百八十七、大法会
姉小路家が足利将軍家を奉じて上洛したことに端を発した山城をめぐる合戦である老ノ坂の合戦、填島城の戦い、そして山崎の合戦の三つの戦が同日に起こり、最終的には姉小路家側が三好家の軍勢を京に入れなかったという意味で姉小路家の勝利に終わった。三好家の軍勢はこの戦の結果多くの兵を失い、また丹波支配をも失った。この次第については既に述べた。
多聞院日記天文二十四年文月二十五日(1555年8月13日)の項にこうある。
「山城での合戦の日、丹波でも合戦あり。死者数多なれば桂川、宇治川、淀川、何れも血に赤くなりき。民の不安を思し召し、姉小路房綱公、大法会を申しつけたり(略)」
姉小路家と三好家の合戦が終われば、次に待っているのは戦傷者の手当てや戦没者の弔い、合戦で荒れた田畑や街道の修復、街道筋の街の復興と多岐に渡る戦後処理である。多くの場合合戦では金品を得ることは難しく、精々が敗北した側の遺棄した武具兵糧の類のみであるため、一方的な持ち出しに終わることが多い。この姉小路家と三好家の戦いも、敗北した三好家はもとより勝利したはずの姉小路家も軍を進める余力はなかったとされる。三好家との抗争はこの後も続くが、最初の大規模な戦いである山崎の合戦のあった文月十一日には非常に多くの兵が死亡した日であった。例えば丹波では戦国時代を通じて最大規模の死者が生じたともいわれる。
だが一つだけ付け加えなければならないことがある。それは、合戦に参加した兵の総数としてはこれを上回る兵が衝突した合戦は存在するにもかかわらず、この日の三つの合戦が、特になぜ丹波で最も多い血が流れた合戦と呼ばれるか、という点である。それは合戦後、姉小路家では通常医療隊が敵味方なく治療を加えるのが常であるが、この時の丹波については例外であったためである。というのも急襲のために医療隊は引き連れていないため一鍬衆の持つ医師ではない者の治療では限界があり、更に後処理の人員が少ないことは本来であれば治療に回す程度の負傷者であっても楽にしていったためである。姉小路家が主導しての法会が行われた際の記録に丹波路の三好方の死者数として一万とされたが、数が盛ってあるとしても七八千が死亡したのは間違いのないところであろう。
同じことは填島城の合戦でもいえる。死者が一万というのは数字が盛ってあるとしても、やはり七千近い数の兵が死亡したのは間違いがなく、山崎の合戦に至っては死者二万とさえ言われている。近年の過去帳の研究によれば、多少の誇張はありつつも相当数の死者がでたと考えるのは間違いではない話であろう。
大善寺から双林寺に戻った草太は、諸方からの報告を聞いて京の安全が確保されたことに安堵しつつも、流れた血の量に驚いていた。そして暗い気持ちになった。自身では戦をなくすため、戦で苦しい目にあう者を少なくするために戦をしているのに、これだけ多くの血が流れたためであった。
それでも政務を精力的にこなしてはいたが、無理をしているのが弥次郎兵衛、平助には分かったのであろう、政務をしている草太に一人の人物を連れてきた。
「房綱公、邪魔をいたしますよ。……無沙汰をしておりますな。観音寺城ではついぞゆっくり話をする時間を取れませんでしたからな」
現れたのは顕誓であった。近江の末寺を回っている間に上洛のことを聞き、ついでもあるからと京の草太に挨拶に来たということであった。近江の様々な話を聞き、民が楽しく暮らしている様に安堵をしつつも、そこかしこに六角家の影が見えるようであった。どうしても六角家を打倒しなければならない、鈎の陣を打破しなければならないと考えてはいたものの、兵をさし向けても逃げるだけであれば鈎の陣を打破したとはいえなかった。現在の隔離政策は功を奏しているようではあったが、これとていつまでも続けるわけには行かないのは、草太も重々承知していた。
ひとしきりの話の後、草太は切り出した。
「して、顕誓さま、ご用は何でございましょうか」
顕誓は顎をひと撫でしてから言った。
「その用を言う前にの、二人、ここに呼ぼうと思うが良いかの」
顕誓の言に否もない、草太が承知すると顕誓は手を叩いて人を呼んだ。一人は草太の師である興仙、もう一人は奈良興福寺の高僧の一人である多門院英俊であった。草太は少し驚いた。多門院英俊はまだしも、興仙が呼ばれるまで外で待つ、など考えられなかったからだ。それを草太の顔から読み取ったのであろう、興仙は口を開いた。
「拙僧、比叡山延暦寺の使いとして罷りこした」
草太はこの言を聞き、合点がいった。今は公式な場であるためにそれらしく振舞っている、ということであろう。それにしても、と草太は思った。
「興仙和尚、そなたは隠居して安芸へ帰ったと聞いたが」
興仙は少し唇を持ち上げて笑みを作り言った。
「なに、安芸から京までなら、船で三日もあれば着きまする。……さて、延暦寺座主応胤法親王猊下より言付かっております。戦多く民心乱れにければ、大法会を行い候様に、と」
大法会。これが何を目的としているのか、草太には合点がいかずに多門院英俊を見た。多門院英俊は言った。
「大法会であれば我ら南都の僧も参加いたしましょう。声をかけますゆえ、おそらくは高野山のものも。そしてそこに居られる顕誓殿の一向宗加賀派も参加するでしょうな」
草太は少し合点がいった。宗教世界が結集する、そのことにより草太の覇業を助けようとしているのであった。おそらくは別の目的もあったのであろう。……例えば石山本願寺の排除のような。そのことにまで頭が回った草太は、思わず尋ねた。
「ほかの宗派はどうするのだ。石山本願寺や法華の門徒は」
多門院英俊は言った。
「来るものは拒まず、という形で行きたいと思います。京近郊の諸派には、すでに使いを出して打診してございます」
三日経った。
草太は鞍馬寺に詣でて旧来の恩に報じて三重塔を寄進することとしてその費用を渡し、また参内して朝議に列する傍ら公家との社交にも余念がなかった。とはいえ、派閥からすれば既に近衛家と縁続きであり烏帽子親が一条家ということから既にそのいずれかとされ、その政敵である九条稙宗の派閥とは距離を置くことになった。西洞院時当は、よくあることですから、と気にせぬように草太に行ったが、草太にとって冷たい侮蔑の視線など、幼少のころの家庭内でのあれこれに比べれば何ほどのことでもなかった。
そんな折、一人の僧が草太に謁見を申し出た。名を日便という、日蓮宗本法寺の僧であった。謁見を許すと日便は言った。
「姉小路房綱公、宗派はいずこの宗派でございますか」
草太はふと考えた。自分は確かに鞍馬寺で修業をしているが、別段天台宗の僧としての修業はした覚えがない。顕誓とも親交があるが、別段一向宗というわけでもない。考え込んだ草太に対して日便は言った。
「世の中が戦続きであるのは、いったい何故だと考えますか」
草太は、簡単にこたえられるようなことであれば、とっくの昔に戦などなくなっているだろう、と言ったが日便には通じなかった。
「そうではありません。世の中に謗法がはびこっているからです。それらを一掃すれば戦などなくなります」
草太は、何を言い出したかと思って尋ねた。
「謗法とは、何かな」
草太の問いに、あきれたような顔で日便は言った。
「日蓮宗以外のすべての宗派に決まっているではありませんか。我らの宗派以外がはびこっているからこそ、天下は治まらぬのでございます。どうか姉小路房綱公も日蓮宗の門徒になって……」
草太は興味がなくなった。要するに、自分の宗派に引き込みたい、というだけなのだ。興味を失ったのを敏感にとらえて、日便は言った。
「何なら、宗門争いをしても構いませぬ。姉小路房綱公の最も敬愛する人物と目前で論争をし、その化けの皮を剥いてごらんに入れましょう」
「それならば、そなたが負けたらなんとする。おとなしく他宗派に転じるか」
草太が返すと日便は何をばかなことを、と言わんばかりに言った。
「そのようなことを考えてはなりません。我ら日蓮宗は国の宝、粗略に扱ってはなりません」
一つため息をつくと、草太は尋ねた。
「宗門争いで論争に勝っても、それは教えが正しいかどうかというよりもむしろ口喧嘩の強さの自慢だけに聞こえるな。……ところで、大法会のことは聞き及んでおろうな」
はあ、と日便は気が抜けた声を上げた。
「もちろん参加するのであろうな」
すると日便は言った。
「参加、しませんよ。なぜ我々日蓮宗の者が門徒でもない者の弔いをしなければならないのです」
「参加しなければ今後援助はしない、そう言ってもか」
草太は揺さぶりをかけてみたが、日便は言った。
「当然です。門徒でもない者からの施しは受けません」
草太はこの言葉を聞いて、なんとも言えない嫌な気持ちになった。宗教を、人を救うということを立てているはずなのに、自分と違う宗派であれば見捨てる、そう言っているのに等しいからだ。草太は仏教とは、いや正しい行動とは、相手が誰であれ困っているときには手を差し伸べる、これが正しいと考えていた。手を差し伸べる方法は様々であろうし、何もできないこともあるだろう。だが最初から見捨てるというのは、人を救おうと志す者としては致命的なものがあるように思われた。そのため言った。
「気に入らぬな。そのような心持の者の宗派になど、入らぬ。……諸岡一羽、日便殿のお帰りだ。丁重におかえり願え。他宗の寺は、さぞかし居心地が悪かろう」
日便は何かを言いかけたが、師岡一羽に促されて退出していった。後に残った草太は傍らにいた弥次郎兵衛に言った。
「なんだ、あれは。自派のみ正しいと、それ以外は人に非ずとでもいうようなあの態度は」
弥次郎兵衛はため息を一つついて言った。
「あれでも民には人気なのです。最盛期には香具師人足の半数近くが法華門徒でございまして、なかなかに手を焼いたものにございます」
どうしたものかと草太が尋ねると、弥次郎兵衛は言った。
「無理ですよ。直接民に害があるならまだしも、今の時点では手出しはできませんね。法華の僧を抱き込んで新しい一派を作る、という手は顕誓さまが加賀で行って成功した手でございますから、まずはそこからかと」
任せた、と草太は言った。
「そういえば、なぜあそこまで喧嘩腰だったんだ」
草太がふと思い出したように聞くと、弥次郎兵衛は言った。
「先日の三好家は法華門徒が多いですからね。そのせいでしょう」
そして文月二十五日の朝になった。草太は一参加者として参加したかったがそれもできず、中央の貴賓席に座らされた。将軍足利義輝も参加しての大盛会となった。来ていたのは、主だったところだけでも、比叡山延暦寺、興福寺、高野山、鞍馬寺など多くの宗派が参加したものになった。結局、石山本願寺は返事もよこさなかった。草太は敵味方なく弔いを上げさせた。
その夜、草太の前に各宗派の頭だったものが結集した。そして、今後は宗教勢力ではあるが、姉小路家を後援することで話がまとまったのだそうだ。
「我らはお山のために行動してまいりましたが、これからは姉小路家と協調路線をとることでさらなる発展を目指すこととなりもうした。宜しくお願いいたしまする」
こういって頭を下げた多門院英俊であったが、横から顕誓が言った。
「なに、我らの立ち位置を、旗幟をはっきりさせただけだ。今まで通りのやり方で良いのだ。それだけだよ」




