百七十八、丹波の鬼(三)
丹波攻略を行っていた内ケ島氏理が兵を率いて須知城から出陣した一方で、八木城からは内藤宗勝、松永久秀が兵を出し老ノ坂にて防衛陣地を築いていた姉小路家の田中弥左衛門隊との間で合戦が始まった次第については既に述べた。老ノ坂に入った三好家の兵は細い峠道を通る必要から必然的に亀岡から京への間で足止めを受け、その後方から内ケ島氏理が迫っていた。丹波での合戦が、天文二十四年文月十一日(1555年7月31日)、この日は口丹波の地が血を最も多く吸ったであるといわれるその戦が、始まろうとしていた。
古い見世物小屋の口上にこうある。
「鬼だ鬼だよ鬼が出た。丹波の国の鬼が出た。遠く飛騨から山越えて、丹波の国の鬼従えて、鬼だ鬼だよ鬼が出た。鬼といっても悪くはない、京を護りし護国の善鬼、鬼の亡骸その頭、見れば悪鬼も裸足で逃げ出すってぇ寸法だ。さぁさぁお代は見てのお帰りだ、大人は八文、子は四文、孕み女は二倍だよ。鬼だ鬼だよ鬼が出た……」
このような口上につられて入ってみても精々作り物の角のある頭蓋骨が一つ置いてあるのが関の山だったそうだが、それでもこの口上は古典落語の中でも出てくるほど有名なものであったらしい。戦後には廃れたそうだが、この手の小屋はつい最近まで実際にあったそうである。
丹波の鬼、そう呼ばれる武士は三人いる。丹波の赤鬼こと赤井直正、青鬼こと籾井教業、そして大鬼こと内ケ島氏理の三人である。体格がさして大きくはない内ケ島氏理が大鬼と呼ばれるのは、丹波の赤鬼、青鬼とも結局は内ケ島家に仕え、二人を従えての働きが続くためである。とはいえ、この時点では赤井直正、籾井教業の二人とも赤鬼、青鬼とは呼ばれてはおらず、内ケ島氏理も丹波の大鬼と呼ばれるのは丹波における三好家との合戦を経た後である。
津々浦々の祭りの度にこのような口上で場を賑やかす香具師が現れ数百年近く絶えることなく商売をしていたという事実を見ても、内ケ島氏理がいかに庶民に人気の高い武将であったかが分かるだろう。
因みに平助は講談、のちに歌舞伎によく取り上げられ、草太も芝居、狂言に登場することも多いのだが、それについては機会があれば語ることとしよう。
文月十一日(7月31日)早朝、未だ朝靄が晴れぬ中、大村城に籠る海老名友清は郎党衆から急報を受けていた。
「殿、姉小路家の兵と思しき軍団が船岡に至り、川沿いに南東へ向かっている模様にございます。発見時既に先頭は船岡を過ぎ後方は未だ峠道を抜けきっておらずまた全体の数も不明でございますが、少なくとも数千が既に当城を無視して八木城に向かっている模様」
海老名友清は使い番による命により内藤宗勝以下八木城に籠る三好家の軍勢が山城攻撃のために出撃し、自身は姉小路家の軍勢が出撃してきた場合には即座に通報すること、そして可能な限り姉小路家の軍勢の侵攻を遅らせ止めることを命じられていた。海老名友清は姉小路軍と実際に何度か丹波の地で戦っていたがいずれも姉小路軍の強さを痛感させるものであったため、また内ケ島氏理という武将の勇猛果敢なことを知っていたため、当然一直線に山陰道を攻め上ってくる、そう考えていた。内ケ島氏理であれば園部の地で一戦、突破して八木城に向かう、そう予測していた。そのために物見も山陰道には手厚くしていた。
だが現実は違った。内ケ島氏理は大村城を無視する形で北回りに迂回した。物見を山陰道に手厚くしたために他が手薄となり、船岡を数千の軍勢が通過するまで気が付けずにいた。無論、日吉方面にも物見は出していたが数は少なく、通報がないことから通報する暇もなく始末されたのであろうと海老名友清は察した。
「出陣だ。全軍で打って出る。敵は後ろを見せている。後方より姉小路の軍兵を蹴散らかす。急げ」
数日前から須知城に出陣の気配があるのを察していた海老名友清以下の三好家の軍勢は戦の支度を整えていたため、後を田中盛重に任せて出撃するまでさほどに時はかからなかった。ただその準備の大部分は籠城の支度であり、出陣して迎撃する支度は手薄であった。火縄銃も三百、弓隊も二百が配されており、籠城、防衛に向いた陣立てであった。それでも野戦をする最低限の支度はしてあり、また馬は少なくほぼ全員が徒歩であったが士気は高かった。
内ケ島氏理隊八千は、正確には内ケ島家の兵だけから成っていたわけではなかった。その中には内ケ島氏理の配下ではない一人の武将と百の兵が含まれていた。それは共同して須知城を攻め落とし、更に南八田城を攻めるためにそのまま須知城に入っていた籾井家の当主籾井綱重の甥、籾井教業とその配下であった。流石に丹波国人衆であり丹波の道については詳しかったため、月が出ているといっても闇夜の中を内ケ島家の兵が日吉を回り船岡に迷わず出ることができたのは籾井教業の案内によるところが大きかった。
全軍が船岡を過ぎ桂川を渡り福寿寺の南へ差し掛かるころ、物見より報告があった。
「大村城より海老名友清隊と思しき兵三千、園部川沿いに進軍中。発見位置は園部川と桂川の合流点の半里上流とのことでございます」
ご苦労、と内ケ島氏理は傍らにいた山下氏安に命じた。
「山下氏安、一鍬衆千、中筒隊五百を引き連れ大村城から出陣してきた海老名友清隊を叩け。終われば八木城へ攻め上り、更に合流を急げ。我らは八木城、亀岡を経て老ノ坂へ向かう」
は、と山下氏安は即座に後方へ下がり、隊は前進したまま中ほどより分かれて一部が桂川沿いに南下していった。合戦は桂川、園部川の合流点と目しているようであった。道案内のために数名の籾井家の郎党が突き従った。
先に桂川と園部川の合流付近の荒井神社前へ着いたのは、果たして山下氏安であった。距離が近かったこと、そして籾井家の郎党が抜かりなく道案内をしたことによるものであった。辺りは一面のススキが生えていたが内ケ島家の赤備え千五百を隠すほどではなく、さりとて土嚢を作らせ積ませるほどの時間はないようであった。山の上にいる物見からは、山越えにはなるが彼我の距離は八町程であり、ただ園部川の対岸を三好家の軍勢が進んでいるため山を回り込む形で接敵するものと思われた。当然にして海老名友清隊にも山下氏安隊の接近は知られているものと見られていた。
「前進せよ、川岸で迎え撃て」
最前列は一鍬衆であり、その直後に三列横隊に居並んだ中筒隊、更にその後ろに一鍬衆がまた並んだ。最前列の一鍬衆の役割は盾であり最初の一撃を入れ敵を切り裂く刃であった。河川敷から対岸を見れば、丁度三好家の軍勢はその先頭が川向う約二町の距離に入るところであった。山下氏安は下知を下した。
「中筒隊、撃ち方、三連」
この銃撃を機に両部隊の激突が始まった。
銃撃を受けた海老名友清隊は、山下氏安隊の最初の銃撃により先頭を進む三百が脱落した。彼らにとって不幸であったことは、かなりの速さで移動している内ケ島軍を追尾しての迎撃のための進軍であったため、竹束のようなかさばり移動を阻害する装備をほとんど用意しなかったことであった。城には用意があったが迎撃のためにそれは城に置いてきていた。もちろん竹束がないのは山下氏安隊も同じであったが、先手をとった方が有利であり、更に小筒が中心の三好家よりも口径が大きく威力も飛距離も大きい中筒を装備した山下氏安隊の方が有利であるのは動かなかった。加えて二町の距離では火縄銃といえども小筒では射程からは少し離れており、弓であれば一町までは近付く必要があった。
だが海老名友清は予想を上回って猛勇であった。
「者ども、突撃だ。撃たれてもひるむな。ただ進め」
いかに中筒隊が撃ち方を撃とうとも、一度に放てる弾は一丁につき一発、更にいかに練度が高く早合を用いたといえども百数えるうちに十も撃てない。だが百数えるほどの間は川を挟んでいたとしても二町の距離を詰めるのに十分な時間であった。もちろん川半ばまで迫った時に投げ槍を二連で放たせたが、海老名友清隊千五百が一鍬衆に肉薄した。海老名友清は吠えた。
「小細工はなしだ。ただ突き崩せ」
小筒を装備した鉄砲隊も弓隊も川を渡る前後で大半を失ったこともあり、ただ三好家の兵を連ねて山下氏安隊に突撃する以外には有効な手段はなかった。だがそれでも三好家の兵は千五百、接近戦を行う一鍬衆だけに絞れば、壊滅する以前に放った矢弾により二百近くを減らした山下氏安隊の二倍近い兵数がいた。
「落ち着いて戦え。敵が一度に三人でかかってくるならこちらは六人で当たれ」
海老名友清は兵を鼓舞しながらも、内ケ島軍の強さに戦いていた。
前線近くで指揮を執っていた山下氏安は中筒隊を下げて一鍬衆を前面に出し、集団戦術で海老名友清隊を受け止めていた。戦局は、しかし芳しくはなかった。常であれば敵を十倒すうちにこちらは一か二の被害しかないのに対し、この戦いでは三四の被害が出ていた。それでも数からいえば遠からず敵は撤退するはずであるが、それでも被害が多すぎた。さして深くもなく川幅も半町もない川であったが既に川面は死体で埋まり、あるいは負傷者も多数いたのであろうがその上を三好家の兵は躊躇なく踏み越え、山下氏安隊に肉薄してきた。敵はざっと半数、七百ほども残りがいるかどうかというあたりで山下氏安は率いている一鍬衆の数を目で数え、残りが五百余であることを確認した。敵の数の優位が大きく揺らいだ、そう感じた山下氏安は突撃を命じた。
「守りの時間は終わりだ。全軍前進、突き崩せぃ」
ここに至っては山下氏安も一段後方で指揮だけを執っているわけにはいかず、供回りを連れ自らも敵陣に突撃を敢行した。周囲の一鍬衆もよくこれに応え、即座に川岸まで十丈ほど前線を押し上げた。
海老名友清は、武運があったのだろう、山下氏安の突撃の時点でも未だ生きて指揮を執っていた。だが配下が七百をきり山下氏安の突撃によりさらに百五十近くが死傷したのを見、撤退を命じた。これ以上の被害を出すと、大村城の防衛にも支障が出るためであった。
だが追撃の手を休める山下氏安であったならば、内ケ島氏理も丹波まで伴ってはこなかった。下がる海老名友清隊に対して中筒隊が容赦のない弾を浴びせ、更に百五十を脱落させると一鍬衆が追いすがっての攻撃を行い、結局は海老名友清隊は海老名友清を含む三百が戦場から逃れることができただけであった。
三好家の兵を追いやった山下氏安は十四五の弾を撃った中筒隊には早合を合わせさせ中筒の整備を命じ、また一鍬衆には周辺の兵を敵味方なく確認させた。医療隊を伴っていないため医師はいなかったが、一鍬衆の背嚢には晒と傷薬程度は入っており、また切り傷程度であれば対応の仕方程度であれば一鍬衆であれば心得があった。流石に手に余るものは楽にさせ、三好家の兵からは武装を剥いで一纏めにして山を作った。見聞した山下氏安は、弓鉄砲はおくとしても槍も胴丸も陣笠もかなり上等で使い込まれたものが多くあったことに少なからず驚いていた。単なる雑兵とは一味も二味も違うとは思っていたが、三好家の精兵、その中核をなすべき部隊であると装備からは考える他なかった。
付近の農村に命じてはぎ取った装備を須知城に運ばせ、また重傷を負い或いは死亡した内ケ島家の兵も戸板などで近在の村にしばらく置かせた。こうした命も、内ケ島家の名よりも籾井家の名を出した方が容易であるのは、三好家の支配地域であるといえども流石に丹波国人衆の威光であった。
四半時の休息の後、山下氏安は残った一鍬衆五百、中筒隊五百の合わせて千の兵に東へ向け進軍を開始させた。時刻は午の刻を回っていた。




