百八十六、続、填島城の戦い
填島城陥落の報を受けた草太が兵を出し、大善寺に周辺の民を集めて炊き出しを行い、また平野右衛門尉以下の将に一鍬衆千五百、騎馬隊二千、足利将軍家の越前兵三千の合計六千五百を授け、夜襲を行うべく出撃させた次第については既に述べた。
高屋平助日記天文二十四年文月十一日(1555年7月31日)の項にはこうある。
「御屋形様、大善寺にて民を慰撫させ候。(略)また平野右衛門尉、騎馬隊を用いての夜襲を行い、かねてよりの自説を証し候」
草太は炊き出しなどを通じての民の慰撫を行うことがしばしばあるが、これは物資の潤沢であった姉小路家にとって当然の行動であったと言えるかもしれない。藤の丸の旗や幔幕も張られていたためか、この時は周囲からも姉小路家の慰撫であるということは明らかなようであり、姉小路家が炊き出しを行ったことを示す多数の資料が存在する。大善寺の雑記には比叡山の末寺の一つの別当が暴れたという記録があるが、大きな混乱はなかったようである。少なくとも一向宗の門徒との諍いは記録されていない。
ともあれ、この騎馬隊の突撃は芝居や講談の種になるほどのものであり、内ケ島氏理の丹波での戦いと並んでの騎馬隊の優位を示すものとして扱われることが多い。ただし、内ケ島氏理のそれは騎馬隊ではなく内ケ島家の一鍬衆の攻撃であり騎馬隊ではないのに対し、こちらは夜襲とはいえ実際に騎馬隊の活躍である。古来からいう大兵に兵法なしというが、戦場を限定してその戦場での優位を得る、或いは奇襲などにより大兵を大兵として使わせないことにより寡兵で大兵を打ち破った例は少なくなく、この填島城における夜襲もその一例である。
平野右衛門尉は雨の中で宇治橋から一町の位置に兵を展開させた。辺りはほぼ完全な闇であり雨も降っていたため視界はほとんどなかったが、大部分の道のりは川岸を進むだけであり脇道もなく迷う心配も少なかった。足利将軍家の越前兵は隊を纏めるために細い縄を使っていたが、姉小路家の騎馬隊はそれすらもなく、馬蹄の音だけを頼りに進んできた。
「橋の上にいる兵はどれだけだ」
平野右衛門尉が闇の中で池田隼人に問うと、池田隼人は即座に返答を返した。
「物見に対岸を探らせてはいますが、今のところ東岸の袂付近には二十、橋の上に十の合計三十ほどが確認されております。あとは橋の向こう側にどれほどがいるか」
とはいえ夜も深い時間帯のことであり、動いている兵も単に歩哨でしかなかった。
「三十ほど小舟で渡らせましょうか」
池田隼人が提案したが、平野右衛門尉はその小舟の動きで敵に存在を悟られるのを嫌い、言った。
「いや、予定通り強襲して突破、だな。まずは弓隊が矢を降らせ、その後我ら騎馬隊が一気に押しわたる。そのあとの後詰を頼む」
かしこまりました、と池田隼人は言い、それでこの会話は終わった。
そして奇しくも一向宗の攻撃の合図となった県神社の丑の刻の鐘を合図に、池田隼人隊は弓を撃ち始めた。三百の弓兵が射る矢に、半分以上居眠りをしていた安見宗房のおいた宇治橋の歩哨五十は何が起こったか把握することもできずに倒れ、更にこの矢で倒れなかった兵に騎馬隊が殺到した。安見家の歩哨は流石に明かりをつけていたため、その明かりを頼りの突撃であった。馬を止めようとした兵もいなかったではないが、跳ね飛ばされ馬に潰され槍にあげられて結局のところ一兵も損ずることなく宇治橋を突破した平野右衛門尉隊は、そのまま川沿いに北上して篝火のともる填島城の幕屋へと殺到した。
池田隼人隊も平野右衛門尉隊が宇治橋を突破したのを見て即座に前進して宇治橋を確保し、その場に百を残して填島城の三好家の陣屋へと進撃を開始した。
三好実休隊は長距離の移動のために疲労の極みにあった。合戦こそしていないものの、朝に芥川山城を出発してから高槻城下を通り一乗寺前の陣屋に入った後、午の刻から巨椋池を南に回っての填島城入りは距離だけをとっても七里近いものがあり、その大半は雨の中であったことを勘案すれば無理もないことであった。しかも目の前で味方が敗れるのを見てからの合戦を避けての移動であったため士気が上がるはずもない、填島城に入った三好家の軍勢の士気は疲労と相まって低く、軍勢が大量の逃亡兵を出さなかったのは偏に三好実休が将として采配を振るっている精兵であったからに他ならなかった。そのような三好家の軍勢が見張りを出せるはずもなく、更に填島城は既に填島城跡といっても差し支えない程の被害を塀や建物に受けていたため雨を凌ぐ場さえなかった。もとより堀は細かったが、一向一揆の攻撃の際にされたのであろう、至るところで埋め立てられており、堀としての機能は望むべくもなかった。日没後に着いた三好実休隊はこの惨状を見ても何もできず、ただその夜を過ごすための支度をするのが精いっぱいであった。
一方の安見宗房隊は、ほとんど見ていただけではあったが填島城の攻略に成功したこともあり、戦勝気分に浸っていた。三好実休は安見宗房に戒めたものの引き締めがそう簡単にできるわけもなく、その前夜の行軍からの疲労もあって酒盛りが行われ、それも子の刻までには終わっていた。
こうした事情が重なり、填島城の陣幕の中では既に三好実休、安見宗房も含めて大部分の兵は眠っており、ごく一部の安見家の兵による歩哨は立っていたものの居眠りをしているものも少なくなく、それを監督する役割の武士たちも填島城を奪取した直後ということであり戦勝気分に浸っていた。
約束の刻限を告げる丑の刻の鐘の音を合図に、填島城の北部から近付いていた青地茂綱率いる一鍬衆千五百は投げ槍を投げた。事前の取り決め通り三投、合計四千五百の槍が三好家の陣幕を襲い、眠っている兵を倒した。
もし填島城の建物が健在であれば、その中にまでは流石の投げ槍も威力が届かないが、既に大部分は焼き落とされ破壊されて三好実休達武将でさえ燃え残った廃材を集めたような小屋を建てての一泊であり、大部分は雨ざらしの中に蓑にくるまっての野宿か、良くても天幕を広げてただけであったから、天から降ってくる槍を防ぐべくもなかった。この最初の槍の攻撃で、二千五百以上の兵が死傷して脱落し、また陣幕の中は大混乱となった。
この騒ぎに飛び起きたのは三好実休であった。周辺の兵全体から、ほぼ同時に沸き上がるように上がる悲鳴に驚きつつも、その悲鳴が内部の兵からも同様に上がっていることから、敵兵の、おそらくは姉小路家の兵の侵入を許したのであろうと考えたが、それにしては敵の接近する音もなければ剣戟の騒ぎもなかったのは奇妙であった。三好実休は左右の者に、兎に角兵を落ち着かせるように命じた。
だが、時は既に遅かった。
填島城の南より、馬蹄を高々と上げ地響きと共に平野右衛門尉率いる騎馬隊二千が突入を開始した。三好家の軍勢も安見家の軍勢も、兵は胴丸も脱ぎ捨てて眠っているものも多く、つけていたとしても寝ていたところを周囲の悲鳴で起こされ、篝火の中に槍の刺さった味方が悲鳴を上げている、そんな中で槍を取って戦えという方が無理であった。手向かいもできずに次々と討たれ、馬蹄にかけられて、平野右衛門尉は填島城に張られた陣中に幅半町ほどの大穴を開け、そしてそのまま敵中を突破して填島城の北へ抜けた。
三好家の軍勢も安見家の軍勢も、既に兵の把握すらできる状態にはなかった。ただ三好実休はやはり歴戦の武将であった。眠るにあたっても当然のように武装は解いていなかったため、槍を手にして左右のものに、馬廻りの二十騎ほどとその郎党、合わせて百ほどを集めると安見宗房もそれに倣って兵を集め、僅か百五十という兵ではあったが兵を編成したのは流石であった。
平野右衛門尉は騎馬隊を指揮していたが、建物を無視するように進軍させて最後に細い堀であったものを越えて敵陣を抜けた。抜けて半町ほど進むと、平野右衛門尉隊が開けた穴に青地茂綱隊が、手槍のようにした三間槍を手に突入していった。やはり狭いところでは手槍の方が使いやすいのであろうと思いながら、平野右衛門尉は兵の点呼を行った。幸いなことに、というべきなのか、二千の騎馬隊は二十数騎の被害が出ただけ、そのほとんどが同僚の馬に助けられ人的な被害としては数騎だけという軽微な被害だけであった。態勢の整わない部隊を混乱させての奇襲の一撃であれば被害はほとんどないというのは騎馬隊に限った話ではないが、敵中突破であってもこれほど軽微な被害で済んだのは驚くべきことであった。
平野右衛門尉は再度の突入に備え軍を展開させ、味方の兵を巻き込まないように考えながら敵兵の位置を見ていると、填島城から小勢であったが兵が出たのを見た。後に従う兵もあり、填島城外で集結、再編成しての攻撃を行うつもりであろうと考えた平野右衛門尉は、迷わずその小勢に対して突撃を命じた。
填島城を脱した三好実休と安見宗房は手勢は百五十ほどと減っていたが、填島城から出た後もそれを見た兵が続いていることもあり、適当な場所で集結させるつもりであった。しかし、現実は非常であった。北の方角から馬蹄の響きが近付いてきた。闇夜のことであるためその姿は見えなかったが、相当数の騎馬を含む部隊がこちらに急進してきているのは明らかであった。三好実休の耳は、騎馬だけで千数百から二千程度と聞き取っていた。それはつまり、軍全体としては五千から八千近い部隊であることを示していた。三好実休は、どこにこれほどまでの兵が居たのかと訝しくも思いつつも、敵兵がいたのは事実であり、その突撃により填島城の陣にいた少なからぬ兵に被害が加えられ敵の陣中突破を許したのも、更に後詰の突入により填島城の西の一角以外は敵兵に溢れていたのも事実であった。
その上にこれほどの兵が居たとすれば、他の戦線も敗れたため、その兵が投入されたのに相違ない、と考えた三好実休は、とにもかくにも一旦退くこととした。馬廻りにいた加地盛時に殿を命じ、自身は僅かな供回りを連れ、安見宗房もこれに従った。
三好実休が落ちて程なくして、填島城を脱した兵を纏めた加地盛時隊に平野右衛門尉隊が殺到した。闇の中で馬蹄だけが接近を知らせているといえども、加地盛時隊には接近してくる方向だけは分かった。三好家の軍勢は今度は二百に満たない小勢であったが、敵が来ると分かって準備している兵であった。
平野右衛門尉率いる二千の騎馬隊が、一糸乱れぬ指揮の下加地盛時隊二百に殺到した。加地盛時隊も奮戦したが、馬体に跳ね飛ばされ馬蹄にかけられ、通り過ぎた後に戦闘能力を残している兵はほとんどいなかった。だが平野右衛門尉隊にも百近い被害が出たのは、やはり騎馬隊といえども接近戦であれば被害が出るのは仕方がないためであろう。
填島城内では手向かいする兵はいたものの組織的な戦闘などできるわけもなく姉小路家と足利将軍家の兵に蹂躙されていった。諸所で兵が降伏して武装解除が行われ、夜が明けるころにはすべてが終わっていた。
三好家と安見家の軍勢、合わせて一万七千はこの地で壊滅的な打撃を受け、三好実休、安見宗房もごくわずかな供回りだけを引き連れて退却し、交野城に戻った兵は千数百程度であった。




