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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第二章 飛騨統一編
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十六、草太の旅

 京一条家を出発した一行は、山科を越えると差し掛かると一旦小休止した。山科を越え大津を眼前にして琵琶湖を望む辺りで、景色を眺めつつ昼食をとるため小休止の体である。無論、本当の理由は、ここで別の馬三頭を率いた替え玉と入れ替わることである。

 草太は、替え玉の少年が代わりに牛車に乗るのを見、その無事を祈りつつ見送った。ここからは平助、弥次郎兵衛の二人を連れた三人旅で、少しばかり急ぎの旅である。何しろ、行列と同時に飛騨国府に入る、つまりその直前に合流する必要があったためだ。移動距離は最低でも二倍から二倍半はである。行列には沖島牛太郎の勢力範囲内ではできるだけゆっくり行くように指示してはいるが、それでも限度がある。

 一応、十日後に国府に入る、という話として、詳細な日程は連絡(つなぎ)を密にする、その方法も取り決められていた。なに、庶民には庶民の口があるのじゃ、とは城井弥太郎の言である。


 一行の小休止を残して、草太、平助、弥次郎兵衛の三人と城井弥太郎、沖島牛太郎の合わせて五人が先に出発した。比叡山の門前町の手前に合わせたい人物がおり、城井弥太郎はそこまで、という運びである。馬で四半時の道を五人は連れ立って走り、一群の里に出た。そのうちの主だった家の一軒に、馬をつなぐ。昼食は馬上、焼いた餅を食べて水を飲んだきりである。

 城井弥太郎が到着を告げると、別の小者に指示をして馬を厩に入れ、小物は中へ案内した。既に今日くることは知らせてあったのであろう、広間の床の間の左にいかつい顔の男が、座っていた。いかにも頑固さがにじみ出ている。そういう顔である。広間の床は畳敷であり、これだけでも、客間であるということは知れた。

「五人にはちと狭いかもしれねぇが、ま、入ってくんな」

 男が言うままに入り、勿論床の間を背に上座に座るのは草太である。ふと床の間の掛け軸に目が行った。風水画であるが、何とも言えない味があった。見ていると

「それか。味が分かるか。そうかそうか。それはな、さる御方から貰ったものでな、見ていて心地いいからかけているだけよ。なに、銭が払えねえってんでそれを貰っただけだがな」

 城井弥太郎が咳払いをして、草太は席に着いた。そして城井弥太郎がこの頑固爺を紹介した。

「この里は穴田衆、石垣を作る専門家集団だな、その里だ。畿内一円の石垣、堤防は、大体は穴太衆の手が入っている。この爺は、|(爺はお互いじゃと頑固爺も言い返したが、その目は全く怒っていないようであった)穴田衆の取りまとめをしている彦八郎という男でございます」

「彦八郎でございます。……と、言葉が不味いのは勘弁してもらいてぇ。流石に堂上人にこの口調は拙いってのは分かるが、何分、喋りずれぇでな。先代の顔役が四国から来たとかで、栗田彦八郎と名乗っとる、ただの頑固爺でごぜぇます」

 彦八郎はそういうと、へ、とばかりに頭を下げてすぐに顔をあげ、続けた。

「顔役といっても、渉外は他にまかして石弄りばかりやっておる、ただの爺でごぜぇますよ。石垣なら日本一だと自負しておりますが、それ以外のことはさっぱり分からん。そういう爺でごぜぇます」

 草太は少し気になった。

「石垣なら日本一、そういったな。では河の石積みもできるか」

「お任せあれ。穴太衆の手で出来るならどんな河でもできるし、逆に穴太衆の手で出来ねぇなら、日の本中探したってできる奴はいねぇ」

「それは畿内だけか」

「まさか。仕事があれば陸奥だろうが九州だろうが、唐天竺でもやりますよ」

「飛騨でもか」草太は念を押す。諾、と返事が返ってきた。

 ふと気になったことを草太は尋ねた。

「石垣を築くのは日の本一だという。ならば崩せるか」

「訳もねぇ。要を砕けば、どんな石垣でも崩れますわ。いかに要を締めるか、その要をいかに据え、いかに分けるか。これが石垣を強く作る秘訣じゃ。といって、要を見抜けるのはこの里でも儂一人、いや他にも一人くらいはおるかな。自分で組んだなら誰でも分かるがね」

 つまり、治水、築城、それに石垣崩し。これらは全て穴太衆の手でできる。そういうことらしい。

「雇うとしたらどのくらいかな」

「召抱えようってのか、この儂を。やめやめ。儂に宮仕えは無理じゃ。儂は石の言うことしか聞かん」

 確かに偏屈だ。宮仕えは窮屈で出来ないだろう。

 そのうちに飛騨で仕事を頼むかもしれない、と草太が言うと

「ま、そこの爺にも義理もある。沖島の小僧も肩入れしている。となれば頼まれればできることは全部やりましょうよ。もっとも銭次第だがな」

 爺と言われた城井弥太郎も、小僧扱いの沖島牛太郎も、苦笑しているだけである。

 逆にいえばこれだけのことが許されるだけの腕があるということなのだろう。何となくソウタ爺を思い出して、懐かしくなった。

 この後も少し話し、夕刻になって食事が給された。大抵は自前で食料を用意するのがこの時代の旅であるが、栗田家は黙って全員分の食事を用意したようだ。といって、申し訳程度に山菜と鶏肉が添えてあるが、うどんに餅が入った、いわゆる力うどんである。これを啜り終えるころには日も暮れていたため、勧められるままに一泊した。


 翌朝、日の出と同時に城井弥太郎と分かれて里を出、沖島牛太郎の案内で琵琶湖西岸に沿って北へ進む。坂本の街を抜け、いわゆる鯖街道のうち西近江路をひた走る。馬も良く持ち、その日のうちに敦賀に到達することが出来た。

 ここからは船である、という。

 草太は船酔いがあるからと難色を示したが、加賀の北部、尾山まで、大人三人と馬三頭であれば晴れてさえいれば早舟であれば朝出て夕方には着くという。同じ距離を馬でかけると三日は見なければならないといい、時間短縮の必要があるから是非もない。諦めて早舟を頼むことにした。

 越前から越中までの水夫人足の顔役は、意外なことに僧侶であった。名を実照といい、超勝寺の住職であるという。

「信仰を核としてまとまったものですから、顔役もほとんどが住職です。もっとも、他と違って浄土真宗は妻帯も認められている宗派ですので、内情は国人衆とさして違いはありませぬ。宗門内部での権力争いもあり、今は畿内の支援を受けた超勝寺側が支配しております。越中までの北陸道は、一向宗門徒の強いところでございます」


 とりあえず、海を渡るには海賊衆と渡りをつけなければ話にならない。当然この点は沖島牛太郎も承知しており、宿をとり馬を預け、三人を連れて顔役のところに顔を出した。本来なら顔役に先に話をつけておき、その屋敷に泊るべき話ではあるが、この辺りの海域を取り仕切る奈佐家、その顔役の屋敷は舞鶴におり、敦賀には常駐していない。

 いずこかのしかるべき場所かと思えば、会う場所は船だという。この顔役は録太郎という50がらみの男で、潮焼けした顔をしていた。話は通っており敦賀にいたが、本人いわく「陸に酔う体質」、つまり船酔いの逆で、余りに波の揺れがないと不安になるのだという。早舟は用意してあるので、夜が明け次第すぐにでも出られる、とのことだ。なぜ夜明けを待たなければならないかと尋ねたところ、敦賀湾の暗礁が夜は見えないため、危ないのだという。

 因みに、草太が船酔いになるがどうしたら良いのか尋ねたところ、逆に

「俺は陸で酔うのだ。どうしたら治る?」

と聞き返された。要は、慣れの問題らしい。


 ともかく草太たちは一旦宿に戻り、払暁に早舟で出られるように手配した。同時に夜のうちに、尾山御坊にいるはずの実照に宛てた紹介状と添え状をまとめていて、ふと気が付いた。まだ越中から飛騨へ、どの道を通るかが決まっていない。

 大きく分けて二つの道が考えられた。一つは庄川を遡り、白川郷を経て国府へといく道程。もう一つは神通川を遡る道程。後者の方が早い。が、途中を江馬氏が抑えている。より安全にというのであれば白川郷を経る方であるが、日数がかかりすぎる。特に山の天気は読みにくい。知らない山ならなおさらである。尾山御坊で既に三日目が終わるのである。そこから六日間で国府の付近で行列と合流し、堂々の国入りをせねばならない。

「いかがなさいますか」

困り果てて沖島牛太郎は草太達と相談をした。すると草太はこう言った。

「既に行列は美濃へ向かっている。おそらく今頃、井ノ口に差し掛かる時分だろう。となれば、三木氏に味方する側の、つまりは我らの敵の目はそちらを向く。逆に我らに味方する側は、いつも通りかそれ以上に、越中を見ているだろうよ。特に白川郷を通るとなれば、尚更内ヶ島の目はすり抜けられまい」

 ここで草太は一旦言葉を切った。

「考えても見よ。我らは名目上は行列と共に飛騨に入るのだ。それがいかに味方になろうかという相手であっても、目について良いわけがあるまい。神通川は常に人の行き来が絶えぬと聞く。ならばそこを通るのが自然であろうよ」

 言われればその通りである。草太の言う通り、神通川を遡る道を手配するように手紙にしたためた。

 翌払暁、草太はどうせ吐くだけだからと食事もとらず、塩と水だけを飲んで早舟に乗りこんだ。平助、弥次郎兵衛の二人は朝食の干し飯を噛み、弁当に竹筒に入れた水を宿に用意させ、乗っていれば良いから今日は気楽なものだと言っていた。沖島牛太郎は浜で見送ると、また日常に戻っていった。


 早舟というが、この時期の船は全ていわゆる和船でり、帆も使うが櫂走船であることは既に書いた。両側に櫂を並べ、漕ぐ。ひたすらに漕ぎ続ける。そして海流に乗っても交代で漕ぎ続ける。これが早舟である。

 因みに早舟をその櫓の数から八丁櫓といい、口八丁手八丁の語源にもなっている。

 櫂走船は、漕ぎ方にもよるが、基本的に揺れるものである。それも、恐ろしく揺れるものである。しかも、櫓の数が増えれば増えるほど、その息が合えば合うほど、上下動は大きくなる。そこに波の揺れが重なり、早さだけを求めるため海流を探してそれに乗り続けるべく、舳先の水先案内人が梶へ右だ左だと指示を出す。実際、潮の流れは少し慣れれば見えるものである。

 その結果。

 勿論草太はおろか他の二人も船酔いをするが、早舟である。当然一人が漕ぎ続けるわけではないが、汗をふき塩をなめ水を飲み、そうして次の交代に向けて休むだけである。時折、はねた水が船底にたまってきたのを桶で外に捨てるだけである。船に酔っているものがいるからといって介抱をするものもない。ただ落ちないように縄で船の柱に体を結えてあるだけである。ただ、一人に一つずつ桶が宛がわれ、吐くならそこへというだけであった。

 馬は、不思議と酔わないようで、三頭とも足を折って座ったり、時折飼葉をはんだり水を飲んだりする程度であった。

 

 そうして尾山(現在の金沢)についたのは、夕方であった。速度にすると平均時速13kmほど、7ノット程である、と書くとそれほど早く思えないかもしれない。しかし、比較のためにアヘン戦争(1840年代)当時の帆船の速度が3.5ノット程度であり、しばしば帆が折れたり転覆したりするという、安全性を犠牲にしてまで速度性能を追求したクリッパー型が登場するまで、「時速7ノットは不可能」とさえ考えられていたことを考え合わせると、それを遡ること250年のこの時代の船としてのこの速度は、小型船であり沿岸のみを走る船、しかも櫂走船とはいえ、驚くべきものであるといって良い。


 余談ではあるが、江戸時代に行われた一種の和船のレースである菱垣廻船でも大阪-浦賀間を平均7ノット程度、樽廻船でも平均6.5ノットであったから、この早舟が格段に早いわけでもない。日本において船の速度が格段に上がるのは、明治維新後蒸気機関を使った動力船の登場を待たなければならない。

 因みに現代において、舞鶴・敦賀から北海道など向けのフェリーを運航している新日本海フェリーは平均約27ノット、巡航速度30ノットで文字通りすっ飛ばしている。30ノットで走っている時はデッキには出ることすら出来ない。時速50km強で走っている車の上に乗っているのと同じようなものであり、迂闊にデッキに出ると風で吹き飛ばされるためだ。船好きには、少しさみしい。


 余談が過ぎた。

 ともかく、草太たち三人と三頭は、無事に尾山につくことが出来た。如才のない弥次郎兵衛が、青い顔をしながらも宿をとりにいき、ほどなくして戻ってきた。いくらか握らせたのであろう離れで馬の世話もできる宿を取ったのは流石であった。


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