百六十八、続、鈎の陣
六角家の鈎の陣という攪乱戦術による攻撃が遂に始まり、草太たちは観音寺城においてその対応のための軍議を行った次第については既に述べた。その際に補給を断つという方針により活動が決められ、関を設けるなど物理的な遮断と共に生産面でも補給を断つべく蒲生郡から鍛冶を多数引き抜き岩倉城下に鍛冶師が軒を連ねた街が作られたのであるが、これが功を奏するのはしばらく時間がかかるものと見られた。
近江風土記にこうある。
「沖島牛太郎、人足を組織し村々を連携して守備させ、また街道を通りし行商人を纏め護衛をつけ隊商とし、もって被害を抑えたり。月余あり、漸くにして野盗働き止みき」
この時期、南近江を支配したばかりの姉小路家にとって一向一揆は厄介な相手であったとされる。住民の多くは姉小路家を支持したが、その民に隠れるように、そして民を攻撃対象として一向一揆が立ちまわっていたためである。一向宗加賀派の僧も多数南近江に入り、また真宗高田派も活動しており、更に天台宗などがこの地で布教を強めたという形跡はあるものの、そう簡単に一向一揆を完全に鎮火させることは出来なかったようである。興味深いのはこの時期に金森御坊が石山本願寺の支配から離れたという事実はなく、金森御坊が一向宗加賀派の支配下にはいったのは一向宗の石山退去後、内紛を経てのことという点である。
軍議の後、草太は沖島牛太郎を呼び出した。これまでであれば草太の方から出向いており、今回も草太自ら出向こうとしたのであるが、流石に平助が止めた。平助が草太に意見してその行動を止めるという事は滅多にないが、その滅多にない平助の意見であれば大抵は草太は従った。
「我らが至らぬとて手足として働きます故、何事も無理をなさいますな。沖島牛太郎も登城を嫌とは言いますまい。……先日のことがあり、暫くはご自重下され」
平助にこう言われては、草太とて従わざるを得なかった。平助の意見では弓隊の危険があるからという以上にむしろ、襲撃を受けた場合に草太の精神状態が悪化することを怖れたものであった。
翌日、午前の政務の時間に沖島牛太郎が登城してきたのは、ある程度は事前に話が通っていたためであろう。こういう機微は弥次郎兵衛の得意とするところであったようだ。
「沖島牛太郎、お召しとあり参上いたしました」
沖島牛太郎が形式ばった挨拶を済ませた後、草太は早速本題を切り出した。
「沖島牛太郎、今の南近江の事、知っておろう。野盗働きが多く、姉小路家も兵は出したが六角家、それから一向一揆に対する対策としては充分とは言えぬ。策があれば聞きたい」
草太のこの言に、沖島牛太郎は思案顔になった。これまでの草太との交渉の多くは、ある程度の腹案が姉小路家側にあり沖島牛太郎側はそれに対する譲歩を求める側にあった。しかしその腹案の開示もなく沖島牛太郎に策を求めているということが果たして策がないためか、或いは沖島牛太郎の策を聞いたうえで行動を考えるつもりでいるのかは分からなかった。
「恐れながら。姉小路家の策、それを先に伺いたい」
「今やっているのは、浮気城を中心として兵を展開させ岩倉城を落とし、また石塔寺を中心として兵を展開させ、この二隊をもって甲賀地方との物資の交流を特に矢を中心として阻害すること、更に鍛冶師たちを甲賀から抜いて南近江へ連れてくることだ。無論、治安維持のための部隊展開や街道整備などは引き続き行う。六角軍についてはある程度時間はかかるが徐々に絞るつもりであるが一向一揆については未だ有効な手があまりない。そこで沖島牛太郎の策を、そなたたちの力を借りたいと考えておるのだ」
横目で見た弥次郎兵衛が頷き、姉小路家の策は確かに開示されたと沖島牛太郎は考えた。ならば、といくつか考えていることを述べた。
「野盗働きをした者たちは我らが身内に被害を与えました。それ故、我らの手で落とし前をつけようと考えておりますが、少し気になることがございます。一つは襲撃を受けた村の内かなり大きい村三つ、山瀬村、西河村、弓削村は一向宗の信仰厚き村であったはず。それぞれ百を超える家があり人口も他の襲撃を受けた村が二十から三十ほどしかいなかったのに対しこの三つの村は、街道整備で雇われるために人が抜け戦で人手が取られていたとはいえ合わせれば千を超える者がいたはずでございます。それだけの数が居なくなったのに遺体は精々二十程度。数が全く合いません。近在の村に逃げたかと思いましたがそれもなく、文字通り消えたとしか思えません」
「どこへ行ったのだ。見当はついているのだろう」
草太が促すと、沖島牛太郎が言った。
「彼らは一向一揆となり逃散した、と見るのが自然かと」
弥次郎兵衛が言った。
「逃散したというのであれば、逃げ落ちるものを見たものが出るはずだが」
「おそらくは街道を通る者たちに紛れたかと。戦により避難していたものが通って戻っております故、さして見咎められずに通ることは出来たでしょう。行き先は」
ここで少し沖島牛太郎はためらった。かなり推論になりますが、と前置きをして続けた。
「鞍掛峠を越えて伊勢へ入ったかと。伊勢長島にある願証寺が一向宗の寺としてかなりの力のある寺でございます。その行き掛けの駄賃として野盗働きをした、というのが我らの見方に存じます」
確かに一向一揆がどこから出てどこに行ったのか、草太をはじめ姉小路家はつかめないでいた。だが焼き討ちされたとみられていた村がそのまま一向一揆に参加していたとすれば、そして野盗働きをした直後に伊勢に逃げたとあればその動向を捕まえることが出来ないのは道理であった。何しろ最初から南近江のどこかに集結したわけでも、野盗働きをした後に南近江に留まっていたわけでもなかったのだ。席に連なっていた服部保長は、奇術の種を見せられたような顔になっていた。
これを聞き草太は至急荒川市介に一鍬衆千、中筒隊二百を与え犬上郡にある鞍掛峠越えの街道に守備隊を置き、また松永丹波守に八風街道の近江の出口である愛知川上流の永源寺跡に同数を置いた。伊勢へ逃れたということは伊勢から入ってくる可能性がある、という事でもあったためだ。
これと同時に、推論が外れていたときのために沖島牛太郎は策を提示した。
「人足達、それに地侍崩れ、足軽崩れでこの地の出身の者を中心に自警団を村々に置かせていただきたい。また街道を通る商人、これもある程度の規模をひとまとめとして護衛をつけたい、こう考えております。そのためには武装もやむなく、また商人たちをひとまとめにするためにはある程度彼らの自由を束縛する必要があります。その権限を頂きたい。……武装などの費用は手前が持ち、護衛などは商人たちに出させましょう」
これに対して草太は言った。
「武装については手に合うものもあるだろうから任せる。だが商人たちの護衛は当家が費用を出そう。その代わりに自由を束縛するのだから。それが嫌なら北へ回り、高島から長浜まで船に乗ればよい。区間は、瀬田から佐和山までで良かろう。途中二泊はすることとなる。宿場も任せる故、精々回収せよ」
同じころ、一方の六角義賢は三雲城にいた。吉田重政が育てた弓隊を繰り出し数百の敵兵を倒した、という報は確かに喜ぶべきものであったが、万余の兵力のある姉小路家に対して千に届かない被害は正に焼け石に水としか言いようがなかった。杯を煽りながら六角義賢は次の手を考えていたが、考えるのは観音寺城が陥落し六角義治が足利将軍家に連れられて行ったという点であった。首を晒されたか無事でいるかも定かではないが、無事でいるとはあまり信じられなかった。降伏した武将が厚遇されるという例はない訳ではないが、厚遇されるだけの実績もなければ実力もなく、わずかに元服しているために大人として、一人の武士として扱われるであろうと考えるのが救いであった。自分であれば首にするか精々寺に押し込めるところである、と思えば、無事であるとは思えなかった。
そこへ後藤高治が、蒲生賢秀からの書状を持って現れた。
「殿、蒲生定秀からの書状にございます。……は、今の状況で中野城を離れるわけにはいかぬためとして出仕を断ってまいりました」
蒲生定秀からの出仕を断る書状は何度目か分からないが、犬上川合戦の直後に六角義賢の雇った雑賀党を率いて中野城に入り、その後は中野城の守備を固めたまま動きを見せなかった。寝返るつもりか、と思わないではなかったが、それをされると六角家の力は著しく衰えることは分かっていた。何としてでも協調して姉小路家と対峙しなければならない、六角義賢はそう考えていた。
杯を干すと六角義賢は他家の情勢について、相伴をしていた三雲成持に尋ねた。三雲成持は流石に六宿老の最後の一人である、情勢については抜かりなく調べていた。
「まずは当家を支援してくれることになっていた大和筒井家、伊勢北畠家でございますが、伊勢北畠家は鈴鹿越えにて物資の輸送を既に開始しております。一旦上野主膳正の籠る上野城に入れ、期を見て三雲城に運び入れる手はずになっております。ただ大和筒井家は未だ物資の輸送を渋っております。元より伊賀を経由しての物資輸送について難色を示していたためでございましょう。外に目を向ければ、東より駿河今川家、甲斐武田家には情報を流しております。甲斐武田家は既に兵を集めているとのことでございますが駿河今川は動きがありません。甲斐武田家も美濃への攻撃を目しているか越後長尾家への対策なのか、これも判然とは致しません。西では三好家が口丹波で姉小路家の準一門衆、内ケ島家と対峙しております。既に丹波の豪族の大部分は姉小路家を支持しているとのことでございます。ただ、未だ大規模な衝突はお互いに避けていると見えます。三好家も京を抑えてはいるものの、その支配は既に陰っており京へ姉小路家が進出した場合にはそれを凌ぐほどの力はないかと」
六角義賢は一つ鼻を鳴らした。
「それならば当面姉小路家をつく勢力はない、そういう事ではないか」
「それに近いかと。ただし内側からという勢力はございますな。……石山本願寺でございます。北陸では力を失っておりますが南近江、そして伊勢では力を保っております」
六角義賢が一向一揆に期待するのは単に後方での攪乱程度でしかなかったが、それでも正面からの戦いをしない現在のような情勢であれば見込みはある様に思われた。
ふと六角義賢は息子六角義治の消息を尋ねた。足利将軍家に仕えているのであれば、この状況を打破するために足利将軍家を使う事も視野に入っていたためであった。
「若、義治様は今のところ武将等として登用されたとも或いは処罰されたとも明らかではなく、足利将軍家に降伏したとだけしか分かっておりませぬ。ただ足利将軍家は現在姉小路家に保護されているも同然、となればあまり仲介の労をとってもらうなどという望みは持たぬ方が宜しいかと」
そうか、と六角義賢は言い、この戦の終わりをどこにするか、それを考えていた。




