百五十六、治罰綸旨
姉小路家がひ文字姫を室に入れ何とか折り合いをつけた次第、及び治罰綸旨を携えた勅使が下向することとなり近江は宮部城にて迎えることとなった次第については既に述べた。草太の計らいによりこの勅使については足利将軍家にも知らされ、足利将軍家から細川藤孝が共に宮部城で受けることとなった。
また、この時期には既に物資の集積も進んでおり、命令一下南近江へと攻め込むことができるよう準備が進められていた。その準備の中には一鍬衆を含めた兵の調練もあったが、それ以上に街道整備の準備が多くを占めていた。美濃から入ってきた商人などは米原から長浜に築かせた港へ、そして船にて対岸の高島の街へ渡し、西近江路を進み先頃開削された若狭街道の途中より分岐した和邇川沿いに川を下る街道を通し、大原の里を経由して北東より京へ入る様に誘導していた。川沿いを通る街道は元々存在したため皐月朔日には街道は完成していたが、ほとんどの人足はそのまま若狭街道の延伸に充てられ今は若狭街道の朽木谷までの道の整備が行われていた。この人足達の大部分は南近江の農民たちであることは、既に述べたとおりである。
姉小路家日誌天文二十四年皐月十五日(1555年6月5日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、六角家の治罰綸旨を携えた勅使を迎え候。細川藤孝殿も同席致し候。(略)夜、細川藤孝殿、公に六角攻めに足利将軍家が加勢を言いだし候が、六角家を幕臣となすならば六角攻めに足利将軍家が兵を出さざるべきなればと、公之を不許候」
六角家との開戦を決定づけたとされる治罰綸旨は姉小路家にとって良かったのか悪かったのか、実のところはっきりしない面がある。姉小路家の南近江への進出という命題にとっては確かに良かったのだが、一方で悪いこともあった。それは守備すべき防衛線の拡大であり、接する敵対戦国大名の増大であった。更にもう一つ悪いことに六角攻めはここまでの草太の戦い方にと大きく異なる部分があった。
ここまでの戦い、飛騨統一戦、越中神保家、能登畠山家、加賀一向一揆、越前朝倉家、北近江浅井、そして若狭武田家のいずれであれ、一つの共通項があった。それは、戦った後に必ず相手を打倒し後顧の憂いを断っている、という点であった。しかしこの六角攻めはこれまでと違い、六角家は南近江攻略後も存続しており、更に六角家を完全に討伐する前に京を制圧する必要があったため、討伐が完全には行えなかった。六角家は鈎の陣と呼ばれる潜伏と攪乱を主体とする持久戦の方針を立てて反抗したため、戦が終われば基本的には安全であったこれまでの姉小路領とは異なり、戦が終わってもしばらくは安全が確保できないという状況が続き、その対応に苦慮することとなったのである。
草太は宮部城にて綸旨を受けることとしたが、その狙いは明らかに綸旨を受けた直後に六角家の治める南近江へ攻め込むためであった。兵の調練も終わり、高い練度の兵が湖北地方に入った辺りから宮部城にかけてひしめいているのを見、細川藤孝は姉小路家の戦に対する気をひしひしと感じていた。兵は更に佐和山城にかけて分駐しており、命令一下或いは佐和山城付近に、或いは宮部城付近に、或いは長浜付近に集合することが決めれれており、また既に琵琶湖西岸の高島の街から比叡山のふもと坂本の街に向け、渡辺前綱を主将とする一鍬衆六千、中筒隊二千を中核とする軍が差し向けられていた。この他に疋壇城に籠っていた三林善四郎隊が別動隊として既に大津から北へ四里、真野の郷に入っていた。大津は六角家の影響も強い地域であったが真野元貞は調略により姉小路家に通じていたため進出に危険は少なかった。三林善四郎に与えられた任務の一つは物見を多数出し敵情を掴むことであり、既に夥しい物見が大津、瀬田にかけてまで活動していた。流石に瀬田の唐橋を渡るほどの危険は冒さなかったが、これは治罰綸旨が下るまでは戦端を開かぬようにという配慮からであった。
そして皐月十四日(6月4日)となった。勅使の冷泉為益は宮部城での治罰綸旨の伝達を翌日に控え、宮部城より一里にある長浜御坊に泊まり後藤帯刀の歓待を受けた。冷泉為益は贅を凝らしたわけではないが、それでも若狭からの海産物を中心とした膳に舌鼓をうっていたが、それでも考えるのは役目のことであった。六角家を対象とした治罰綸旨を姉小路家に与えるというのは、六角家の密かな後援を受けていた冷泉為益にとって望ましくないことであり当初は可能な限り引き延ばすつもりであった。しかし姉小路家から日時と場所まで指定され、そして摂家の一つである近衛家から直々に命じられた以上、冷泉為益にとって役目を果たすべく行動するほかはなかった。
この上は詳細な姉小路家の情勢を六角家に伝える外はないと考えていたが、小者に聞くと既に南近江へ行く道には仮設の設けられており、誰何を受けずに南近江へ入ることは難しいと考えられた。その上、情勢を知らせるのはほとんど意味がなさそうであった。なぜなら南近江から見ても既に大軍がいるのは明らかであり、勅令が下った直後に南近江へなだれ込むことは明らかであったためだ。だが後藤帯刀が言った一言が冷泉為益をして無理にでも使者を出させた。それはこういう一言であった。
「明日は御屋形様、姉小路房綱のみならず足利義輝公の名代として細川藤孝殿が列席致しますが、勅を受けるのは御屋形様のみと伺っております」
その夜、密かに小物を走らせた冷泉為益であったが、その小者が捕まらないとは考えられなかった。だが小者を走らせたという事実だけが言い訳のように必要であった。結果だけ言えば、この小者は翌日の夕方には観音寺城に着き足利将軍家が姉小路家に付いたという報を報せ、六角義賢を激怒させた。
この小者については、実のところ後藤帯刀はそういう事もあるだろう、という程度には予測していた。もちろん、冷泉為益が六角家の後援を受けていたという事は姉小路家は知らなかった。だが姉小路家もそうであるように、六角家も三好家も石山本願寺でさえも、公家への後援を行っており自家に味方する公家を多く連ねているのは充分に理解していた。
六角家はこれまで足利将軍家を大きく支援してきたという経緯があった。その足利将軍家でさえ敵に回るというのは、六角家にとって悪い報せかどうかは分からなかったが少なくとも良い報せでは決してなく、また足利将軍家を頼っての早期講和を目指すという戦略を封じるという効果も期待できた。なによりこの策自体は後藤帯刀が一言冷泉為益に言う以外に何も必要ではなく、六角家に繋がっていないのであっても翌日の列席者を告げるだけであったため不自然ですらなかった。外れたとしても、冷泉為益が京に戻り足利将軍家も治罰綸旨を授ける場に列席したと復命すれば自然に六角家の耳に届くはずであったため、遅かれ早かれ同じことにはなると考えられていた。
同じ夜、草太は宮部城の一室で沖島牛太郎と会っていた。
「治罰綸旨、にございますか」
沖島牛太郎は草太から聞かされた展望に対して驚くよりも実感がわかなかった。確かに草太が殿上人であることは知っていたが、それでも朝廷からの命を受けての戦を仕切る、などということは慮外であったためだ。沖島牛太郎のような人間であっても、いや沖島牛太郎のような人間であるからこそかもしれないが、朝廷の命は非常に重いものであり、それが偶然に降りてくるとは考えられなかった。裏を返せば朝廷にそのような命令を出させることが出来るほどの力が姉小路家にはあると考えられた。それは、天に雨を自在に降らせると同じ程度には神業に思われた。そのような沖島牛太郎を見て草太は言った。
「なに、それほどのものではない。朝廷の畏き方は別としても、周囲にいる公家は人でしかない。公家を動かせば勅の一つくらいはどうにかなる。それが本当に宸襟から出たかどうかは定かではないにせよ、朝廷から出たという形が重要なのだ」
そういうものですか、と半ば納得しない顔をした沖島牛太郎に草太は本題に入った。
「まずは南近江から民を抜いたこと、ご苦労であった。街道整備も進むであろう。また人足も南近江を通らせぬように道を変えさせた故、さぞ迷惑を蒙った者も多かろう。それについては侘びを申す」
沖島牛太郎は言った。
「琵琶湖水運を通じた高島の街への船への荷の揚げ降ろしに増加した船の船頭水夫で生計が困るものもほとんどおりませぬが、この策はいつまで行うのでございますか」
問題があるのか、と弥次郎兵衛が聞くと沖島牛太郎は言った。
「初夏まではそれほどありませんが、問題がない訳ではありません。問題は悪天候で」
「そうか、船では悪天候では難しいか」
草太が言うと、それを肯定するように沖島牛太郎は言った。
「今時期はまだ良いですが、秋口には台風が来ます。数日、下手をすると十日近く船を出せない日が出たり、船が風で破損したりすることもあります。それで運べる荷が運べなくなれば問題です。秋口には何とか、南近江も通れるようにしていただきたい」
わかった、と草太は返したが、戦がどうなるのか、そう楽観視はしていなかった。野戦であれば勝敗に係わらず精々数日のうちに決着がつくが、攻城戦となれば一月以上もかかることさえ考えられた。例えば観音寺城には、服部保長の調べによれば少なく見積もっても一万の兵が籠っても二月分、おそらく三月から半年分の兵糧が用意されていると見られていた。篭城されては面倒だが、だからといって野戦を六角家が必ず選ぶように仕向けることは難しかった。
草太は一つ気がかりなことを沖島牛太郎へ言った。
「南近江は、今田植えの時期ではないか」
左様で、という沖島牛太郎に、草太は更に言った。
「田植えの時期に六角家が兵を集め、或いは田が戦で荒らされるのは可哀想なことだ。考えようによっては篭城させた方が良いやもしれぬな。……ときに観音寺城付近を通る道にはう回路はあるか」
「ございますな。細い道ならば数多くございます。街道を整備さえすれば、一里以内に近付かない道もございます」
草太は、場合によっては観音寺城に籠城させることも視野に入れている、と示しながら言った。
「ともあれ、戦場では何が起こるか分からぬ。村々に戦が近いことを触れておるな」
無論、と沖島牛太郎がいうとこれまで口を閉ざしていた服部保長が口を開いた。
「御屋形様、南近江では既に徴兵が行われております。戦の近いことは民の多くは知っておりましょう。戦を避けて京、大和、伊勢、伊賀など周辺諸国へ逃げ込むものも多く、またこの北近江へ逃げ込むものも少なくありませぬ。この件はそれほど難しく考えなくとも宜しいかと」
何か言いたげな服部保長に先を促すと、服部保長は言った。
「おそらく六角家は伊賀と甲賀の者を動かしましょう。正面からの戦なら別でございますが、乱破は攪乱と虚実ある戦には滅法強いものにございます。民には迷惑な話でございますが。……時に沖島牛太郎殿、配下を村々に配することは出来ましょうや」
沖島牛太郎は、既にほとんどの村には息のかかった者が入っている、と言った。
「そもそも近江は我らが庭にして我らの本拠地、手下の親族まで含めれば近江に我らの息のかからぬ村はございませんよ。行商人にしろ、その商う荷は大部分が我らが息のかかった者が扱っておりますれば。それが何か」
ならば、と服部保長は言った。
「胡乱なものが入り込まぬよう、入り込んだら即座に当家にお知らせ願いますよう、お願いいたします」
そして翌日、細川藤孝の立会いの下で草太は治罰綸旨を受けた。




