百六十六、六角家の策動
姉小路家が南近江を制圧し内政に精を出していた次第については既に述べた。草太も徐々にではあるが一時の状態から回復していたがまだまだ本調子からは遠く、観音寺城からほとんど出ない日々を過ごしていた。
一方の六角家はこの間、黙って過ごしていたわけではなかった。六角家の策は、着実に姉小路家へ向けられていた。
近江風土記にこうある。
「六角義賢、一向宗を頼みとし金森御坊と呼応して挙兵するも、声は聴けども姿はなし。ただ野伏り増え、民の生活に不安あり。姉小路房綱公、怒りて兵を出さんとするも的なく、(略)」
近江風土記にはこの時期から草太の名が見えるが、この時期以降の六角義賢の名は敬称がないのに草太には公という敬称が付いているのは、やはり民の心が離れたためであろうか。事実として言えば、甲賀以外の地を六角家が支配したことはこの後ほとんどなく、また南近江のいくつかの村に侵入するも村人が反抗している事例も見受けられる。南近江に対する姉小路家の支配が揺らぐことはなかったが、それでも姉小路家が甲賀を支配するまで相当の時間がかかったというのは、一つには姉小路家が積極的に侵攻しなかったためもあるが、後世の視点からは姉小路家に甲賀への出兵を許す状況におかなかったという六角家の策動が巧みであったという側面もある。
鈎の陣を敷いた六角家は厄介極まりない存在であり、姉小路家をして武力による攻略を忌避させるものであったという意味で、姉小路家にとって最も相性の悪い相手であったのかもしれない。
犬上川合戦のために出陣させた後六角義賢は三雲賢持、後藤高治らを供回りにひそかに観音寺城を脱出し、三雲城に入っていた。言うまでもなく鈎の陣のためであった。供回りの一人後藤高治は、出陣前の父との会話とその際に渡された書状について考えを巡らせていた。
観音寺城で天文二十四年皐月十三日(1555年6月3日)に行われた六角家の軍議の後、後藤高治は後藤賢豊に一室に呼び出された。
「父上、お呼びとあり参上いたしました」
入ってきた後藤高治の声に、後藤賢豊は座る様に促し、時間もないのでと本題に入った。
「こたびの戦の話は聞いておろう。我らは犬上川付近に出陣し野戦で迎撃を行う。……だがな。勝てぬだろうよ」
戦の前から勝てぬ、という後藤賢豊に向かって後藤高治はどういう意味かを尋ねたが、後藤賢豊は何事もないように言った。
「勝てぬよ。姉小路家と直接対峙した儂、それから蒲生定秀殿は肌で分かっておるだろうが、勝ち目はないな。おそらくは民も分かっているのだろう。証拠に、渡り者を集めて兵を増やそうとしているが全く集まらぬ。相手が鬼の姉小路と知って集まらぬし、銭を弾んで無理に集めても逃亡するものが多い。農村からの徴兵も似たようなものだ。集めようとしても思ったようには集まらぬ。三月近くも余計に時間をかけて目標の半分強しか集められなんだ。もう一度言うが民もこちらの負けと分かっているよ」
後藤高治は何かを言いかけたが、それを制するように後藤賢豊は続けた。
「とはいえ、犬上川付近で迎撃する、というのは変えられぬ。既に軍議で決まった事だ。進藤賢盛殿と目賀田綱清殿が強硬に推している以上、ここで出陣をとりやめてもあの二人だけが突出するだけだろう。六宿老の筆頭として、儂も出陣せねばなるまいよ。どうにもならぬ。壱岐守も出陣だが、恐らくは我らは帰れまい。出陣する他の宿老も同じことだ。逆に六宿老などといってふんぞり返っている我らが居なくなるだけ、後が楽かもしれぬな」
な、と後藤高治は言った。
「出陣前になんと不吉なことを申されます。どうかご自愛くださいませ。危険にさらすならば父上も兄者も出さず、私を名代に……」
「ならぬ」
強い言葉で後藤賢豊は遮った。
「我らは、宿老と呼ばれる我らは戦に出ねばならぬ。その筆頭である儂は、どうあってもな。……そなたにはやるべきことがある。ここに儂の打ってきた策を記した書状を用意した。御屋形様に従い鈎の陣に入り策を完成させるのがそなたの役割だ。良いな」
なりませぬ、と言いかけたが後藤高治は父の決意が固いことを知り、それ以上いう言葉を失っていた。
「……姉小路家を駆逐して南近江を再び六角家の旗の下に集めることは、六角家独力では難しかろう。他家の力を借り、しばらくは耐えよ。良いな」
はは、と頭を下げた後藤高治を残し、後藤賢豊は部屋を出た。
こうして与えられた書状であったが、鈎の陣の準備のための金穀の輸送の問題もあり三雲城に入った後も後藤高治は読む暇がなかった。その暇が出来たのは、犬上川合戦の敗報が届いた日の夜であった。流石に犬上川合戦の後では輸送する物資が姉小路家の手に落ちる危険が大きく、また三雲城へ輸送部隊が入る時には門を開ける必要があるため三雲城の防衛という意味でも危険があるためであった。書状にはこう書かれていた。
一、鈎の陣の本質は虚にして実の陣也。弓隊による農村へ、或いは街道を通りし商人人足、姉小路家荷駄隊、守り薄きところを狙い一撃を加え逃げるべし。本隊と陣を連ねて戦うべからず。本隊来たらば逃げるべし。民草に紛れるべし。一向宗にさえ根切りせぬ姉小路家ならば紛れるも容易なり。
一、姉小路家の強さはその兵站にあり。その強さは後方の領国を守ればなり。さりとて鈎の陣、近江より出る能わず。ならば他家を動かすべし。甲斐武田家、駿府今川家に既に話を流したるも、両国はそれぞれの都合で動くと知るべし。三好家、石山本願寺も同然なり。好きに戦わせるべし。甲賀から目を逸らす役に立つべし。
一、三雲城は良き城なれどもこだわるべからず。金穀などは伊勢北畠家、大和筒井家に既に約定を取り付けたり。ただ御屋形様の無事と長く戦うことを念頭にすべし。
一、期を見て講和し、甲賀支配を認めさせるべし。治罰綸旨ありとて足利将軍家にすがるべし。欲張るべからず。
書状を前に後藤高治は頭を抱えた。簡単に言えば、状況を引っ掻き回し、ごねて南近江を犠牲にして六角家の甲賀支配を勝ち取れ、と書いてあるに等しいためであった。民に犠牲を強いるのは、分からないではなかった。それが自領の民でなければ。南近江の民に犠牲を強い、さらに南近江の最大の利点の一つである街道を通る商人達を攻撃する、というのは、その後に南近江を支配することを考えるのであれば自殺行為でしかなかった。いかに父の策であったとしても、実行をすることは六角家が今後数十年は甲賀から出ることが出来ぬ状況に追いやることであった。
そこまでしなければ六角家は生き残ることが出来ぬのか……。
後藤高治は、こうなれば姉小路家に全面的に降伏し、主君六角義賢を含めてその幕下に入るべきかと考えていた。或いは他家への亡命、例えば石山本願寺であれば対姉小路家の武将を集めている関係上、亡命は可能であろうと考えていた。その思考を、三雲賢持が止めた。
「悩んでいるようだな。……と、その書状は父親の、後藤賢豊殿の策か。策は知っているが、あれは良くない、悩むのは無理もないな。我らは武士、敵はあくまで武士、精々雑兵の類までだ。民まで狙ってはならぬだろうさ。だがな、孫子に曰く城を攻めるは下策、心を攻めるのが上策だ。命を奪わずとも民の安寧を奪うのはさして難しくもなかろうさ」
後藤高治は三雲賢持が何を言っているのか俄かには分からなかった。
「ま、細工は既にしてあるからな。なにより甲賀は食い詰め者の吹き溜まり、野盗の類も多いからな。南近江の治安を保つのはさぞかし骨が折れるだろうさ」
笑っている三雲賢持を尻目に、後藤高治は甲賀が野盗が多いなど聞いたこともないと考えていた。即ちその野盗は六角家の兵そのものである、と気が付いた時には既に三雲賢持はその場を立ち去っていた。父と同じ部類か、と後藤高治は嫌な気持ちになった。
その日から徐々に日をかけて、六角家の兵は三雲城守備のための兵三千を残し三十人ほどの部隊ごとに南近江全体へ散っていった。彼らが活動を開始したのは、奇しくも草太が吉田重政を登用した水無月六日(6月24日)であった。
十数人程度の隊を組み南近江の治安維持のため一鍬衆が巡回し、また医療隊が慰撫のために村々を回っていた。また戦のために貯えを失い食料が不足している村に食料を届けるため、姉小路軍の兵站を維持するために輸送隊が縦横に走り回っていた。無論、輸送隊にも医療隊にも護衛のための部隊が付き従っていた。姉小路家に油断があった、とするのはいささか酷であろうが、それでも奇襲を受け多大な被害を出したのは確かであった。
これと前後して近江金森御坊を中心とした一向一揆が立ち上がった。通常であれば姉小路家の軍の一隊、数千も向かえば容易に鎮圧されるはずであったが、その始末は長引いた。それは下間頼照の巧妙な策のためであった。
草太が観音寺城に入ったころ、金森御坊に一人の僧が入った。名を下間頼照といい、近江に入った姉小路家と対峙すべく一向一揆を起こし六角家を支援すること、これが命じられた全てであった。下間頼照自身、さして戦の上手い僧ではなく、僧兵でもある下間頼廉の方が一枚も二枚も上であった。だが下間頼照は下間頼廉にない特徴があった。それは金森御坊にかつて修業した経験から近江の名もなき地侍に顔が売れており、更に甲賀地方、そして伊賀への地理に明るいことであった。そしてもう一つ下間頼廉に勝っているのは、正面からの戦いが苦手であると自覚しているという点であった。姉小路家の部隊と正面から戦ってにわか仕込みの一向一揆に勝ち目のあるわけもない、とは下間頼廉も認めるところであり、それならば正面から戦うのを諦める、という方策を立てたのが下間頼照派遣の理由であった。ついて早々、近在の村々の土豪とも庄屋とも地侍ともつかない屋敷を回り、下間頼照はこう伝えた。
「面従腹背じゃ。表立っては姉小路家にしたがっているように見せるのじゃ。そなたらが表立っては姉小路家と事を構えねば、姉小路家とてそなたらを酷くは出来まい。そうして年貢を納めず賦役もせず、念仏の声も高らかに一揆の声だけは高く上げよ。また村に来た見回りの小部隊は、逃さぬ算段をして倒せ。頼むぞよ」




