百六十九、南近江の安定化に向けた戦い
姉小路家が南近江を制し、対する六角家が鈎の陣に入り姉小路家への攪乱戦術を強化した次第については既に述べた。石山本願寺もその信徒の活動を活発化させ南近江の動揺を図ったが、姉小路家も沖島牛太郎の協力も仰ぎつつ南近江の安定に向けて力を注ぎ続けたのであった。だが手は打ったもののそれが実を結ぶのは暫くの時間が必要であった。
姉小路家日誌天文二十四年水無月二十五日の項(1555年7月13日)にこうある。
「沖島牛太郎、自警団を組織し候処、民安んじて生業を営み候。藤堂虎高、功あり。(略)蒲生賢秀、多羅尾光俊の勧めにより姉小路家に出仕致し候」
この時期の姉小路家の活動は一にも二にも南近江における六角家と一向一揆に対する治安活動であるが、姉小路軍自身は三雲城より北西に半里、美松山の麓から十二坊とも呼ばれる岩根山の麓まで、更に山を越え水口下山にかけての約一里に空堀を掘り逆茂木を組んでの包囲陣を敷いており、積極攻勢策は採られていなかったようである。この姿勢は一説には姉小路家が大規模な軍事的な行動は月が改まってからの将軍足利義輝の上洛までは控ていたためとされるが、京制圧に向かった兵の数は南近江の兵数の三分の一程度でしかなく、説得力に乏しい。一方で姉小路家日誌にも名がある沖島牛太郎、そして自警団として名を上げた藤堂虎高が活動を本格的に行い、南近江の治安は改善へと向かっていったようである。
滝川一益の監視下にあった金森御坊は一向一揆を起こす拠点としては遂に機能しないまま門前町の一部を除いた周辺の民がこぞって一向宗加賀派、真宗高田派に帰依していき、副住持以下が顕誓の説得により一向宗加賀派への転向をしたことにより石山本願寺の支配下から脱したのもこのころである。犬上川合戦の直後からは一月以上、鈎の陣の開始から考えたとしても半月という時間がかかったのは、いかにその宗教の根が同じであったとしても転向というのは難しいという証拠であろう。ただし一向宗加賀派の支配下に入るのはまだしばらくの時間を要したのは、様々な事情があったのであろう。因みにこの時の住持は金森御坊の住持であるという特権を捨てきれず、結局は追放同然に落ち延びなければならなかったという事実は、名刹の住持であろうとも人間らしい弱さも持ち合わせているという意味で浄土真宗の僧らしい住持であったといえるだろう。
姉小路家の支配するところとなった南近江、その一隅にある犬上郡で一人の地侍が槍を掲げていた。名を藤堂虎高といい、数年前まで甲斐武田家に仕えその主君武田信虎から一字を拝領したほどの剛の者であったが、武田信虎の甲斐追放の際、武田信虎に随身して駿河に赴いていたため共に甲斐より追放となり、その後武田信虎がの出家を期に近江に戻って来ていた。この半年ほどは姉小路家との戦のためとして再三にわたる六角家の呼び出しがあったが、武田信虎という武将を身近に知っていた藤堂虎高にとって六角家は頼りなく見劣りする存在でしかなかった。また六角家の上層部を見ても姉小路家に勝てる戦ができるとは思えず、無駄に戦をするよりはと古くよりの一族の所領で無聊をかこっていた。だが二度と槍働きはないだろう、そう思っていた。それは何より、既に不惑も間近な年齢であり将として手柄を立てたわけでもなく、将としての才覚があるといってもそれを認めた主は甲斐より追放され既に出家し返り咲くつもりはほとんどない以上、将として藤堂虎高を用いるものがいるとは考えにくかったためであった。
それでも毎日の槍の修練は欠かさず、馬を責め、弓を射た。その日も変わらず修練をしていたが、藤堂虎高はその前日の夕方の訪問者に対する返事について考えていた。
旧知の猪飼宣尚が意外な人物が紹介を求めていると言ってきた。近江近在に住んでいる庄屋、地侍以上の者であれば知らぬものもない琵琶湖近辺の水夫人足の元締めである沖島牛太郎であった。沖島牛太郎ほどの人物が名指しで紹介を求めてきたとあれば藤堂虎高も会わないわけにはいかなかったが、それ以上に沖島牛太郎ほどの人物が自分を名指しで呼び出すという意味を考えた。つまらない護衛などであれば藤堂虎高を名指しで指名するようなことはなく、さりとて武勇以外のなにも藤堂虎高は誇るものがなかった。その武勇も若いものを数人雇った方が効率が良いに決まっていた。
そして水無月十二日(6月30日)夕刻、藤堂虎高の屋敷に沖島牛太郎が猪飼宣尚の案内で手下を数名引き連れただけの身軽さで訪ねてきた。猪飼宣尚に紹介された沖島牛太郎に藤堂虎高は尋ねた。
「して、某にいかなる御用でございますな」
これに対して沖島牛太郎は藤堂虎高の経歴を挙げ、こういった。
「なに、難しきことではございませんよ。兵を率いてもらいたい。甲斐で小規模な遭遇戦で無類の強さを誇った武田信虎様、その中でもその名の知れた剛の者である藤堂虎高様であれば問題もなく務まる役でございます」
「相手にもよる。率いる部下にもよる。誰を率い誰と戦おうというのだ」
藤堂虎高は知らぬ顔をしていたが、六角家の小部隊が姉小路家を襲い、更に一向一揆の一党が野盗働きをしたうえで目と鼻の先の鞍掛峠越えの街道を伊勢へ向かって落ちていったことを知っていた。また沖島牛太郎は姉小路家とも繋がっていたが、より深くは六角家と繋がっていると考えていた。先々代以前から二十年以上の繋がりのある六角家との付き合いは精々この一年ほどの付き合いである姉小路家との繋がりよりも浅いとは思えなかった。それでも藤堂虎高は沖島牛太郎の今後の権益を考えると姉小路家に付くであろうことは容易に理解でき、沖島牛太郎の依頼の相手は姉小路家であると予測していた。
「兵は表向き水夫人足から抽出した雑兵、その実は六角家の兵でございます。……なに、金で引き抜きましてございます。狙う相手は六角家の指図により南近江へ入った六角家の小部隊、それに野盗働きを繰り返す一向一揆にございます」
六角家の小部隊はまだ分からないでもなかったが、藤堂虎高は沖島牛太郎が犬上郡を抜けた一向宗の動向を知らぬのかと訝しんだ。そのことを指摘すると沖島牛太郎は言った。
「そうであったとしても、彼らを唆した者が南近江にいると考えるべきでございましょう。ならば同じことがまだ起らぬとも限りません。また六角家の兵はまだ居ります。そのための隊でございますからね。民を守るための挙兵でございます。姉小路房綱公にも許可は頂いておりますよ」
その後も待遇などについての説明の後短い会談は終わり、返答は翌日聞くと言って沖島牛太郎は帰っていった。
民を守るための挙兵か、とその意味を藤堂虎高は考えていた。沖島牛太郎の挙兵に私利私欲が全くないとは思っていなかったが、私利私欲のためだけとも思っていなかった。強いて言えば六角家に対する何らかの私怨か、街道往来の安全を確保するための挙兵とは考えられたが、そのような沖島牛太郎の都合というよりもむしろ本当に民のためと考えているという方が実際に近いような気がしていた。であるならば沖島牛太郎という一介の元締めが行うというよりもむしろその後方にいる姉小路家の代理で行うと考える方が実際に近いように思われた。
ここまで考えて藤堂虎高は、民を守るためという姉小路家の姿勢を思い出した。単なる民衆向けの宣伝であろうと考えていたが、仏の姉小路と呼ばれるほどにはその姿勢は実態を伴っていた。その文脈で考えるならば沖島牛太郎には裏がないようであった。その上で姉小路家で将としての働きができる、その端緒となりうるとあれば、返答は決まったようなものであった。
午下がりに返事を聞きに来た諾と返答した藤堂虎高は一つの策を提示した。
「策といってもさして難しきことではない。が、姉小路家には実行できぬだろう。出来るのは我らのみだ。策というのはな」
藤堂虎高が提示した策は、簡単に言えば東から藤堂虎高が、西からは猪飼宣尚がそれぞれ兵を率い、六角家の兵を狩り出し更に通さぬようにすることにより安全を確保した地を広げることにあった。
「言うのは簡単だ。おそらく姉小路家も似たようなことはしようとしただろう。だがあまり効果は無かった。当然だ、その地に以前からいる猟師と六角家の兵をどうやって見分ければいいのだ。我らならば、土地の人間を知っているから見分けられるからこそ実行できるのだ」
水無月十五日(7月3日)、藤堂高虎は佐和山城に集められた兵に矢盾を持たせ、前進を開始させた。きちんとした武装しているのは藤堂虎高とその郎党を中心とした二百名だけであり、残りの二千三百名は矢盾と脇差程度の他は食料などを持っているだけであった。武装している兵以外は五十名の集団を一単位として四十六の隊が組織され、それぞれが一つの村の安全の確保のために活動することとなっていた。一つの村の安全を確保した後、その村の周辺にある全ての村の安全が確保されるまでは兵を前進させず、安全となった村に六角の兵を入れぬようにするのが、この策の根幹であった。
安全が確保された村には姉小路家の兵を入れて防壁とすることとされ、東西より約五千の兵がこの策に沿って村を回ることとなった。
「六角家の兵三を林で発見、捕縛して連行中」
使い番が藤堂虎高の元に報告を持ってきた。作戦が開始されて半日、既に東側の藤堂虎高だけで二十名に近い六角家の弓隊を捕縛していた。ほとんどは点在する林の中に隠れており矢を射かけては逃げるために荷は少なかった。その夜、捕虜を尋問した報告が藤堂虎高に上げられた。尋問の結果大規模な攻勢をかけるために数日前から潜んでおり、合図を待っている状況であるとの報告であった。
「作戦の進展を急がせますか」
こう言ったのは堅田衆を指揮するために藤堂虎高の隊に加わった猪飼昇貞であった。だが藤堂虎高は言った。
「大攻勢を目論んでいる、と猪飼宣尚に知らせよ。それだけで良い。急いで見落としが出、後方が脅かされればやり直しだ。その方が厄介だ」
かしこまりました、と猪飼昇貞は出ていった。湖岸から船で西からの隊を率いる猪飼宣尚に連絡を付けるためであった。
だがこの六角家の大攻勢は、起らなかった。いや、正確に言えば六角家には起こせなかったというのが正確なところであった。その理由は大きく二つあった。
一つは藤堂虎高の策により開始予定の水無月十八日までに九十人近くの弓隊が捕縛、乃至は消息を絶ったことがあった。これほど準備に時間がかかったのは姉小路家による封鎖の目をかいくぐって兵を送り込むためには非常に手間がかかったためであった。既に姉小路家の空堀、逆茂木を駆使した封鎖、特に弓矢をもっての近江への入境は山の中の道なき道を越える以外に手はなく、数名ずつがわずかな物資を持って入らざるを得ない状況であった。また入境後は一向宗による補給が行われることを見込んでいたが、そのようなことはなかった。金森御坊以下、近江の一向宗はこぞって石山本願寺の支配を脱し一向宗加賀派の支配下となっていたためであった。
もう一つの理由は三雲城から兵の逃亡が相次ぎ、三雲城の防衛にすら支障をきたしかねない状況になりつつあることであった。逃亡したのは主に近江で雇った流れ者の兵であり、三雲成持はその補充として甲賀一円、そして伊賀からの徴兵を急がせていた。だが人数は集まっても訓練は必要であった。このため後方攪乱と呼応しての三雲城からの攻撃により姉小路家の封鎖を解くことを目的とした大規模攻勢は、後方攪乱の成功も覚束ない上に姉小路家の封鎖に対する攻勢の見込みもなくなったため、三雲成持が六角義賢を懸命に説得し中止となった。
「蒲生賢秀さえ味方にあればまだ違ったのだがな」
と六角義賢の説得を終えた三雲成持が呟いた。六角家、その上層部と蒲生賢秀の間の溝は、徐々に深く、だがこの時期には既に取り返しのつかない程度にまで広がっていた。
蒲生賢秀は流石に風を読むことに敏感であった。
「大殿の機嫌は大攻勢を中止した一件以後悪く、その矛先は当家に向かっているものと思われます」
六角義賢の近くに潜ませた内通者の報告を、蒲生賢秀は中野城で聞いていた。城から二里のところには姉小路家の軍が展開しており、蒲生賢秀が不在となり姉小路家の攻略隊が中野城を襲えば、どう考えても城はもたなかった。やはり出仕は難しかった。
「で、どうするよ」
こう聞いてきたのは雑賀孫一であった。犬上川合戦以後、雑賀党の一部は雑賀に帰ったが雑賀孫一と鉄砲隊二百はこの地に残っていた。無論、蒲生賢秀が雇っていたためであった。
「三月の約束だからまだしばらくは蒲生殿に雇われたままだがな、今六角義賢のもとに行くなら死ぬぞ」
蒲生賢秀もそのことは痛いほど分かっていた。蒲生賢秀の支配する蒲生郡は六角家の直轄地ではなく、また蒲生家も正確に言えば六角家の配下というよりも六角家の同盟相手という方が近いため、蒲生家を取り潰してその領土を六角家に組み込んで力を蓄えることは充分に考えうることであった。
どうしたものか、と考えていると、ふと宿直の侍が入ってきた。
「人払いをしていたはずだが入ってくるとは何事だ」
蒲生賢秀は咎めるように言ったが、宿直の侍は気にせず蒲生賢秀の前に座った。
「蒲生賢秀殿、久しいの」
その顔は普段見慣れた宿直ではなく多羅尾光俊のそれであった。
数日の後、蒲生賢秀は多羅尾光俊を通じて姉小路家への随身を願い出た。その間に何があったか、三人の他は知らない。
藤堂虎高の策は元より観音寺城付近は安全が確保されていたこともあって成功裏に終わった。蒲生郡、甲賀郡を除くすべての南近江から六角家の兵と一向一揆を駆逐するまでには十日ほどであり、一向一揆については予断を許さないものの既に相当程度の成果を上げていた。
この功績と沖島牛太郎の推挙により、藤堂虎高は姉小路家の武将衆、その末席を占めることとなった。
藤堂虎高の初登城と草太との謁見と同じ日、蒲生賢秀も草太に降伏するために観音寺城に入り謁見を行った。時に水無月二十五日のことであった。




