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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第五章 混迷と混乱と
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百五十九、犬上川合戦

 姉小路家が宮部城を出陣し佐和山城付近に陣をとった次第、及び野戦部隊の退路をべく夜陰に乗じて長浜より船で出陣させた次第については既に述べた。対する六角家も犬上川付近に陣を張り、怠りなく野戦の準備を行っていた次第についても既に述べた。


 姉小路家日誌天文二十四年皐月十七日(1555年6月7日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、(略)佐和山城より攻め上り犬上川にて六角家と交戦仕り候。滝川一益、平野右衛門尉、犬上川にて六角家の陣を打ち破りて後、南下し肥田城、高野瀬城を攻め落とし候。公大きく賞し候。また野戦にて逃げし六角方は琵琶湖岸にて編成を行い候が公自ら兵を出し再度壊滅させ候。市川大三郎、功あり。散々に打ち破られし六角方は西の方観音寺城をさして逃げ候えども、湖上より中入りせし菊池武勝、三田村定頼の両名の働きにより愛知川にて阻み候」

 姉小路家と六角家に対しての最大の合戦は、この犬上川の合戦である。この合戦で六宿老のうち四人が討ち死に、又は捕らえられ、兵一万以上が失われた。この後、六角家は二度とこの規模どころか二千程度の兵を動かすことにもほとんど成功できなかったのである。六角家にとって、姉小路家との大規模な野戦は浅井家を救援に行った際、そしてこの犬上川の合戦の二回だけしかないが、両方とも完全なる敗北に終わっている。このことは六角家との抗争を繰り返していた三好家などにも伝わり、姉小路家の強さを再認識させ更に警戒を強める元となったのであるが、それはまた別の話である。

 ともあれ、南近江西部の青地茂綱の帰順もあり、野洲川以西は即日姉小路家の支配することとなったのは六角家の資料によっても確認できる。

 ところで同時期に、各地域に繁忙期であるというのに動員がかかっていたという事実があるが、姉小路家はこれを見逃していたのか特に対応していなかったようである。ここにも急拡大したための人手不足という弊害が出ているようである。これを察知していたとすれば、草太の行動も違ったのであろうか。




 先陣を率いて滝川一益、平野右衛門尉、田中弥左衛門が犬上川の東岸にて陣を整えたのは皐月十七日(6月7日)未明のことであった。

「敵側に動きは」

 平野右衛門尉が問うと、物見頭が報告した。

「夜襲を警戒しているようではありますが、左翼に進藤賢盛隊三千、右翼に目賀田綱清隊三千四百、中央に平井定武隊三千五百、後陣に後藤賢豊隊二千百が陣を張っているとのことでございます。それから」

 なんだ、と滝川一益が言うと物見頭は言った。

「南方に小集団に分かれて動いている不審な集団があるように存じます。大きな荷もなく三々五々移動しており、また夜陰に紛れたため総数は不明でございますが、昨夕多賀神社付近でそのような集団がいたとの報告がございます」

 滝川一益は不審に思った。確かに農民が多賀神社に避難した、というのであれば分からないでもない。だが、そうであれば家財も持って逃げるはずであるため、遠目にも分かるものであった。

「大きな荷もなく三々五々に、か。……蒲生定秀が奇襲部隊かもしれぬな。ご苦労であった」

 物見頭を下がらせた直後、後方にいる後陣へ報告を上げた。そして田中弥左衛門へ滝川一益が言った。

「田中弥左衛門殿、ご苦労ではあるが、側面からの奇襲があるとすれば対応はせねばならぬ。その対応をお願いしたい」

「数も陣容も、そもそも奇襲があるかどうかも分からぬが、確かに承った。少し指図から外れるが川沿いに多賀神社まで攻め上ることとしよう」

 田中弥左衛門の言葉に、滝川一益、平野右衛門尉が頼むと言い、そして払暁からの攻撃について軍議を進めた。

 結論だけを言えば、最も北に位置する進藤賢盛隊は放置、右翼目賀田綱清隊に主力を宛て、中央の平井定武隊は一当てして乱すのみ、そして湖岸へ押し込み、適当なところで切り上げて後方からの後陣が近づき次第交代して肥田城、高野瀬城の攻略へ移る、という事となった。肥田城、高野瀬城は兵の足溜まりのための城という位置づけなのか防備はさして厚くなく、また両城合わせても立てこもる兵は二百程度でしかないため、一当てした後は城を捨てて観音寺城へ戻るつもりであろうという事が予測されていた。



 そして夜明けとなり、姉小路軍は犬上川の渡河を開始した。犬上川から約一町半に土嚢を積み上げ銃からの防衛線を築くと、まずは平野右衛門尉が敵の出方を見つつ南側に当たる左翼の土嚢を前進させた。浅井家との北近江合戦でも使われた、二重の土嚢のうち内側を前に出す方法であった。この方法は非常にゆっくりとした前進しかできず、また一鍬衆といっても体力を使うため改善の余地がある方法であったが、未だに銃に対する盾も実用化のめどが立っておらず、更にこれ以外の有効な策は今のところ開発されていなかった。それでも訓練により、四半時で一町程度の距離を前進することが出来るようになっていた。これは、訓練もあるが土嚢の大きさを工夫し、一つ一つを小型にしたためであった。川の氾濫を防ぐためであれば別であるが、銃弾を防ぐためであれば小型でも数で補いさえすれば問題はなかった。


 一方の六角軍はあまり統制がとれていたとは言い難かった。野戦を主張した進藤賢盛、目賀田綱清は両翼に配し、両者が両翼より包むように攻撃した後一呼吸して中央から平井定武隊が一当てして離脱、後藤賢豊隊と共に観音寺城へ入り籠城する、というのが後藤賢豊の腹積もりであった。姉小路軍と対峙するならばせめて兵数は二倍は欲しかったが、農村で余剰となっていた次男三男辺りの大部分は街道整備と称して北近江と山城の境へ連れ去られており、一部には兵とすることのできる者が一人も残っていない村さえあった。そのためもあり、農民兵は当初の見込みよりも大幅に少なく、年貢の減免をちらつかせて無理に集めてきた兵で数は間に合わせていた。無論、蒲生定秀は戦となればこの農民兵も優勢でなければ大部分は逃げ散り、さして役に立たないとは知っていた。せめて北近江合戦における兵の損害がなければ、と考えなくはなかったが、済んだことは仕方がない、とあきらめた。



 朝霧の中、姉小路軍と六角軍の距離が一町をきり、合戦が始まった。

 先陣左翼は既に平野右衛門尉が前進を開始していたが、滝川一益は六角軍左翼の進藤賢盛隊、中央の平井定武隊の出方を窺っていた。と、物見より六角軍左翼進藤賢盛隊に突撃の兆し有りと報告が上がってきた。策もなくただの突撃か、何か策があるかと怪しみながらも、木田八郎に一鍬衆二千、中筒隊五百をつけて敵の攻撃に備えさせた。

「ただ撃退だけで良い。攻めようと思うな」

 指示を出した滝川一益であったが、何かが違和感があった。なぜ中央の平井定武隊は動かないのか、それが分からなかったためだ。

「ふん。何を考えているか分からんな。一当て当ててみるか。……前進せよ」

 命令一下、滝川一益率いる隊が前進を始めた。朝もやに隠れて平井定武隊の位置は正確には分からなかったが、大きな動きは見られなかった。兵の温存策か、と思わないではなかったが、ただ土嚢を前に繰り出しつつ前進を開始した。一時もすれば後方より後陣が追いついてくるため、その後は交代し全部隊を肥田城、高野瀬城攻めへと振り向けることを考えていた。

 と、その時使い番が来た。

「報告します、前方の陣は空陣、籠っていると見える平井定武隊は偽兵にて兵はほとんどが後方の後藤隊の近くに伏せている様子」

 分かった、と滝川一益が応じ、距離一町で銃撃を開始するように前線に命令を下した。


 木田八郎の指揮する別動隊二千五百は、急進してくる進藤賢盛隊を迎え撃っていたが、竹束を前面に突撃してくる進藤賢盛隊を止めるには中筒では足りなかった。確かに貫通し竹束を持った足軽を倒すことは出来ていたようであったが、一撃で百も減らせず、更にいかに練度の高い姉小路軍であっても二町の距離を詰めるまでに打てる中筒は精々五六発、投げ槍も投げたが千五百近い兵の接近を許した。中筒隊は後方に逃して土嚢を盾に一鍬衆が三間槍で戦い辛くも凌いでいたが、全体に進藤賢盛隊の攻撃の圧力が高く、兵の被害こそ少なかったがさしもの一鍬衆も押され気味であった。それでも徐々に進藤賢盛隊も崩れていき圧力が減じていったのは、やはり地力の違いが大きかったためであった。

 進藤賢盛隊が被害の大きさに一旦後方に下がると、木田八郎は滝川一益隊に合流すべく後方へ下がった。



 木田八郎隊は進藤賢盛隊の撃退に成功したが、滝川一益隊は平井定武隊、後藤賢豊隊との戦いで苦戦していた。

「土嚢の陰より火縄銃の攻撃、こちらも銃撃を行っていますが目立った損害を与えた様子はありません」

 伝令の報告に苦い顔になりながらも、滝川一益は何か引っかかった。六角家と手切れとなってから半年近く、火縄銃の訓練も考えれば細々と堺から流した硝石を勘案してもここで大量に硝石を使う事は解せなかった。この後に籠城戦を行うつもりであれば、城に立てこもった後にこそ火縄銃は必要とされるはずであった。少なくとも土嚢に隠れた姉小路家に対して潤沢に撃てるほどの火薬はないはずであった。何が狙いか、滝川一益には益々分からなくなった。擲弾筒も棒火矢も用意はあったが、それで崩せるようには思えなかった。

 後陣、草太率いる本隊に任せようかと考え始めた矢先、また伝令が来た。

「報告します、敵方の銃撃、止みましてございます。また平井定武隊、後藤賢豊隊は竹束を前に前進を開始しました」

 銃撃を、と言いかけて滝川一益は思いとどまった。竹束があるのであれば銃撃は意味が薄く、むしろ一鍬衆を出すべきであろうと考えたためであり、また一当てして押し込んだ後は後陣に任せて前進することを考えたためであった。一鍬衆に前進を命じかけた瞬間にふと滝川一益は誘導されている気になったが、それを振り払うように前進を命じた。


 そして犬上川西方で滝川一益率いる一鍬衆と平井定武、後藤賢豊率いる足軽隊が衝突した。一鍬衆が三間槍の集団戦術で圧倒すると滝川一益は考えていたが、実際にはその様相は異なっていた。集団戦術は既に六角家にも存在したためであった。

 六角家の集団戦術は、姉小路家のそれとは異なり前線は槍、盾をもって防ぐ隊であり、その後ろから短弓を持った隊が弓を射かける形であった。足軽隊は確かに一鍬衆と戦えば日向の雪のように倒されていったが、その間に短弓を持った弓隊が一鍬衆に出血を強いていった。それでも前線を受け持つ足軽隊がなければ弓隊も下がるしかなく、滝川一益は後陣が到着する頃には平井定武隊、後藤賢豊隊を散々に打ち破った。散々に打ち破った後、滝川一益隊が離脱し点呼を取ると実に千近い兵が死傷し失われていた。

 滝川一益は使い番を出し六角家の使った新しい陣法について詳しい報告を後陣にし、平野右衛門尉隊と合流して一里半先にある肥田城、高野瀬城攻略へと取り掛かったのであった。



 合流後、平野右衛門尉に戦況を聞くと、六角家右翼の目賀田綱清隊は集団戦術も使わなかった代わりに最初期を除いて前進もほとんどせず、前進しても銃撃で抑えられる程度であった。そのうちに中央部が敗れると下がった、とのことであった。滝川一益は、あの集団戦術は後藤賢豊か平井定武が発案であろうと理解し、その旨を特に使い番を使って報告させた。

 だが、と滝川一益は考えた。今後敵方が集団戦術を用いるようになるのであれば、姉小路家もこのままではなく新たな戦術を確立すべき時が来たのかもしれぬ、と。


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