百六十、続、犬上川合戦
姉小路家が南近江へ侵攻し犬上川西部で六角家と激突した。姉小路家の先陣である滝川一益隊、平野右衛門尉隊は六角軍を撃退しながらも、滝川一益隊は六角軍の新たな集団戦術に大きな被害を受けた。この次第については既に述べた。
一方の六角軍も戦闘により陣を乱され軍を下げ、荒神山の北東、宇曽川の東岸部で再編成を行っていた。図らずも六角軍は全軍がこの地域に集い、再編成を行った。本来であれば姉小路軍が追撃を行うため再編成など行うのは容易ではないが、姉小路軍の先陣は追撃を行わず、六角軍の後退を見て即座に肥田城、高野瀬城の攻略へ向かったため、この再編成が行われることとなった。
進藤賢盛隊、目賀田綱清隊の両翼だけではなく中央部の平井定武隊、後藤賢豊隊をも危なげなく退けられた六角軍は、再編成により各隊が一隊となり総兵力が七千五百近くまで回復したとはいえ、その士気はさして高いとは言えなかった。敗戦そのものだけではなく、敗戦により四割近い兵が失われた上、姉小路軍は新手と交代したことも手伝っていた。軍の再編成を行わせつつ宿老である進藤賢盛、目賀田綱清、平井定武、後藤賢豊の四人は軽い打ち合わせ程度ではあったが軍議を行っていた。
「して、敵はどうだ。姉小路軍は野戦でも落とせる、そう主張してやまなかったはずだが」
後藤賢豊が野戦派の二人に向けていうと、進藤賢盛が答えて言った。
「強いな。ああ、認めようよ。野戦で落とせると考えていたがそれは間違いだった。それは認めよう。それはそれとして取り急ぎ必要なのはこれからのことだ。当初の予定通り観音寺城へ引くか」
それは待て、と後藤賢豊が制した。
「ここにいない蒲生定秀殿と先頃雇われた雑賀党の働きを見てからでも遅くはあるまい」
この二隊が参陣することは予め知らされていたが、その詳細な場所は教えられていなかった。後藤賢豊のみが知る秘密、とされていたが、目賀田綱清はそもそも参陣しないのではないかと怪しんでいた。
「事ここに至っても参陣しない、というのはどういうわけだ。後藤賢豊殿、策を教えられたい。さもなければあ奴らは怯懦にも参陣しなかった、逃げたとして取り扱おう」
おうよ、と進藤賢盛、平井定武も賛意を示した。後藤賢豊は答えて言った。
「南へ回っている、とだけは言おうか。細かいところは省くが、犬上川を上流で渡り多賀大社の辺りから山沿いに南下してくることになっている。我らと戦うとなれば、後方からの攻撃ができる位置だ。……姉小路家の強みはいくつかあるが、兵が多く銃や投げ槍といった装備が充実していることだ。当然補給が命綱になり、逆に言えば後方に配される輜重隊を叩くことができればその出足は相当に鈍る。そのための策だ」
南方よりか、と平井定武は感心したが、目賀田綱清はあまり感心した様子もなかった。
「確かに悪い策ではない。悪い策ではないが発見されていれば危険すぎる策だな。蒲生定秀殿の手勢はどの程度だ」
後藤賢豊は、一言判らぬ、といった後、こう続けた。
「全てを一任してある故、分からぬよ。ただ雑賀党は千五百であった。ならば五百や千ということはあるまいよ。二千かその位だろう。合わせて三千か三千五百程度か。悪くはあるまい」
安心させるため、そして今後も姉小路家の正面を北西に向けさせ南東を後方とするために六角軍をしばらくは維持するため、後藤賢豊は言った。
犬上川合戦、その序章である姉小路家先陣と六角家の戦いが終わったころ、田中弥左衛門率いる一鍬衆千五百、中筒隊五百からなる別動隊二千は、犬上川の東にある芹川沿いに一里近く南下していた。多賀神社までの道のりは一里半とされていたため、何かがいるのであればそろそろ何かが見えなければおかしかった。
と、物見が奇妙な報告を上げてきた。
「報告します、多賀神社付近に人が集まっております。その数八百、まだ集結中と見え増えています。胴丸などはないと見えますが付近の農民にしては壮年の男性ばかり、それもほとんど家財らしいものもなく奇妙な点が目立ちます」
ご苦労、と田中弥左衛門が言い、左右の者に命じて言った。
「全部隊駆け足、半里を詰め多賀神社へ向かう。周囲への物見は厳にせよ。他に居ないと思うな」
田中弥左衛門隊は俄かにその速度を上げ、河川敷を多賀神社へ向け急伸した。
多賀大社まで距離が三町を切ったところで並み足に戻したが、田中弥左衛門は境内前の広場に千に満たない群衆が集結集であるのを見た。何者かを確かめることは、田中弥左衛門はしなかった。持っているのがまぎれもなく火縄銃であることが見て取れたためであった。一旦停止し中筒隊に銃撃を準備させ、準備が整ったところで再び前進を開始させた。
田中弥左衛門は距離二町まで距離を詰め、中筒隊に射撃を命じた。とはいえ中筒隊五百が一列に並ぶことのできるほどの広さはなく、百名ずつ五段に分かれて射撃が行われた。一隊が撃った後には次の隊が前進して射撃、全体で二発ずつ合計千を撃った後、一鍬衆を突入させた。
田中弥左衛門は知らないことであるが、この時多賀大社前にいたのは雑賀党であった。とはいえ雑賀孫一は未だ合流しておらず、蒲生定秀隊と共に青龍山を南に回って合流しようとしていたが、未だ半里程の距離があった。集結次第南方へ奇襲をかけるべき部隊が南より逆に急襲を受ける、ということは予想されていなかったわけではないが、それでも迎撃態勢は整っていなかった。もう四半時もしないうちに合流する、という油断がなかったと言えばうそになるだろう。撃たれた直後、反射的に火縄銃を手に取ったまでは流石であったが、火縄銃は撃つまでに時間がかかるものであった。しかも火縄に火もつけていない、弾込めどころか火薬さえしまい込んでいるような状況であったため、撃たれたからといって反撃できるような態勢には雑賀党はなかった。
雑賀党の指揮を執っていたのは副首領の土橋重隆であったが、武運がなく初弾で左腕を打ち抜かれていた。こうなっては仕方がなく雑木林に逃げ込むように命じ自身も落ち延びて行ったが、退却命令は遅きに失した。そのため雑賀党はなす術もなく撃たれ、一鍬衆の突入により集結していた雑賀党の大部分が失われた。
軍学校を卒業したわけではなかったが士官候補生として一鍬衆の前衛を任されていた後藤帯刀の次男後藤泰治は、土橋重隆が落ち延びて行くのを見て手勢を率いて前進した。一鍬衆八百が前進を開始し、前方に蒲生定秀隊を発見、即座に使い番を発すると共に後藤泰治は投げ槍を三本投げさせ、投げ終わると同時に突撃を開始させた。
投げ槍は密集している相手には効果が高いものの、分散している相手には効果が薄く、合計二千四百本の投げ槍の被害は全体でも五百程度であったが、それでも蒲生定秀はその威力に対する認識を改めて持った。千五百の手勢を率いていたうち三分の一に当たる兵が接敵前に失われ、更に士気が削がれていた。だがそれよりも問題なのは多賀大社より南であるのに来たから姉小路軍が来たことであった。これはつまり、既に集結し多賀大社で合流するはずの雑賀党の一部約千との合流どころか、その部隊は既に壊滅したと考えるべきであり、奇襲は完全に失敗、部隊は集結前に各個撃破されたという結末を示していた。蒲生定秀が横にいる雑賀孫一に撤退を告げ、可能な限り軍を温存する策を取ろうとした。
だが既に姉小路軍と蒲生定秀隊の前衛部隊は戦闘に入っていた。蒲生定秀は後方の足軽五百程度と雑賀党の残り五百を無事に撤退させるために、この場に残るべき将を一人選ばざるを得なかった。殿として姉小路軍を止め、そして味方を撤退させるための、いわば捨て石であった。傭兵である雑賀党には頼めず、蒲生定秀と嫡男蒲生賢秀だけが候補であった。蒲生定秀は、嫡男蒲生賢秀を残すべきだと決め、そして蒲生賢秀に兵五百をつけて雑賀党と共に撤退を命じ、自身は前衛で戦闘中の部隊の指揮、そして殿を務めるために行動を開始した。
半時後には戦闘が終了し、蒲生定秀は割腹して果てた。田中弥左衛門が後藤泰治の追撃を知り蒲生定秀隊の退路を断たせたため、逃れられぬと悟った蒲生定秀が割腹したためであった。
「割腹してもなにもなるまいに」
吐き捨てるように田中弥左衛門は言ったが、それでも心のどこかで蒲生定秀の行動を理解できるような気がしたのは、やはり田中弥左衛門が戦国武将としての感覚も持ち合わせていたためであろう。
田中弥左衛門隊が多賀大社前で雑賀党を蹴散らかしていたとほぼ同時刻、草太率いる本隊が犬上川下流で再編成をしていた六角軍と対峙していた。当初は三町ほどの距離を取っていたが動きがあまりないため、草太は前進を命じた。土嚢を押し出しながら進むのはやはり時間がかかることもあり、また再編成を進める六角軍を早期に叩きたいという焦りも前線にはあった。そのため長山九郎兵衛は功を焦ったのか土嚢を一部切り、従者の制止を振り切り軍を前進させた。
一鍬衆二千五百が駆けたが、途中の田に阻まれ足が止まった。そこに六角軍の銃撃が一撃加えられ百数十の兵が失われたようだが、二発目はなかった。百まで我慢した磯野員昌は玉切れかと見当をつけ、同じく一鍬衆二千五百を押し出した。前線の犬上川沿いかを磯野員昌隊が、宇曽川沿いを長山九郎兵衛隊が前進した。鉄砲隊を預かっていた松永丹波守は銃撃の期を逃したが、それでも土嚢の陰で六角軍の突撃に備えた。
一鍬衆は距離が一町を切ると同時に投げ槍を二本投げ、そのまま突撃した。五千本の投げ槍は六角軍に千七八百の損害を与え、この損害により蒲生定秀隊の後方への奇襲を待つことを諦めた六角軍は、宇曽川河口近くに架けられている仮設の舟橋を通り退却を開始した。平井定武隊が通り後藤賢豊隊が通ろうとしたとき、市川大三郎率いる兵七百が先鋒となり宇曽川を下り六角軍と混戦の末、首尾よく舟橋を破壊して退却を阻害することに成功した。
こうなると一方的であった。取り残された三人の宿老、目賀田綱清、後藤賢豊、進藤賢盛は逃れようもなく、姉小路軍の圧力により削られ、朝靄のなか始まった戦いは昼過ぎに決着がついた。後藤賢豊は気絶したところを捕らえられたが、目賀田綱清は自害、進藤賢盛は討ち死にが確認された。
草太は本隊の各人の働きを聞き、勲功第一に市川大三郎を挙げた。これは仮設橋を破壊し六角軍の大部分の撤退を許さなかったためであった。
結局、犬上川合戦から撤退に成功したのは平井定武隊千五百、蒲生賢秀隊五百、そして雑賀党五百だけであり、残りは降伏も含めて六角家から全て失われ、傭兵である雑賀党も含めて実に一万二千以上の兵が失われた。
だが犬上川合戦はこれで終わってはいなかった。夕刻、平井定武隊は宇曽川の仮設橋から観音寺城を目指して進んでいた。繖山観音寺山の北を回って夜にも観音寺城へ入るべく進んでいたが、垣見城にほど近い地で思いもしない敵の攻撃を受けた。
菊池武勝と三田村定頼、そして一鍬衆と新型銃隊合わせて三千が皐月十六日夜に琵琶湖上を運ばれてきた次第は述べたとおりであるが、十七日未明に永田栄俊の籠る垣見城を奇襲して落城させ、永田栄俊の代わりに垣見城に籠っていた。予定通りであれば夕刻にも犬上川付近での合戦からの退却部隊が現れるはずであり、垣見城はそのための格好の足溜まりであった。果たして夕刻、櫓の見張りが平井定武隊を発見した。
「旗印から平井定武隊、その数千五百。それ以外には見受けられず」
見張りの報告が簡潔に伝えられると、菊池武勝と三田村定頼は出撃を命じた。新型銃隊の射撃を浴びせた直後に一鍬衆の突撃を行い、元々敗走していたため士気が落ちていたことも、そこから直線でも二里の距離を移動した疲れもあったためであっただろう、激突は非常にあっけなく平井定武隊は壊滅した。
こうして平井定武は銃撃により討ち死にし、千程にまで減っていた平井定武隊は一兵も観音寺城へ入ることもなく壊滅、降伏した。




