしておこう。まず守護として斯波家がいるが、既に実権はなく、いわゆる傀儡政権であった。尾張守護代は清須織田家である織田大和守家と岩倉織田家である織田伊勢守家の二家が存在するが、この清須織田家の家老の家柄の一つが織田信長が家督を継いだ織田弾正忠家である。この前年に安食の戦いと呼ばれる合戦があり織田信長は織田信友の配下である重臣の多数が討死している。しかし岩倉織田家の織田信安をはじめとして織田弾正忠家の家督を継ぐべきは次男である信勝であるという風は抜けず、その中で織田信長を排除しようとした動きが続いていた。

 織田信長が合戦に強かったというのは事実のようであり、三倍近い兵を相手に戦って勝つのは容易なことではなかったようである。ただし、ここに書かれていないが複数の資料によればこの合戦では鉄砲隊二百が投入されたとされている。




 木下光秀は庄内川沿いに土地を受けて明智の庄のものを受け入れて開墾に精を出させ、更に自身は二日に一度は那古野城に出仕して足軽組八番隊の訓練を行っていた。足軽組八番隊百、これが木下光秀に預けられた兵であり、これに自身の郎党を含む十数名を率いるのが木下光秀に与えられた任務であった。

 日頃の訓練にはさして難しいことはなかった。行軍を数里単位で行い脚力と体力をつけさせるのが第一であり、槍での戦闘としては突き、叩くだけしかできなかった。未だ隊伍を整えての行軍がやっとであり、陣形を整えての攻撃などはまだ望むべくもない段階であった。


 夜になれば庄内川沿いの村に戻り政務であった。屋敷、といってもさして屋敷らしい屋敷ではなく、床も張っていない簡単な掛屋であった。その一角に茣蓙を敷き書見台に文机を置いているだけであった。伝来の書籍、刀槍具足の類は木下秀満が抜かりなくもって落ち延びてきたとはいえ、大部分の書籍や予備の武具の類はすべてあきらめざるを得ず、一朝事あるとしても武具の類もない状況での戦いを強いられることになりそうであった。開墾のための資材として鋤鍬の類や種の類は与えられたとはいえ、武具までもは難しかった。

「御屋形様、大根の植え付けが終わりました」

 ご苦労、と報告に来た木下秀満に返し、また質問した。

「稲はどうだ。沼地に近い湿原だ、耕せば田になるだろう。そちらの方はどうだ」

「難航しております。が、何枚かの田はこの月のうちにできるかと。石高にして二百石、というあたりでございますか」

 石高が二百石というのは、ひとまずは木下光秀にとってありがたいことであった。それだけあれば明智の庄の生き残りが貧しいながらも生き延びることができるであろうと思われたためであった。

「それにしてもご存じでございますか」

 木下秀満が続けた。木下光秀は何のことだか分かっていた。織田弾正忠家と清須織田家の確執が高まっている、そのことであった。いざ合戦となった場合には、清須城と那古野城の丁度中間にあたる名塚の地は合戦の場とされるであろうと思われた。

「清須城と那古野城の信長様のことであろう。そう遠くない間にひと悶着あるだろうが、……我らには全員に脇差を与えるほどの金もなし、我らのもの以外には槍も碌にない。それ以外では狩りで使っている弓が二張りあるだけだ。まさか包丁を手に出撃せよとも言えぬからな」

 それでも、と木下秀満が食い下がった。

「槍や具足を入手する方法は」

「ないな」

 木下光秀はきっぱりと言った。実のところ、たった一つだけはあった。それは合戦が行われた後の落ち武者狩りであった。その場にはどちらが勝とうとも夥しい武具甲冑の類が残されるのであるが、それをそっくり手に入れれば武具の問題は解決するであろうと思われた。

「それに鍛冶師の五平も、しばらくは農具を作るだけで手一杯だろう。槍など作る暇はあるまい」

 こうは言ったものの、木下光秀は武功を必要としていた。現在住んでいる村は既に明智の庄の者が開墾をしているとはいえ、正式な知行地ではない以上いつ取り上げられても文句を言えなかった。一方で知行地ではないという理由で軍役を免除されているのは事実ではあったが、それでも安定しないというのは問題であった。

 近場には名塚砦と呼ばれる櫓一つと板塀を巡らせた小さな砦があったが、織田弾正忠家の兵はそこは十名程度が管理のために入っているだけであり、夜盗程度であればなんとか防げるにしても清須城から兵が押し出された場合にはどうにもならないのは明らかであった。



 そんな中、一つの噂が駆け巡った。坂井大膳死す。織田信光に対する謀略をしくじっての殺害であった。木下光秀はこれを聞いて直感した。これによって力を落とした清須城を落とすべき時である、と。木下光秀は織田信長が好んで馬を責める馬場へ走った。織田信長は馬を一責めした後、体をぬぐっていた。

「光秀か。どうした、そう慌てて入ってきて」

「どうしたも御座いません。坂井大膳が死亡したとか。清須攻めは……」

 織田信長は落ち着いて言葉を遮った。

「坂井大膳は死んだ。確かにな。それが清須攻めと何の関係があるのだ」

 木下光秀は、清須攻め絶好の好機、と必死に説いたが織田信長はさして気にも留めずに言った。

「向こうから攻めてくるならばまだしも、こちらから攻める必要はない。……まだ、な」

 織田信長の頭には合戦の二文字はまだなかった。曲がりなりにも清須織田家は織田弾正忠家の主筋に当たる家柄であり、未だに合戦により滅ぼすという踏ん切りは織田信長にもついていなかった。そのため斯波義銀に報告し、その裁可を仰ぐ形での緩やかな下克上を画策していた。少なくとも積極的な軍事行動による城取は考えていなかった。

 背後に織田信勝がいる以上、清須へ出すには兵が足りない、というのが現実であった。今は織田信長が優勢であるから従っている国人衆も、情勢が変われば那古野城へ攻め寄せるのは火を見るよりも明らかであった。



 同じころ、清須城では織田信友がいら立ったように盃をあおっていた。坂井大膳が謀殺されたということは、既に織田信友には近臣がほとんど払底したことを意味しているのみならず、早晩織田弾正忠家の巻き返しを受けた場合にはそれを留められない可能性が高かった。織田弾正忠家の当主を織田信長から織田信勝とし、当主に就けたという恩をもって織田弾正忠家を今までと同じように家老として使う、というのが織田信友の考えであったが、どうやらそれは難しいことであった。それは先の安食の戦いでの敗北、そして今回の坂井大膳の死によって大きく威信が落ちたことにも影響されていた。これ以上の威信の低下は、清須織田家にとっても許容できないものになる可能性が高かった。

 この上は……

 織田信友は那古野城を攻めて実力で織田信長を排除する、乾坤一擲の手に出ることを決意した。




 清須から兵が出る、という報は陣触れの時点で既に織田信長にもたらされた。既に夕刻であり織田信長は湯殿から上がったばかりであったが具足を命じ湯漬けを命じ、集まってくる諸将を広間に待たせたまま戦支度を始めた。広間の上座には斯波義銀を座らせ、織田信長がその前に座って報告した。

「お方様、織田信友、清須城より打って出てまいりました。先代斯波義統様の敵討ちにございます。なにとぞ出陣をお命じください」

 織田信長が斯波義銀の前に手を突いた。斯波義銀は先ほどまで酒を飲んでいたのか、既に酔っていた。それでも承諾を示した。

「皆の者、出陣ぞ。逆臣織田信友の首を上げよ」

 織田信長が命じて一斉に広間にいた武将が去ると、斯波義銀は一人取り残されたような形となった。一人小姓のみが斯波義銀につき従う形で残り、館へ従って行った。



 清須の兵を二千を引き連れ、織田弾正忠家にとらわれた斯波義銀を救出するという名目で織田信友は兵を挙げたのは天文二十四年弥生晦日(1555年4月20日)のことであった。もっともその斯波義銀の留守中に斯波義統を謀殺し斯波義銀を取り逃がしたということは周知の事実であったため、兵はこの挙兵をひどく冷めた目で見ていた。とはいえ那古野城にいる織田弾正忠家の兵は千に満たず、戦で負けると考えていた兵はいなかった。おそらくは籠城戦になると考えており、籠城であれば周辺の街で乱暴狼藉も許されるというのが兵がついてきた一番の理由であった。

 織田信友隊が庄内川を渡ろうとしたころ、近頃作られ始めたという村が見えた。その村には人気が見えず、流石に兵を挙げたのを知って逃げたものと思われた。織田信友は采配を振り、庄内川を渡らせた。日常から通っている川であるため瀬踏みの必要もなく、浅瀬を渡って次々と兵は庄内川を渡っていった。

 五百程が川を渡り終えたころ、突如として轟音がなった。佐々成政が率いた鉄砲隊であった。未だその使用方法については検討の必要があるが、一発目だけで言えば訓練をほとんどしていない渡り者を集めた兵であっても充分な威力があることは分かっていた。二百の火縄銃の攻撃に百ほどの兵が脱落した。

 そこへ織田信長率いる兵六百が突撃をかけた。織田信友隊は渡河直後で隊伍を組みなおす暇もなく、物見も疎かになっていたために発見が遅れたのであろうが、それでも最初に渡った五百は銃撃を受けた直後のこの攻撃によって壊滅し、更に川を渡っていた二百の兵も織田信長隊の弓に射掛けられて被害を出した。

 織田信長隊はそれ以上の戦闘を嫌って隊を纏めて後方一町に退いた。そして互いに膠着状態となり日没となった。


 夜陰に乗じての奇襲は、お互いに警戒するところであった。篝火の火は明々と周囲を照らしていた。織田信友隊が警戒したのは本陣への夜襲であった。

 一方、日が沈むや否や木下光秀は織田信長に呼び出された。半里遡った名塚砦前を渡り清須城を攻撃せよ、というのが内容であった。木下光秀は配下の兵に乱暴狼藉を固く戒めると夜陰に乗じて出立した。大回りしても二里の道程であった。亥の刻までに清須城に着いた木下光秀隊であったが、問題は城門をいかに開けさせるかであった。だが木下光秀は考えがあった。

「開門、織田信勝様より織田信友様への火急の使いで参った。開門開門」

 門番は織田信友が出陣中であることを告げたが、織田信勝の名を出されてはとりあえずは門を開けざるを得なかった。

 門が開けば、半分以上休んでいた兵ばかりであることが災いしてか碌に反撃もできず、織田信友の妻子が落ちるだけしか出来ず、清須城は落城した。


 翌朝、清須城落城の報が織田信友のところに届けられると織田信友は誰にも伝えないように緘口令を敷いたが、こうした知らせは直ぐにも伝わるものであった。兎に角、大きく兵を減らさぬうちに北へ二里半、岩倉城へ入って岩倉織田家の当主織田信安を頼って落ちていった。

 


 昼過ぎ、織田信長が清須城に入り勝鬨を上げた。織田信長が清須織田家の三奉行の地位から脱した、記念すべき出来事であった。

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