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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第五章 混迷と混乱と
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百五十七、六角家

 姉小路家に治罰綸旨の勅が下り、姉小路家の六角攻めへの支度が着々と進んでいる次第については既に述べた。治罰綸旨が下りればすぐさま戦の時間であり、いつでも出撃できるように兵が整えられていた。

 一方で六角家も戦の支度に余念がなかった。姉小路家のように主力を移行させたわけではないとはいえ少数ではあったが渡り者を集めた足軽もあり、また農民からも徴兵を行って軍備を整えていた。



 姉小路家への治罰綸旨が下るとの一報が六角家にもたらされたのは、天文二十四年皐月十二日(1555年6月2日)のことであった。その翌日、軍議が開かれた。

 六角義賢自身は浅井家が滅んだ北近江合戦から既に姉小路家との全面抗争は避けられないと考えていたが、決定的になったのは幕府に入れてあった伝手からの情報により足利将軍家も姉小路家の南近江攻略を支持した弥生上旬のことであった。それまでは足利将軍家を介して和議を結ぶことも考えていたのだが、足利将軍家でさえ敵対した上は朝廷を介しでもしない限りは和議は難しいように思われた。姉小路家は摂家の一つである一条家との縁が深いが六角家にはこれに匹敵するような公家との縁はなく、朝廷の周旋による和議も難しいと考えられた。

 当初、六角義賢は姉小路家の開戦時期を弥生上旬頃と考えていた。北近江を奪取した姉小路家が、足場も固めずに南近江へなだれ込むとは考えにくく、また足場がある程度固まった後も近江でぐずぐずとしているとも考えにくかったためであった。そのため渡り者を集めて常備兵を作りまた徴兵を行って兵を調練するなど軍備に余念がなく、更に兵糧の類を主要な城に集めていた。

 その上で六角義賢と六宿老である蒲生定秀、後藤賢豊、進藤賢盛、平井定武、三雲定持、目賀田綱清は軍議を重ねていた。特に中心となったのは実際に姉小路家と対峙した経験のある後藤賢豊と蒲生定秀であったが同時に姉小路家に敗れた将であったため発言権が目立って高かったわけではなかった。

 とはいえ、卯月の声を聞くころになっても戦略を一つに絞り切ることさえ出来ていなかった。簡単に分ければ六角家が防衛戦を戦うとすれば野戦を行うか籠城をするか鈎の陣を展開するかのいずれかしかなかったが、いずれも一長一短あり、簡単に絞ることは難しかった。その上で当初想定されていた弥生上旬を過ぎても姉小路家は軍を進めようとさえしていなかった。連日の訓練は行われていたのは分かっていたが、訓練とは別の動きをすることすらなかったようであった。兵だけではなく、草太は上京したかと思えば比叡山を味方に引き入れ近衛家と縁を結び、京を離れたかと思えば金沢に引いて近江へ出てこない日々を過ごしていた。


 兵を出した戦は行われていなかったが、一方で姉小路家は南近江の東の方佐和山で関を作り南近江を通る販路を止め、北回りで琵琶湖北岸から西岸を通る街道に誘導し比叡山よりも北方、和邇川わにがわ沿いに街道を作ってそこを通じて京へ入る様に誘導していた。六角家にとって、地味ではあったがこの策は効果的であった。城下町が見る間にさびれていき、それでも北近江には兵がひしめいていたことから足軽も農民兵も簡単に放すことが出来なかった。兵を放たず保持し続けるだけでも、じりじりと六角家は疲弊していった。


 その上で齎されたのが治罰綸旨の一報であった。姉小路家が近衛家と縁を結んだという知らせを受けた時からかすかには覚悟をしてはいたが、それでも実際に起こったとなっては六角義賢も覚悟を新たにせずにはいられなかった。そしてこの数か月で何回目か分からない軍議が行われた。

「では軍議を行う。情勢は知っての通りであり、また後援をしている冷泉殿からの通報により姉小路房綱はこの十五日に宮部城で治罰綸旨を受けることとなった。金沢城にいたはずが宮部城で受けるという事は、そのまま戦になだれ込もうということであろう。いかにすべきか、思うところを述べるが良い」

 六角義賢が言うと、進藤賢盛がいつも通りの自説を展開した。

「なんの、佐和山を越えてきた姉小路側を野戦にて破れば宜しかろうと存じます。奴らにもありといえども我らにも鉄砲あり、また我らの土地なれば野戦で滅多にひけはとりますまい」

 左様、と目賀田綱清も同調したが実際に一度相対していた後藤賢豊と蒲生定秀はやはり反対した。

「勇ましいのは結構でございますがな、野戦では勝てませぬ。兵の数も武装も練度も、全て姉小路家の方が一枚も二枚も上でございます。勝ち目があるとすれば籠城、そして懇意にしている伊勢北畠家、それから姉小路家と敵対している石山本願寺を動かして疲弊させて後の決戦でございましょう。或いは情勢の変化から和議もあり得ることにございます。いずれにせよ当面は耐える戦にございます」

 こういった後藤賢豊の発言に対するように、三雲定持が言った。

「野戦は確かに不利でございましょう。しかしながら同様に籠城策も下策かと。なぜなら北畠家や石山本願寺が当家に肩入れするという保証は全くございません。鉄砲も玉薬を入手することが難しくなっており、堺から細々と入っては来ておりますが籠城策を取って寄せ手に撃てばすぐに尽きる程度でしかございません。当面は戦わず、また籠城もせぬ鈎の陣をとって疲弊させる策に出るのが良いと考えます」


 いつも通りの三様の意見は、結局は平行線のまま未だ結論どころか妥結へ向けた歩み寄りすら行われる見込みもなかった。六角義賢は心の中で毒づきながらも、全軍をもってあたらなければ勝利すること自体が難しいと考えていた。その決定権自体は六角義賢の手にあったが、決定をしたからといって全員がもろ手を挙げて従うという見込みは薄かった。末席に連なっていた六角義治が口を開いた。

「若輩ながら。……三つの内一つしか実行できぬ、と決まったわけでもありません故、三つともやればよかろうと思われます」

 六角義賢は心の中で、何も知らぬ息子が何を言うのかと考えていた。だがそのような六角義賢を尻目に六角義治は続けた。

「野戦を行い籠城戦を戦い抜くのは兵も将も必要でございます。それ故、まずは野戦を行い、また適当なところで引いて籠城をすればよかろうかと。更に鈎の陣は兵をさほど多くは必要としませぬ。将のみでよく、籠城戦の後に行えばよかろうと存じます。籠城する時点で一部の将兵を分け、背後を脅かす策が上策かと。更に鈎の陣にあれば北畠家や石山本願寺にも容易に連絡がつけられましょう」

 この発言に六角義賢は息子六角義治を見直していた。これならば六宿老の誰の顔も潰すことなく意見を統一することが出来るようであった。そこへ三雲定持が言った。

「鈎の陣を行うのであれば、我が三雲城に拠れば良いかと存じまする。一時、金穀の一部を輸送されれば宜しいかと」

 うむ、と言う六角義賢に対して六角義治は言った。

「父上、父上は三雲城に入り鈎の陣を仕りますようお願いいたします。観音寺城は某が籠ります」

 六角義賢はかなり複雑な気になった。確かに理に適っていたが、それでも観音寺城に残るという事はその後の籠城戦を戦うという事であり、更に観音寺城が落城という事となれば六角義治も無事に済む保証はなかった。一方で観音寺城に誰も残さないという選択肢はなく、また六角義賢自身が残っては鈎の陣から外交を駆使して伊勢北畠家や石山本願寺を動かすという目論見は目がなくなるため、残るわけにはいかなかった。六角義賢は暫し考えたが、やはり観音寺城には六角義治を残さざるを得ない、と決断を下した。

「ならば義治、観音寺城にあれ。最低限の兵を残した全軍をもって姉小路家の侵攻軍と野戦をし、野戦で一当てし、そのまま籠城戦へ移る。儂、それから三雲定持は鈎の陣を敷く」

 平井定武が言った。

「瀬田はいかがなさいますか」

 瀬田唐橋の西に姉小路軍がいることは既に物見の報告に上がっていた。後方をつかれる危険を指摘したものであったが、六角義賢は簡単に言った。

「焼き落とせ。時を稼ぐのだ」



 軍議により六宿老の意見を統一することに成功した六角義賢であったが、独力では姉小路家に勝てないことは先刻承知であった。そのために打った手の大部分は、もし草太が弥生の内に戦を仕掛けていたならば決して日の目を見ることはなかったであろうが、皐月も下旬に差し掛かるころであれば充分な時間があったため成立するものが多かった。だが治罰綸旨という六角家を朝敵として認定する勅が下ったとあれば実際に六角家に与するかどうかはかなり怪しく、また六角家に与するとしても相当の譲歩を迫られる危険性があった。それでも滅亡よりはまし、と割り切って六角義賢は策を進めるための文を書き、使者に託した。使者は伊勢北畠家へ、石山本願寺へ、そしてその他のいくつかの戦国大名の元へと散っていった。



 翌日、兵を一足先に東の方肥田城へ出陣させた六角義賢の元に一人の客が来ていた。石山本願寺の紹介状を持つその男は雑賀孫一と名乗った。

「紀州の田舎者だから、礼儀作法は知らぬので許されよ。儂は雑賀孫一と言い、雑賀党という傭兵団の頭をやっております。今回は石山本願寺からの依頼にて、鉄砲兵千五百を連れ罷りこしました」

 雑賀孫一の名は、六角義賢は知らぬではなかった。鉄砲の扱いに長けた傭兵団、それが雑賀党でありその首領として畿内でのいくつもの戦で活躍しているという話を聞いていたためであった。実際、六角義賢は彼らの招聘を検討したことはあったがそれは如月の中旬頃の事であり、弥生上旬の合戦には間に合うまいという見込みであったため流れた。その雑賀党が石山本願寺の紹介で合戦前夜というこの時期に来たのは、天祐という他はなかった。六角義賢は一も二もなく雇うことを決め、雑賀党を肥田城へ入れるように指示した。

「本願寺顕如様から言付けを預かっておりますよ。下間頼照様をはじめとする坊官を何人か南近江に入れるのだそうだ。姉小路家が南近江に入った直後に一向一揆を起こすつもりだそうだ。背後を突いている間に上手く姉小路家を撃退せよ、とのことだな」

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