百八十一、山崎の合戦
姉小路家の足利将軍家を奉じての上洛に端を発した京をめぐる戦い、そのうち填島城をめぐる戦いについては未明から早朝にかけての戦いで三好家、一向衆連合軍の勝利に終わった。一方で丹波は亀岡盆地における内ケ島氏理と内藤宗勝の戦いは、内ケ島氏理の勇戦により三好方を大きく破り籾井教業が三好家丹波攻略の総大将である内藤宗勝の首を上げるという大戦果を挙げた。これらの次第については既に述べた。
だが、京をめぐる戦い、兵数において最大規模の戦いが行われたのはこの二つの地ではなく山崎の地であった。戦国時代を通じて畿内でも相当に大規模な戦いが始まろうとしていた。
姉小路家日誌天文二十四年文月十一日(1555年7月31日)の項にこうある。
「三好長慶、兵を繰り出して山崎を攻め候。渡辺前綱殿、山崎に在り。(略)合戦始まりたるとの報にも姉小路房綱公、安んじて猊下と話を続け候」
姉小路家日誌によれば草太は猊下と会っていたということになるが、猊下と呼ばれる人物の名は書かれていない。この当時に猊下と呼ばれる存在はそう多くはない。一般には比叡山延暦寺の座主、応胤法親王であるとされているが、会っていたとすればその目的が定かではない。比叡山延暦寺の僧兵の力を借りる算段をしていたというのが定説となっているが、延暦寺の僧兵団はこの前後に新たな動きをせずに京の街の治安を守り続けていたことが分かっている。
ともあれ山崎には渡辺前綱率いる姉小路家の軍が入っており、山崎での合戦が始まっても草太が全く動じないほどの陣容であったというのは確かであったようである。
午の下刻、朝議を終えて双林寺に入っていた草太は一人の客を迎えていた。それは多門院英俊であった。
「お初にお目にかかります。飛騨姉小路家の当主、姉小路房綱にございます。……猊下、とお呼びすべきですか」
年のころ四十前、つい先ごろに多門院門跡を継いだ高僧、それが多門院英俊であった。武将として身を立てようとしていれば、間違いなく一廉の武将ではあったであろう風格を漂わせていたが、もしかするとそれは多門院英俊が僧であることを選んでその道に専心したためかもしれなかった。興福寺は南都北嶺という言葉の通り、この当時の日本の宗教界において比叡山延暦寺と並ぶ巨頭の一角を占めていた。その興福寺を代表しての挨拶、ということであれば、草太も無碍にはできなかった。多門院英俊は言った。
「猊下、などとは面映ゆいことにございます。興福寺を代表し、この度の上洛に際してのご挨拶に参りました」
多門院英俊がこう言ったのと同時に、前線よりの使者が来た。朝から既に戦が始まっていたため、草太は前線よりの使者は許可なしに報告することを許していた。
「報告いたします、渡辺前綱殿の山崎より使者が参りました。三好家の第二陣と交戦を開始したと事」
これを聞いた多門院英俊が、いささか恐縮したように言った。
「戦もありましょうから用件のほどはまたの機会にさせていただきましょう。この度はご挨拶まで」
だが草太は全く動じた様子もなく、落ち着き払って言った。
「渡辺前綱が率いておりますゆえ山崎に危険はございません。……ご用件を伺いましょう。返答は時間をもらう必要があるやもしれませんが」
多門院英俊の用件自体は、姉小路家との間の誼を深くしたいというものであったため、さほど困難な話ではなかった。ただ、大和を治める守護としての地位は持っているとはいえ実質的には既に筒井家が守護としての実態を持っていた。草太は多門院英俊に言った。
「大和の国の支配権をめぐる争いで興福寺に加担せよというのであれば、残念ながらその願いは聞けませぬ。だが寺としての本分を保ち存続する、という点であれば、我らは協力しましょう」
渡辺前綱が一鍬衆六千、中筒隊三千を率いて山崎城に着陣したのは文月十日夕のことであった。もともと山崎城に込めてあった兵を合わせて一鍬衆九千、中筒隊四千、この兵力が山崎における三好家を迎え撃つための全兵力であった。三好家への備えとして防衛のために空堀、土嚢、逆茂木を交えた陣は既に張っていたが、それでは不足していた。ただ守るだけでは勝てない、そう渡辺前綱が考えたためであった。京を南西に下ること四里、天王山の南にある淀川と山に挟まれた幅半里、奥行一里の平地、ここが合戦の地として渡辺前綱が選んだ地であった。
この地域には村も多くあったが、そのほとんどが戦乱に荒らされており辛うじて田畑を作るか、さもなければ街道を通る旅人に商売をすることによって身を立てていた。そのため合戦と聞けば身軽に逃げ、手近な成合の山中へ身を隠すものが大多数を占めていた。渡辺前綱は炊き出しを行い、兵糧を用いて握り飯を作らせて山に逃げた民に配り、また戦場となる地の村々を回らせて民が残っていないかを確認させた。翌日が戦、ということはあり得るとは思いながらも、報告によれば三好家の軍勢は未だ集結中であるためもう数日あると渡辺前綱は考えていた。ただ物見を多数出し警戒は怠らなかった。
文月十一日早朝、物見の報告があった。
「集結中と見られていた三好家の軍勢二万が未明に芥川山城を発し、払暁には高槻城の兵八千と合流。既に第一陣一万二千が一乗寺門前に陣を構え攻撃準備を整えているとのこと」
渡辺前綱は兵を前夜から防衛陣に詰めており、戦闘の準備は怠りなく行われていた。それでも第一陣だけで一万二千、後方の兵も含めれば二万八千という兵数は姉小路家の兵数の二倍を超え、攻める側と守る側という差はあれどもその差は大きかった。ただ守っているだけでは撃退はやはり厄介な問題であった。
更に今後の展開も考えればこの地で相当数の三好家の軍勢を討つ必要があった。当然のことではあるが、姉小路家は山城の防衛をいつまでも請け負うことはできず、この戦が終われば大部分の兵は近江へ引き上げることが予想された。だが三好家がこのまま勢力を保つとすれば兵を引き上げることは危険であり、兵をこの地に留めることが必要となる、ひいては今後の戦略に、山城に大兵力を釘付けにしなければならないという足枷をはめるという意味で大きな影響を及ぼすことが予想された。敵方に大きな損害を強いて当分は京への攻撃を回避する、これが山崎での戦で求められる勝利であり、ほとんど被害もない単純な敵方の撤退は敗北と違いはなかった。京への侵入を許すというのは論外としても対陣を続けるだけでも戦略的には敗北であり、突破できるかもしれないという隙を見せ希望を見せつつ撃破する必要があるという意味で、難しい戦いにならざるを得なかった。
三好家の軍勢は姉小路家の陣から距離一里に陣を張り、攻撃の合図を待っていた。
「攻撃準備、整いましてございます。出撃を命じ下され」
三好長将が第一陣の主将、十河一存に報告がてら頼んだ。だが十河一存は少し笑って言った。
「若いのぅ。まだ始まる前だというのに、気張りすぎじゃ。もう少し、肩の力を抜かぬと息切れするぞ。単なる武者ならば息切れするまで戦い、息切れすれば後方で寝ておれば済むがな、我ら将は最後まで采配を取ってこそじゃ。まずはあの船が使えるか、試してみようかぃ。五台、出せぃ」
十河一存は船と言ったが、姉小路家側からであれば上流から下流に川を下るために使いようもないではないが、三好家側から川を遡上するのであれば速度が出ないために鉄砲の良い的でしかなく、上陸することもできないのは明らかであった。
ここで船と呼ばれたのは、幅二間、長さ三間の長方形をした八輪の台車に乗る板囲いであった。床板はなく内側から兵が押して動くようになっており、銃眼、矢間が開けられているため攻撃もできた。船と呼ばれているのは、関船などに使われている押し廻し造りを参考にしたためであり、特に姉小路家に対しての機密保持の観点からそう呼ばれたためであった。内側と外側が鉄張りになっており、中筒であっても容易には貫通はしないとされた。また漆喰が塗られているために火攻めにも強かった。
問題は相当に重量があること、そして三好家にはこの戦場にこれを八台しか用意することができなかったことであった。十河一存隊にはそのうちの六台が配備されていたのは、この船で姉小路家の陣を突破することが期待されていたためであった。そのうちの五台を出したのは十河一存も思い切ったものであるがもとより使い物になればこれでかなり優位に立つことができ使い物にならなければそれまでと割り切っていたためであり、また十河一存自身が盾に隠れて戦うなどというのが性に合わなかったためであった。
妙なものが押し出されてくるとの報告を受け渡辺前綱が敵陣を見ると、確かに奇妙なものであった。水軍の船の上部に似ていないこともないが、それよりも板塀に似ていた。速度は歩くよりも遅いが確かに前進しており、それが街道沿いに静々と前進してくるのは不気味ですらあった。手を出し難かったがその後ろに三好家の軍勢が続いているとあれば無視するわけにもいかなかった。だが如何にすればよいか妙案があるわけもなく、渡辺前綱は傍らにいた市川大三郎に声をかけた。すると市川大三郎は簡単に言った。
「……壁にございますな。ならば攻城戦と同じ要領でよかろうかと。それにしても遅うございますな」
そうだな、と渡辺前綱は即座に頭を切り替え、一鍬衆に土嚢の用意を始めさせた。三好家の軍勢は押し出されてくる船(そう呼ばれているとは姉小路家側は知らなかったが)の後ろから前に出ようとはせず、そのため準備の時間は十分にとれた。七太郎の棒火矢や擲弾筒の備えもないではなかったが、相手の正体が分からないこの時点では渡辺前綱はまだ使うつもりはなかった。
寒川元政は得体の知れない船というものの裁量を任され押し出させていたがその道行は困難を極めた。人が歩く場合の半分ほどしか速度は出ないのはよいとしても、少しでも街道から外れると途端に車輪が埋まって脱出のために後方から兵が押す必要がある上に、曲がるために非常に大きな力が必要であった。田に入れた場合には動けなくなるであろうし畝の類や段差の類があっても動けないであろうというのが問題の大部分を占めていた。つまりこの船というものは、踏み固められた街道を一列に静々と前進し後退する、それ以上のことはできないものであった。船の中にはそれぞれ三十の兵が入り船の後方に兵五百、これに加えて寒川元政自身の手勢が千、この千五百が最先鋒であり先陣であるのは光栄ではあったが、できることならばこのような得体の知れない重い壁を押し上げるよりも駆け寄っての突撃という形で先陣を切りたかった。
彼我の距離が十町までは待ったが、渡辺前綱はそれ以上接近させるよりも一撃を加えることを考えていた。
「市川大三郎、一鍬衆千を預ける。壁、というからには城の塀と同じく鉄砲銃眼に矢間があろうが、駆け寄って土嚢を積み上げ、壁を乗り越えての一撃を加えよ。今から行けば丁度水無瀬神宮の鎮守の森に隠れての接近もできよう」
命令を受けて市川大三郎は即座に動いた。一鍬衆千を引き連れて川沿いを走り、やや内側に位置する西国街道上を静々と前進する船まで一町半に迫るまでに、わずかに四半時もかからなかった。一鍬衆は肩に土嚢を持ってはいたが、それで動きが鈍るような兵は一鍬衆にはいなかった。水無瀬神宮の鎮守の森は森というよりも小規模な木立でしかなかったが銃撃を防ぐのには十分であった。渡辺前綱の見立て通り、市川大三郎隊は木立を間に挟んで船に接近するように動くことができた。
無論、この動きを寒川元政は見逃さず自身の兵を繰り出したが、肩の土嚢をそこにおいた一鍬衆と正面から戦ってはほとんどが農民兵で構成され装備さえ揃えられない寒川元政隊が敵するわけもなく、特に被害らしい被害もなく市川大三郎隊は寒川元政隊を蹴散らかした。だが大半はそこが安全地帯とばかりに船の後ろに逃げ戻り、寒川元政自身も船の後ろに戻っていた。船を盾に一鍬衆と戦いつつ敵陣に接近するつもりであり、まずは目の前の一鍬衆と対峙すべく境内地の地盤が良いのを見て船を境内地に入れた。周辺の木立が気になったが、姉小路家の兵の持つ三間槍は木立の中では取り回しがきかないため、攻撃があるとすれば正面からであろうと考えたためでもあった。
だがこれが間違いであった。境内地に入れて一鍬衆を迎え撃つ態勢を取った寒川元政隊であったが、一鍬衆は鎮守の森を抜けて襲い掛かった。その手にあるのは土嚢であり小太刀であった。また三間槍の一段目だけを取り外して手槍として持ち、一鍬衆の装備としては完全に城攻めを行う際のそれであった。
まず土嚢が積まれ半ば埋まるようにして船の動きが止められた。その次にあるのは土嚢を駆け上っての船の内部への一鍬衆の侵入であり、脇差をさした程度で弓鉄砲を扱うことを主眼に置いた兵、それに脇差胴丸さえない船を動かすための人夫の類と小太刀の扱いについて富田勢源から手ほどきを受けている一鍬衆では最初から勝負にならなかった。船の外にいた兵も、万全の状況であっても簡単に蹴散らかされる程度の農民兵であり、先ほど実際に蹴散らかされたということもあって一鍬衆を見ただけで半ばは逃げ出し、逃げ腰になっているところを容赦なく一鍬衆が槍で突き、或いは小太刀で切り倒していった。
寒川元政は敗勢が濃いのを見て馬を飛ばして退却することに成功したが、自身の手勢はほとんどすべてを失い預けられた船も失い、面目を失った。だが十河一存はこの失敗にさもありなんといった顔で頷いただけであった。
「新しい物は、得てしてうまくいかぬものじゃ。戦場では特に、のぅ。あのような大物、上手くいくと考える兄者も兄者だが」
そう感想を漏らした十河一存は、改めて三好長将に兵五千を与えて先陣を命ずるとともに自身も兵七千を従えて後詰に回ることとした。
ふと十河一存は空を見たが、曇ってはいたが雨は降りそうになかった。鉄砲に対する策が船であったが、それが使えないとなれば回り込み気をそらしての奇襲か味方を盾の突撃か、少なからぬ血が必要になるのは間違いななさそうであった。




