百七十六、丹波の鬼(一)
遂に第二次姉小路包囲網、その起点である京をめぐる戦いが始まった。京都防衛のための戦いはほぼ同時期に三か所で行われたが、その一つ填島城の戦い、その第一幕については一向宗側の勝利といってもよかったが、京への侵入を許すかどうかという意味での最終的な決幕は、一向宗の勝利として決着がついた。填島城防衛のために出陣した足利将軍家の兵四千はその大半が失われ、大将である石川長高でさえ討ち取られた。この次第については既に述べた。
生き残った兵をまとめた池田隼人は最低限の役割である三好家、石山本願寺の連合軍の進軍を止めるため宇治橋を渡ってその東岸に陣を張った。石山本願寺直属の僧兵への被害を避けたい下間頼廉はそれ以上の進軍をせず、河内顕証寺を預かる証淳に摂津、和泉、河内を中心とした一向宗約一万程を任せて石山本願寺へ向けて帰還していった。
状況が次に大きく動くのは日が落ちた後であるため、彼らからはいったん目を離し、別の戦場を見ることとしよう。
御湯殿上日記にこうある。
「姉小路家の一鍬衆、三間ほどの槍を立て六列縦隊に概ね三十列毎に別れて進みき。頭は陣笠鉢金をつけ小札作りと思しき胴丸小手佩楯をつけ、革の背嚢を持ち箙に矢を指したるも弓は見えず、また小太刀もあり、鎧下は麻と見え、足拵えは脛当て足半をつけ、何れも黒漆塗と見えたり。一糸乱れぬ行列であり、その速度は我らが小走りに駆けると同然なり。途中横切りたる童、列を乱したるも、一人が列よりはなれ童叱り候も怪我もなければ叱られしのみなり。(略)」
田中弥左衛門の軍勢は京、四条通を通ったことから当然のことながら京の人の目をひき、この行列を見ていた女房の一人が書いたのであろう。この時の一鍬衆の装備を知る貴重な資料である。しかしあまり戦には縁のないはずの女官が如何に直接見たからといって武器甲冑について詳しすぎるため、女官ではなく別の者が書いたのではないかという疑念の残る記述でもある。また、最後の下りでは三禁がここでも徹底されていたのが分かる。そういえばここには武将である田中弥左衛門に対する言及が見当たらない。何らかの事情で別に移動していたのか女官が見ていなかったのか、或いは他の一鍬衆と同じ服装だったのかもしれない。
御湯殿上日記には平野右衛門尉、渡辺前綱の外見についての記述があり、しかもおおむね好意的であるのに対し、田中弥左衛門は書かれていない。女性のことであるから、ということなのかもしれない。
天文二十四年文月十日(1555年7月30日)に双林寺に入った草太は、周辺の情勢から戦が近いことを感じ取っていた。これは草太のみならず武将衆であれば共通の認識であり、即座に草太は手配りをした。かねてより内ケ島氏理が丹波攻略を進めており既に船井郡を落とし亀岡盆地に入る機を窺っている、という報告があってから五日と経っていなかった。最前線近くで軍を解く訳もなく、特に常備兵だけで構成されている内ケ島家であれば落城直後よりも兵を減らすことはなかった。そのため丹波路について、草太は命令を下した。
「田中弥左衛門、一鍬衆千五百を与える。先遣隊として老ノ坂の京側四五町に陣を敷け。後に小野田次郎三郎に一鍬衆三千、中筒隊千を増派する。こちらは敵先鋒の進軍を遅らせるための陣だ。逃さぬための陣は桂は沓掛付近に張り、そこは抜かれぬようにせよ。陣を敷いた後は田中弥左衛門、防衛はそなたに任せる。万余の兵といえども、隘路を抜け一度に戦える兵は少ない。出口付近は一町近い広さがあるが、難しきことはないはずだ。抜かるな。……誰ぞある、内ケ島氏理に知らせよ。それだけで良い。詳しく言わずとも動くはずだ」
そして草太は傍らの紙にさらさらと内ケ島氏理へ渡す手紙を書き、包んで小者に渡した。
十里ほどの距離にある須知城に内ケ島氏理はいるが、戦に間に合うかどうかはほとんど心配していなかった。手配りこそしたが明日にも戦というわけでもなかろうと草太自身は考えていた。対応できる手を打っている、という姿勢を見せることだけで公家たちに対しては充分なためであった。
田中弥左衛門が陣を整え出発したのは午の下刻であった。京の四条通りを通り途中から五条へ下り桂川を渡り、三里離れた目的地に着いたのは申の中刻であった。手筈通り、田中弥左衛門は一鍬衆に土嚢を作らせ、道の両側に、片側ずつ交互に小さな防衛陣を作らせた。一つに入ることのできる人数は十から二十名前後とし、十丈程度に一つ程度の割で三十ほども作った。といっても作ったのは土嚢を胸まで積んだだけの簡単な陣、そして細い縄を膝の高さに、陣と陣の間の街道に数本ずつ張っただけであった。この縄はピンと張ったわけではなく、地面につかない程度に少し緩く張った。ピンと張るとすぐに緩み切れる上、刀などでも処理は簡単であるが、少し緩めに張ると足を取られるにも関わらず刀などでは処理が難しいものとなるためであった。この縄は、田中弥左衛門は南近江で新しく雇われた藤堂虎高と酒を飲んでいる際に四方山話の中で出てきたものを試してみたのであった。
陣を張り終えたころに日暮れとなり、日暮れと同時に増援として小野田次郎三郎が現れた。
「小野田次郎三郎、そなたは補給が専門と聞いたが」
小野田次郎三郎は左様で、と頭を掻きながら言った。
「補給が専門、とは申しますが基本的な戦も訓練されております。専門ではない、というだけでございます。補給が専門というのは単に攻めるのが不得手であったため、物資を守り届けるための防衛戦をこそ専門とするためにございます。また、何をおいても腹が減っては戦も出来ませぬ故」
そういえば軍学校でも補給を専門に扱うべきだというのは御屋形様の主張であったな、と田中弥左衛門は思い出した。
「補給畑といっても、軍学校を出たものに得手不得手はあれども戦えるかなど失礼をしたな。戦えぬものを卒業させるほど甘くはないからな。さてこれからのことだが」
そういって田中弥左衛門は空を見た。星が出ていて明日は晴れそうであった。
「幸いにして明日は晴れ、鉄砲には活躍してもらうことになるな」
そういって明日の合戦、その概要を話した。簡単に言えば鉄砲隊が各陣地で鉄砲により三好軍の戦闘を叩いて速度を遅らせ、いよいよ追いつこうとすれば一鍬衆が防ぎ中筒隊が引く時間を稼ぐ、そして一鍬衆も適宜引きながら次の陣の者が代わりを務める、これを繰り返してとにかく進軍速度を落とし時間を稼ぐ、これが全てであった。
「地形は分かっておろう、敵兵がどの程度の数かは分からぬがこの老ノ坂は半里の間幅三丈程度の路が続く。整列しているのでもなく戦という事ならば横に十人も並べぬし三尺以上距離を詰めることも出来ぬ。隊ごとの距離も必要だ。兵だけではなく馬もいる、弓を持っているものも居れば兵糧その他の物資を運ぶものも付き従うだろう。となれば半里の間に、四五千程度多くとも八千程度だ。それ以上の兵がいるとすれば亀山辺りで通過待ちだ。内ケ島氏理様が抜かりなく対応するだろう。……この後だが、沓掛に空堀を掘り土嚢を積んでおく。中筒隊には普段よりも多い弾を支度させておけ。常ならば十五も合わせないが、念のためだ。二十五、合わせさせよ」
は、と小野田次郎三郎が下がると田中弥左衛門は念のためにと周辺の山にも物見を出し、その後空堀を掘っている一鍬衆の監督のために見回りに出た。
田中弥左衛門隊が街道沿いに防御陣地を築いているころ、八木城では出陣準備が進められていた。出陣は戌の下刻、王子付近で休止、その後払暁とともに老ノ坂を越えて京へ入ることが予定されていた。その最後の軍議と称して、松永久秀と内藤宗勝が一室で盃を傾けていた。ふと内藤宗勝が言った。
「……それにしても思い切ったな」
なにがだ、とは松永久秀は聞かなかった。言うまでもなく、八木城の城兵をほぼ根こそぎにして合戦に向かう、そのことを指しているのであった。残す兵は二百に満たなかった。
「そうでもしなければ勝てぬどころか生き延びることもできぬだろうて。いや、根こそぎにしてもまだ難しかろうと見ておるよ」
「そんなにか」
内藤宗勝は武将としての戦場での働きであればこの兄松永久秀よりも上である、その自信はあったしそれだけの実績も積んでいた。事実、この場に松永久秀がいるのは内藤宗勝が上げた武功によるものであり、その兄だからという理由が大きかった。しかし武将としては横に置くとして謀略、調略や諜報といった戦を陰から支える働きについては、どう考えても松永久秀が一枚も二枚も上であった。その松永久秀が、全軍で打ちかかっても勝てるどころか生き延びるのも難しいという戦であった。内藤宗勝は出陣を取りやめることはできないまでも、おざなりの出兵に留めることも考え始めた。
だがその考えを読んだかのように、松永久秀が言った。
「当たり前の話だが、おざなりと思われれば摂津からの兵糧は諦めることになる。補給がなくなればこの地にいる一万五千の兵は早晩飢える。そうして士気が落ちたところを攻められれば、八上城の波多野晴通率いる国人衆だけでも我らは滅ぶしかあるまい。どう転んでも、我らが手柄を立てる以外には打開策はなく、その手柄も京を攻める以外には認められないだろう。であれば、失敗したとしても全力で出撃する以外にはなかろう」
内藤宗勝が少し気にしていることを言った。
「我らの不在を知って敵兵が出たらどうする。この城に兵がいないのを気取られないとは思えぬがな」
内藤宗勝の言葉に、松永久秀が言った。
「気取られないわけがないだろう。大村城の田中盛重、海老名友清の両名、そして南八田城の結城忠正には防衛体制を整えさせている。須知城の内ケ島氏理も出陣準備を整えているようだが、途中で城を一つ落として四里の道を越えて八木城を攻撃するのは難しかろう。まして我らの背後を突くのであれば朝に出ても夕方に王子につくか、という辺りだ。安心できるとは言わぬが、まずそう危険もなかろう」
翌払暁には出陣、その方針を再確認してその夜は眠った。




