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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第五章 混迷と混乱と
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百七十一、続、足利将軍家の上洛

 姉小路家の南近江制圧、そしてそれに伴う足利将軍家の上洛が開始され、姉小路家は足利将軍家の京制圧を支援するため、渡辺前綱と平野右衛門尉を進出させたことについては既に述べた。



 御湯殿上日記天文二十四年文月の項にこうある。

「姉小路家の渡辺前綱様と言いし将、山科より山科川に沿い下り、途中三好の軍勢と合戦するも一戦にてこれを破り、そのまま勝龍寺、山崎城を占拠せしと。京の町衆、狼藉されしものもなく、三好のころと大きな違いあり、また御料が回復されたるや、日々の食にも困らぬようになり、(略)」

 渡辺前綱、平野右衛門尉の山城侵入は、民にとっても公家、果ては朝廷にとっても概ね好評であったようである。当時の公家の日記であっても悪く書いた文は見当たらない。

 もっともこれは驚くにはあたらないかもしれない。というのも三好家の京支配は、朝廷、そして幕府内部での権力抗争に明け暮れ、京という土地を支配している以上のことはほとんど行っていなかったに等しかったとされる。更に三好家と河内畠山氏の確執もあり京にかなりの足軽を駐屯させていたが軍紀は良くなかったため、京の治安は相当に悪かったという事情もあったようである。

 これ以前からの比叡山の僧兵による治安回復もこの時期にはかなりの実を上げていたようではあるが、これらの功はいずれも姉小路家、そして比叡山延暦寺までが行ったこととして認識されており、足利将軍家がこの後京を支配した後には何ら功績がないと陰口をたたかれる原因となったのであるが、実際に功績がないため仕方がない話であろう。姉小路家ではなく足利将軍家が京の治安を回復させるべきであったという論者は多いが、足利将軍家はこの時期にもまだ越前支配を確立したばかりであり京の治安にまで手を出す余裕はなかったためである。




 渡辺前綱と平野右衛門尉が一鍬衆一万三千、中筒隊三千五百を引き連れて出陣したのは文月二日(7月20日)のことであった。当然にして後方からは補給隊、医療隊が付き従うこととなっていたが、急進する関係上、彼らとは切り離して運用することとなっていた。出立して二日目には未だ舟橋であったが瀬田の唐橋を越え逢坂を越えて夜には山科に入った。抜かりなく多数の物見は出しているが、同時に城井弥太郎をはじめとする京の町衆が既に動いていた。町衆の最初の集団と共に来た城井弥太郎に、山科川沿いに南下、宇治川の南が戦場になる予定であり、本隊はそのまま山崎城を攻略することを告げると、安心したように予定とする戦場からの民の移動をさせるように手配に動いた。以前から戦の絶えない地域であり避難にも慣れたものだったようだった。



 山科に入った夜、物見から一報が入った。

「前方一里、伏見桃山に三好家の軍勢あり、その数七千。主将は三好長逸であり大善寺に本陣を構えている模様」

 兵数としては半数以下であり、周辺には大きな兵力の集結は報告されていないため、正面から戦っても問題はないと思われた。むしろ壊滅的な打撃を与え、今後の戦略に影響を及ぼすようにした方が得策であると考えた。

「平野右衛門尉殿、悪いが一鍬衆五千、中筒隊千を引き連れ夜陰に乗じて山際を進み、南山の東側に兵を伏せよ。また市川大三郎、そなたに一鍬衆二千、中筒隊五百を授ける。伏見に入り敵を防げ。南山から敗走する敵を逃がすな。比叡山にも通告しておく故、京へは入れぬだろうが、念のためだ。我らは醍醐へ向かい、払暁より攻撃を開始する。恐らく宇治川沿いに落ち填島城に向かうものと思われる。平野右衛門尉隊はその側面をつき、可能であれば填島城を落とし宇治防衛の足掛かりとせよ。市川大三郎隊は四里近い距離を移動してもらうことになるが、抜かるな」

「姉小路家には一晩位寝ない程度でへこたれる兵はおりませぬ。が、ご忠告有難く。……ときにこの辺りの土地に明るいものを一名、お借りしたい」

 口では言ったが市川大三郎は、疲労が戦闘力に対する悪影響について知っていた。なるべく疲労を残さぬ形で近づき、そして攻撃すべきであると考えていたため、地形を良く知るものの協力は不可欠であった。この願いは快諾された。

「土地の者を数名を既に雇っておる。そのうち一名を引き連れるが良い」

 はは、と市川大三郎は兵を引き連れ出陣していった。しかし平野右衛門尉は動かなかった。どうした、と渡辺前綱が聞くと平野右衛門尉が言った。

「夜陰に乗じて南山に伏せるならば出立は夜半、子の上刻に出発にございます。それまでは兵を休めさせましょう」

「ならば比叡山延暦寺に書状を出す、その手伝いでもしてはもらえぬか。御屋形様は全て直筆でこなしておられる。我らが祐筆に頼りきりというのも問題であろうよ」



 翌寅の上刻、渡辺前綱率いる姉小路軍、一鍬衆六千、中筒隊二千は陣を払い、山科川に沿って南下を開始した。そして青地茂綱隊を上流より一鍬衆千五百を渡らせ稲荷山の麓にある小栗栖に伏せ戦闘が始まり次第突入させる手筈とし、一鍬衆四千五百、中筒隊千五百からなる渡辺前綱隊は山科川の東岸に布陣した。明け方のことであり三好側も警戒をしていたこともあり、渡辺前綱隊は当然のごとく発見され、両軍は山科川を挟んで対峙していた。


「敵兵、六千ほどが東岸に布陣」

 三好長逸に報告がもたらされると傍らにいる板東信秀に不思議そうに尋ねた。

「はて、数が少ないな。別動隊でもおるのか、それともあれは単に抑えか」

「報告によれば逢坂を越えたのは一万五千を越える数であったはずにございます。ならば別動隊がいると考えた方が正しいと思われます。しかしこの一帯を抜かれれば大きく後退せざるを得ないのも確か。また全体を一度に相手取ることは難しかろうと思われます故、分散されたものを各個撃破する以外に手はなかろうかと。どうだな」

 話を振られた竹鼻清範が、そうだな、と言った。

「どうせ全部平らげる以外に手はないなら、目の前の敵から倒せば良いんじゃないかな」

 坂東信秀は、ここまで単純な思考を持つ竹鼻清範をうらやましく思ったが、言っていることには同意せざるを得なかった。

「良い、日の出とともに攻撃だ。どうせ向こうもそのつもりであろう」

 三好長逸がしめくくり、それぞれを持ち場に付かせた。



 醍醐山から日が出、戦の時間が始まった。

 定石通り竹束を立てた陰から弓を射、小筒が中心であったが鉄砲を撃つ西岸の三好家に対し、渡辺前綱は土嚢を積み矢盾を巡らせて矢を耐えていた。鉄砲をまだ撃っていないのは油断を誘い川沿いに充分に引き付けるためであった。竹束が河原まで押し出されてきたとの報告に渡辺前綱が采配を振るった。

「中筒、撃ち方開始。二連」「投げ槍二投、開始。一段後方を狙え」

 渡辺前綱の采配に応じ、一鍬衆が投げ槍を投げ鉄砲隊が土嚢の陰から中筒を撃ち始めた。彼我の距離は半町程度であり、中筒の六匁の弾は容易に竹束を貫きその奥にいる弓兵を、そしてわずかに混じっていた鉄砲兵を打ち倒していった。更に一度に四千五百、二度で九千という数の投げ槍の雨が降った。この攻撃により七千の兵のうち四千を越える兵が失われた。指揮系統は大打撃を受け、兵の掌握もままならなくなった。更にそこに北より青地茂綱隊が殺到し、渡辺前綱隊の一鍬衆も槍を連ねて突入を開始した。


 一鍬衆の三人一組の、正に殺戮でしかない戦いに、指揮系統の乱れに乱れた三好家の足軽雑兵が敵する訳もなく、更に山科川を渡った渡辺前綱隊のみならず北方小栗栖から突入してきた青地茂綱隊に側面を強かに突かれ、三好長逸隊は既に千を割り込んでいた。一言で言えば馬回りとして本陣の周りにいた兵以外は既に掌握していなかったと言ってよい状況であった。他の兵は既に手傷を負って戦闘に耐えなくなっているか、或いは物言わぬ骸となっていたかのいずれかであった。



 驚いたのは三好長逸であった。弓鉄砲で押しており前線を押し上げて山科川に差し掛かったという報告があった直後、兵の大半が失われ姉小路軍の突入により既に隊としてのまとまりもなく、三々五々撤退を開始し各個に討ち取られている状況であるという報告となったためだ。ばさり、と陣幕を開いて竹鼻清範が入ってきた。

「何があった」

 三好長逸が短く聞くと、鉄砲、そして投げ槍による攻撃だと言い、一本の投げ槍を出した。

「これが何千と降ってきた。足軽の陣笠胴丸では全く防げない、矢盾も軽々と貫いた。若槻光保も鎧を貫かれた」

 三好長逸は耳を疑った。若槻光保の鎧はつい先ごろ新調したばかりの大鎧であり、わざわざ鉄砲を使って試させた逸品であったためだ。鉄砲よりも威力があるのかと聞くと竹鼻清範は言った。

「胴なら助かったかもしれないが斜め上から胸板を抜かれた。それよりも戦況の悪化は甚だしく、一旦退くのも止むをえないかと」

 既に本陣まで敵陣が二町を切ったとの報を受け、三好長逸は兵を纏め南東にある填島城を目指して落ちることとした。最初の弓を射た時からまだ半刻も経っていなかった。



「血路を切り開く。者どもついてこい」

 坂東信秀が先頭に立ち、兵三百を引き連れて南へ向け前進を開始した。引き続いて兵六百に守られて三好長逸がその後ろを進んだ。

 本陣には殿として江戸備中守が兵百五十を率いて残り、ただしこの百五十の大部分は弓隊であった。練塀を盾に弓を使って時間を稼ぐのが任務であり、文字通りに捨て石として残されたものであった。その本陣へ先にたどり着いたのは青地茂綱隊であった。弓を五月雨に射ているが数は少ないのを見て、青地茂綱は矢盾を掲げさせ土嚢を用意させ、東側の塀沿いに土嚢を積ませて突入路を作らせ、小太刀を抜かせた一鍬衆を突入させた。数百の一鍬衆に周囲を固めさせていたとはいえ、百五十の三好家の兵に対してこの時本陣に入った一鍬衆は千を超え、しかも三好家の兵の大部分は弓隊であったため有効な反撃も出来ず、一方的な蹂躙と呼ぶのが正しかった。ただ、百五十の兵のうち降伏したものは気絶などで捕虜となった者と合わせても五十に満たなかった。この五十人の中に片腕は失ったが江戸備中守がいたのは、彼の武運が良かったためなのか悪かったためなのか、定かではなかった。


 一方、南に抜けた坂東信秀隊、及びその後方を進む三好長逸隊は宇治川沿いを南に進んでいた。本陣から半里南にある浅瀬を渡り填島城に入れば、三好長慶のいる芥川山城からは僅かに五里、他にも周辺に兵もおり、巨椋池の南岸を急げば急場は凌げると考えていたためであった。填島城の城主は一色輝元であったが、三好家が京を制圧した後に三好家に臣従していたため、入城にも問題は特に無いように思われた。

 しかし三好長逸の思惑は、渡河地点として選んだ向島の渡しでもろくも崩れ去った。渡河を始める前に平野右衛門尉隊が突入してきたためであった。



 平野右衛門尉は敵本陣に渡辺前綱隊が突入したという報告を受け、物見を増派した。言うまでもなく三好家の軍勢を逃さず倒すためであった。果たして三好長逸は填島城を目指して南下しているとの報告であった。平野右衛門尉はその進軍速度から向島の辺りで接敵できるとの見込みを持ち、隊を二つに分けた。平野右衛門尉は一鍬衆二千と中筒隊八百からなる部隊を率いて三好長逸を攻撃する隊とし、残りは木田八郎に命じて填島城を包囲、降伏させる隊とした。

 平野右衛門尉が兵を伏せていた地点から半里、渡河準備をしている三好家の隊を発見した。平野右衛門尉は中筒隊を繰り出した。

「撃て」

 轟音と共に八百の鉛玉が飛び、更に後方の部隊に第二射を撃ったところで一鍬衆のうち千五百を突入させた。残りの五百は、更に後方から三好家の隊が近づいた時に対する予備であった。



 坂東信秀隊は、初撃で既に三百の隊のうち二百が脱落し、坂東信秀自身も銃創を負い、郎党の機転であろう、渡し船に押し込められた。郎党が蹴ると船は岸を離れ川を下っていった。同様に銃撃を受けた三好長逸隊は、六百の兵のうち鉄砲隊により三百の兵が失われ、指揮系統も乱された。だが両隊を統合することに三好長逸は成功し、四百の兵としたところで一鍬衆が突入した。四百の兵は三好長逸の直属の兵であり練度も高く装備も充実していたが、数も数倍する姉小路家の一鍬衆に勝てるわけもなく、一鍬衆の突入から四半刻も経たぬうちに三好長逸隊は壊滅し、三好長逸も討ち死にした。



 戦が終われば姉小路家の恒例となっている医療隊による敵味方ない治療の時間であった。

 渡辺前綱は、敵兵六千のうち千五百が捕虜、或いは投降したが大部分は負傷などによる捕虜であり、三好軍の死者は三千近いという報告に、三好家の戦意の高さを思った。


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