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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第五章 混迷と混乱と
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百七十五、填島城防衛戦

 姉小路家の山城支配に対し、三好家が、そして石山本願寺が三路から攻撃を加えようとしている次第については既に述べた。夜明けとともに出陣し三好家本隊は本命の山崎を攻撃するとともに、別動隊として石山本願寺の一向宗と安見宗房率いる北河内衆が填島城に迫り、松永久秀、内藤宗勝の丹波攻略隊が老ノ坂越えに桂へ侵攻するというものであった。


 将軍足利義輝が草太と共に宮中に参内した文月十一日は、姉小路家にとっても足利将軍家にとっても長い一日であった。戦があることは草太にも将軍足利義輝にも分かり切った話であったが宮中に参内せざるを得ず、足利将軍家は既に石川長高に兵四千を与えて填島城に入れ、また姉小路家も山崎城に渡辺前綱を、桂に田中弥左衛門を配して防衛陣を整え、更に平野右衛門尉に騎馬隊二千を与えて遊撃隊として待機させ、三好家の攻撃を撃退する支度を整えていた。


 京を三好家が攻撃しようとするのであれば通る路は大きく三つ、正面から山崎を越えるか、巨椋池を回り込んで填島城を越えるか、丹波から老ノ坂を越えるかしかなかった。

 このうち姉小路家が三好家の本隊が襲来する、その大本命として最重要視し一門衆でも最も武功の多い渡辺前綱を配したのは山崎の地であり、既に空堀を掘り逆茂木を高々と結った内側に土嚢を積んで街道以外を封鎖する陣を張り、更に街道も夜明け前には土嚢を積んで突破されぬようにした。

 桂に陣を張った田中弥左衛門は丹波攻略を進める内ケ島氏理が松永久秀、内藤宗勝の背後を突く運びとなるように手筈を整え、峠越えを押しとどめ時間を稼ぐことにのみ注力すればよかった。そのため田中弥左衛門は、土嚢を積んだ小さな防衛陣を多数、街道沿いに丹波に向けて設置し、それぞれに十数名から二十名程度の兵を入れての足止めを主眼とした陣を敷いた。

 そして最も手薄となったのが、巨椋池を回り込む必要があり南山城という足利将軍家に帰順した地を通過する必要があるため事前に察知することの容易な填島城を越える路であった。手薄、とはいえ足利将軍家が守備する上、北へ一里の大善寺には青地茂綱が入り、填島城を無視して突破した際の備えとしていた。




 姉小路家日誌天文二十四年文月十一日(1555年7月31日)の項にこうある。

「一向宗南山城より来りて填島城を囲み、足利将軍家の将石川長高、防衛に当たり候。平野右衛門尉、増援として派され一向宗を突き石川長高よく防ぐも力及ばず、城は落ち候わずといえども石川長高、討死致し候」

 この時、石川長高が討死したのは足利将軍家にとって痛恨のことであったと言ってよい。この討死の後、足利将軍家の武将は文武両道の細川藤孝を除けば六角義治といった反姉小路派が大部分を占め、将軍足利義輝の姉小路家との協調路線に陰を落とす原因となったのである。この時石川長高が討死していなければ、或いは足利将軍家の辿るべき道は変わっていたかもしれない。



 当初は本圀寺に入るはずであったが、三好家の動静、特に戦の気配の濃さから越前から率いてきた兵二千に伊勢貞孝の率いてきた南山城勢のうち二千を合わせた兵四千を率いて石川長高が填島城に入ったのは、文月十日の日が暮れてからであった。日暮れ前には入城でき周囲に陣を張ることを考えていたが、石川長高には誤算があった。それは南山城勢の練度が思った以上に低く、越前から率いてきた兵と足並みが全くと言って良いほど取れないことであった。南山城勢の練度の低さに頭を抱えつつも石川長高は、信濃で率いていた雑兵を思い出し、改めて越前から率いてきた兵の練度の高さを思って苦笑していた。

 本圀寺から填島城までは三里ほどであったが、午の下刻に本圀寺を出発してから申の刻になっても道のりは半分も進んでいなかった。一時半(三時間)近くかけて一里ほどしか進んでいないのは信濃の雑兵としても遅い方であったが南山城の雑兵であればこの程度なのかとも思った。

「南山城の雑兵は別に参れ。その者たちは池田隼人、そなたが率いて填島城に入れよ」

 石川長高が業を煮やして命令を下したのは日も傾きかけたころであった。残りの二里を一時と少しで進み、石川長高と越前兵千五百が填島城に入ったのは戌の下刻であった。入れ替わりに平野右衛門尉が姉小路軍を率いて京に向かい、越前兵五百と南山城の雑兵二千を率いて池田隼人が填島城に入ったのは亥の刻であった。


 填島城に入った石川長高は、ただ黙って池田隼人の到着を待っていたわけではなかった。城を受け取った直後から物見も多数出し周辺の地形を探らせるとともに填島城の防衛体制を整えていった。といって日暮れまで時間もなく資材もないため城の内外を見回り塀の破れ目に土嚢を積ませ、要所に兵を配する程度にとどまった。とはいえ交代で夕餉を取らせた後も準備を進め、池田隼人が南山城の雑兵を引き連れて填島城に入るころにはあらかたの手配りを終わらせていた。

 城に入った池田隼人を一室に招き入れ、石川長高は尋ねた。

「どうだ、あの雑兵たちは。使い物になるか」

 池田隼人は黙って首を振った。

「あれならにぎやかし以外には役に立ちますまい。我が手勢五百であの二千、どうとでも始末できましょう。その程度の練度でございます」

 幸いなことに石川長高の放った物見が敵軍を発見したという報はなく、ただ填島城に兵がいる、という事実だけを表すのであればこの雑兵でも足りると言えば足りた。巨椋池の南を数万の兵が移動していれば物見の練度がさほどに高くない足利将軍家の兵であっても事前に察知できる、そう楽観視していたのは石川長高の油断であった。



 文月十一日の夜明けを待たずして、填島城は突如として湧いて出た多数の一向一揆に囲まれていた。甲冑を脱がずに休んでいた石川長高は、周囲から喚声とともに多数の兵が填島城へ突撃している、その様を見た。正確に言えば石川長高が見たのは填島城を取り囲む松明の群れであった。石川長高は左右の者に怒鳴った。

「何が起こっている。報告せよ」

 左右の者も分からず、ただ周囲に突如として松明の群れが現れ喚声を上げながら攻撃してきた、という説明をしただけであった。幸いにして城壁は問題がないようであったが、それも時間の問題のように思われた。と、そこに池田隼人が走り込んできた。

「石川長高殿、何度も戦ってきたからわかる、あの念仏を唱えながら突撃してくる敵、あれは一向一揆だ。四方を囲まれて南山城の雑兵は統制が取れず、一部は内側より城門を開けようとしたため我が手の者が切り捨てた。だが状況は悪い。何より敵の数が分からぬ。松明の群れの全てが敵兵という訳でもなかろうが、敵兵がどの程度いるのかの見当もつけられぬ」

 石川長高の脇にいた侍が、一向一揆であればどこから来たのか、と言ったが、石川長高は流石に冷静であった。

「どこから来たのか、それは分からぬし今は詮索する場合でもなかろう。南山城の雑兵は数に入れず、どの程度戦えるか」

 兵二千は戦える状況にいる、と池田隼人は言い、そして続けた。

「こちらには鉄砲はないが弓隊はいる。百五十が四方の櫓から弓を射ているが、減った様子もひるんだ様子もない。もっとも奴らは進んで死ねば極楽、などと言いながら突撃する以外にはほとんど戦法も使えないようだが。一向一揆側には隊としては弓も鉄砲もおらず、ただ中には弓を持ったものもいるようだ。時折矢が飛んでくる」

 姉小路家ならば鉄砲で射掛けるか、それ以前に接近すら許さぬだろうと、ふと石川長高は姉小路家が羨ましくなった。だが今は考えても始まらぬと頭を一振りして言った。

「池田隼人、夜明けとともに打って出る。南山城の雑兵は悉くここに残し、我らが手勢のみで突破、そのまま山城へ引く。大善寺には姉小路家の軍がいるはずだからそこまで落ち、反攻する」

「雑兵を残す、となれば将は」

 池田隼人の疑問に、石川長高は言った。

「誰も残さぬ。全員で引く。正確には南山城の雑兵も後衛にて落とす。ついて来ることが出来るのであれば共に大善寺まで落ちるが良かろう」

 池田隼人にも雑兵たちがついてはこれぬと分かり切っていた。




 填島城への攻撃が開始される半時ほど前、一向宗二万を率いた下間頼廉は宇治にいた。といっても宇治の街を一向宗が占拠していたわけではなく、下間頼廉がその立ち並ぶ家の一つに潜伏していただけであった。多くの門徒は戦であっても胴丸一つつけず錆び槍や古い脇差、こぼれた太刀などを手にするだけで特に兵站とてない一向一揆であり、槍や脇差のない家の方がかなり珍しい戦の多い畿内にあっては集団として一堂に会することすら戦の直前まで必要がなかった。しかも下間頼廉は一つの策を使った。元々填島城を攻める、それは決まっていたため、填島城そのものを集合地と決めた。填島城の周辺に村ごとに集合させ、刻限が来ると同時に突撃させることが策であった。

 実のところ石川長高が填島城に入ったのとほぼ同時刻に、填島城から西に一里半の地に安見宗房が僧兵を中核とした下間頼廉のいない一向宗の精兵と自らの手勢合わせて八千を引き連れて東に進んでいたのであったが、足利将軍家の物見はそれを察知できるほど遠くまで出なかったのは、ある意味では下間頼廉にとって幸いなことであった。


 夜陰に乗じて三々五々填島城の周辺に集まり、百や二百の集団が多数填島城を十重二十重に取り囲んでいた。だが填島城に籠る足利将軍家の兵は気が付かなかった。否、気が付いてももう遅かった。

 丑の刻の鐘の音を合図に、一向一揆の門徒たちは松明に火を灯し、填島城へ向けて突撃を開始した。下間頼廉は自らの僧兵を従え県神社を占拠し陣を張った。下間頼廉も安見宗房も、落城させることについてはそこまで心配はしていなかった。ただ時間を掛けすぎれば後方よりの援軍が来る可能性が高く、そうなった場合には一向一揆は著しく不利であった。なぜなら一向一揆には組織的な戦闘方法は突撃しか存在しなかったためであり、これだけの集団を訓練も無しに組織立って戦闘させるためには、特に攻撃をする場合には単純な突撃以外に方策はないためであった。側面や背面を叩かれればもろくも崩れ去るのが一向一揆であり、その弱さを痛いほど知っていたのは他ならぬ下間頼廉であった。



 城に籠った足利将軍家の兵が如何に奮戦しようとも、二千程の兵しかまともに戦えない、それも南山城の雑兵を気にしながらの戦いであっては、二万の兵力の攻撃には次第に消耗していった。まず崩されたのは東南にあった櫓であり、ここは松明を投げ込まれて焼き落とされた。この一角が崩れたのを機に、石川長高は日の出としていた撤退を早め即時に撤退の支度をさせ、未だ崩れていない大手門前の広間に全軍を集め、石川長高は自ら馬にまたがり先鋒を務めることとした。

 真っ先に逃げるというよりも敵中突破のうち最も危険なその最先鋒を自身が努めようとする辺り石川長高は良将であったのであろう、その周囲には千三百まで数を減らした越前兵、そのうち六百が集結していた。

「我らはこれより敵陣に入り、縦横に戦って突破口を開く。後方の味方の道を作る事が我らの役割だ。首は狙うな。ただ、駆けよ。敵を攪乱し混乱させ、道を作るのだ」

 こういって石川長高は槍を掲げて門を開かせ、突撃を開始させた。六百の兵が悉く出れば次は池田隼人が残りの七百を率いての突撃であり、乱れたとはいえ敵中突破はやはり危険であった。それでも城に残す雑兵たちを気遣う程の余裕はなく、主だった者に城内の兵糧その他を与えるというと喜んで城に残ると言いだした。恐らく足利将軍家の兵が全て城外に出たところで降伏し、兵糧その他を手に帰郷することだろうと池田隼人は思った。この時点では雑兵たちは千七百を超える数が残っており、これが敵に回らないだけでもありがたいことだと池田隼人は考えていた。



 足利将軍家の越前兵は、一鍬衆を参考にした兵たちであった。そのため槍も三間槍を持ち集団戦術による戦闘訓練を積んできた者達であった。投げ槍こそなかったが、まともな防具とてない一向宗相手の接近戦では一向宗には止めるだけの力はなく、文字通り蹴散らかされていった。

「すすめぃ」

 石川長高は順次兵を繰り出し、自らは大手門を出てすぐの辺りで指揮を取りながらも自ら槍をつけ、左右の者に割った一向宗を追撃させさえして池田隼人が隊を率いて出撃する空間を作り、また自らも突撃の列に加わって一向宗の死体の山を築いていった。向かうのは北の方大善寺であったが、まずは南へ八町程にある宇治橋を目指した。宇治橋を使って宇治川を渡り、更に宇治橋付近で防ぎながら池田隼人隊を収容し大善寺を目指す、これが石川長高の目論見であった。

 越前兵は三人一組で一向一揆の兵を確実にさばき瞬く間に数百の一向宗を脱落させたが、それでも周辺の一向宗からすればわずかな数であった。だが越前兵の強いのを見て一向宗が向かってこなくなったのは、石川長高にとって救いであった。だが目の前に屈強な部隊が現れた。下間頼廉率いる僧兵を中核とした一向宗の精兵二千であった。千が橋のたもとに陣を張り、残りの千が西から石川長高隊を横殴りに攻撃を開始した。

「前線は突破せよ。……二百程、我に続け」

 左右の者に前進を指示し、石川長高は越前兵二百を引き連れて西から突撃してきた僧兵団に突撃を開始した。


 下間頼廉率いる僧兵団は石川長高隊の突撃を受けたが、流石に彼らは屈強であった。僧兵団は薙刀をもって戦い、千段巻を踏み折り槍の穂を斬り飛ばし、或いは槍を体に受けてもそのまま槍を掴み、それなりの被害を出しながらも越前兵の槍の集団戦術を次々と無効化し、越前兵に被害を強いていった。それでも石川長高隊におされ、じりじりと僧兵団は中央をへこませていった。

「流石に強いな。……印地打ちだ。石を投げよ」

 下間頼廉は左右の者に命じ、両翼の僧兵が印地を投げ始めた。石といったが、正確にはその辺りに落ちている石ではなく一寸ほどの鉄の固まりであった。鉄砲、弓矢にははるかに及ばないが、当たればかなりの衝撃があり体勢が崩れ、その体勢の崩れにつけ込む形で僧兵は越前兵を次々と討ち取っていった。石川長高はこの時最右翼にいたが、印地にて馬を潰され落馬し、そこから立ち上がる間もなく僧兵に討たれた。

 石川長高隊は下間頼廉率いる僧兵団によって壊滅したが、その下間頼廉隊も少なからぬ被害を受けて追撃を諦めざるを得なかった。休息も必要であり、更に僧兵にこれ以上に多くの被害をだすことが許容できないためであった。



 これに遅れる事四半時、池田隼人隊が距離を詰めてきた。東の空が薄明るくなり、本来であれば出撃するはずの刻限であった。

「石川長高殿、石川殿はいずこ」

 池田隼人が叫んだ。橋のたもとには夥しい数の越前兵、一向宗織り交ぜての死体が転がり、それでもまだ辛うじて隊としての形をとっていた越前兵二百が宇治橋の西端を確保していた。石川長高は二百の兵を率いての突撃の後、行方は知れなかった。だがその方面から攻撃を仕掛けてきた下間頼廉の部隊が接近してこなかったのを見るとそれなりの被害を強いたのは確かであった。もっとも石川長高が突撃したことさえも池田隼人は知らなかった。



 こうして填島城防衛戦は、足利将軍家の越前兵二千のうち千百、南山城勢二千を失い、填島城を攻め落とされ、防衛側の大将であった石川長高が戦死するという形でその第一幕を終えた。


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