百四十八、比叡山延暦寺
草太たちを京へと招いた勅使の来訪、及び京への道の途上、比叡山延暦寺に立ち寄ることとした次第については既に述べた。
その比叡山延暦寺で出迎えの使僧として待っていたのは、久方ぶりに見る興仙であった。無論、興仙がいるとは草太たちは思いもよらなかった。しかし、ここまですぐに比叡山延暦寺の座主応胤法親王に面会できたのは、実のところ興仙の尽力によるものであった。西洞院時当が出来たのは、草太たちの先触れを努め、そして面会の日時を確定させただけであった。
とはいえ、おそらくは興仙がいなくても草太たちほどの国力を持っていたならば、面会の日取りが数日から十日ばかり遅れただけで、会う事は出来たであろうが、それでも興仙の下準備があった、ということがこの会見をより実りあるものへとしたのであった。
姉小路家日誌天文二十四年弥生五日(1555年3月27日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、坂本の街にて比叡山延暦寺の座主応胤法親王に謁し候。応胤法親王もさるものなれども公には敵わず、公の頼みに応じ僧兵を京の治安維持に派することを約し候」
姉小路家の戦略の大きな特徴の一つとして、時に応じて巨大な宗教勢力を取り込むことが挙げられる。比叡山延暦寺、当時の宗教勢力の最高峰の一つであるが、この取り込みも姉小路家だからこそ行いえた、といっても過言ではないかもしれない。
また、当時の宗教勢力の中では比較的穏健派であり比叡山近辺からその勢力をそれほど伸ばすこともなかった比叡山延暦寺が、畿内に限定していたとはいえ武家勢力に与するのは、特に既に一向宗加賀派を取り込んでいた姉小路家に与するというのは、中々興味深い話である。何より一向宗と天台宗は、というよりも宗教勢力同士は多かれ少なかれ対立関係にあり、浄土真宗の本流の一つではあるながらも過激派である一向宗と天台宗の総本山である比叡山延暦寺はしばしば武力対立さえ起こしていた。いくら一向宗から分派したとはいえその一部であった加賀派、それを取り込んだ形となっていた姉小路家に比叡山延暦寺が協力するのは、おそらくは驚天動地のことであったと思われる。
もっとも、当時の宗教勢力としては最も穏健な一派である比叡山延暦寺であるからこそ対立勢力を擁する姉小路家との協力関係の構築をすんなりと結べたのかもしれない。
とはいえ最も過激な一派である後の日蓮宗の不受不施義派のように、姉小路家でさえ弾圧する一派さえ存在するのだから、さしもの姉小路家も宗教勢力を全て受け入れたわけでもなかったようである。
草太が渡辺前綱に兵を京の双林寺に入れるように命じた後、平助、弥次郎兵衛と小物二人を引き連れ坂本の街に入ったのは弥生六日の朝のことであった。相変わらず忍び旅は平助が武者修行の武士、弥次郎兵衛が平助を護衛として雇った商人、草太が平助の弟子という態を装い、小者は弥次郎兵衛の雇った人足という役回りであった。今回の旅は堅田から坂本の街へ入り、山科を経て京へ入る旅程であった。危険は全くないとは言えないが、草太自身はそれほど危険を感じることはなかった。沖島牛太郎の手の者により六角家が軍を動かそうとすれば分かる程度には諜報体制を敷くことが出来ていた上、少数での暗殺であれば平助がいればそれほど危険はなかったためであった。夜盗の類であれば、数が少なければ草太だけですら充分であった。
草太が危惧していたのは、その道行よりも比叡山延暦寺という存在であった。単に武力を持った集団としての、地侍と同様の見方をするのであればそれほどの脅威はなかった。少なくとも六角家や浅井家、朝倉家よりも楽な相手であった。しかし問題は比叡山延暦寺が寺社勢力の雄であり、一向宗と同様の形でその力が噴出するとなれば、問題は大きくならざるを得なかった。
厄介なことはもう一つあった。
京、奈良から摂津を中心とした地域は食料生産能力に比べて人口が非常に多い土地であった。当然のことながら周辺だけでは足りず日本全国から食料を中心とした物資が輸送されてこなければならなかった。なぜこれらの地域には物資が集まったのか、という部分の一部に寺社勢力が絡んでいた。
簡単に言えば、日本全国にある朝廷、公家、有力寺社などの荘園から物資が上納という形で京、奈良などの地域に持ち込まれ、それを売却し現金化する際に放出される食料などがこれらの地域が何とか飢えから救っていた。草太は物資の流れを知った後、単純に攻め滅ぼすという手段は、完全に悪手であろうと考えていた。京近郊への食糧などの輸送態勢を整えなければ、比叡山延暦寺の無力化は飢えを招く可能性が高かった。それでも貴族や他の寺社への上納で飢えは回避できるかもしれなかったが、希望的観測を持ち込むのは難しかった。失敗したならば多くの民が飢えるためであった。
京近郊で戦乱が頻発しても何とか暮らすことが出来る、というカラクリは、結局は戦乱の当事者が寺社勢力や朝廷、公家をほとんど相手にせず、それらへの上納という形をとった流通が機能していたために過ぎなかった。草太はこの事実のために、寺社勢力を破壊することには慎重にならざるを得ないと考えていた。
比叡山延暦寺に対しては味方となるように促す方策を考えなければならなかったが、それを強制するほどのことは中々難しかった。交渉が長期にわたる可能性も視野に入れつつも草太は坂本の街に入った。西教寺で比叡山延暦寺の座主応胤法親王に謁することとなっていたが、坂本の街に入るなり老僧に声をかけられた。
「草太、平助、それに弥次郎兵衛、久しいの」
見ると興仙であった。草太と平助にとっての師匠であり、かつて意見の相違により別れたきりであった。立ち話も、ということで付近の茶店に入り、そのまま奥の間に通ったのを見ると興仙は最初からここで話をするつもりであったようだった。
「なに、今日はいつぞやと同じく、お主らを案内するだけじゃ。もっとも、鞍馬寺の僧正を辞める、そのために比叡山に上っていたのだがな」
草太はこの話は初耳であり、思わず聞き返した。すると興仙は笑って言った。
「儂が一体いくつだと思っておる。八十はとうに越え、もう良い年じゃ。故郷に帰ってそろそろ隠居しようと思うわ。……なに、故郷は安芸だ。時々は上京するかもしれぬがの」
草太が尋ねた。それは足利将軍家についての目論見が姉小路家によって潰えたためか、と。しかし興仙の返答は否であった。
「目論見が一度や二度潰えた程度で故郷に帰るほど若くはないの。安芸でも策は出来るでの、単に年齢並みに故郷に帰ろうと思った、それだけじゃよ。それよりも、じゃ」
興仙は話題を変えた。興仙の見立てでは草太が比叡山に来た目的は姉小路家と比叡山、ひいては天台宗の協力体制を確立することにある、と考え、その下準備をしていた、と言った。
「当然じゃがな、門前町、それに周辺を含めた荘園についてはそのままにしておいてもらう、というのが最低限の条件じゃの。六角家が近江でやっておるような、大々的な制限をかけるような真似をせなんだら、協力体制の構築の目はそれなりにあるの」
弥次郎兵衛が口を挟んだ。
「和尚、すこし虫の良い話ではないか。どの程度の協力が得られるかもわからぬのに、そちらの権益は認めよ、というのは」
「よせ」
草太は一言で制止した。当然弥次郎兵衛も比叡山延暦寺との協力体制の構築という意味は分かっていたはずであり、どの程度の協力関係を結ぶかについては興仙が決められるような話ではないことも分かっているはずであった。興仙に言っても始まらない話でしかなかったのだ。
「それで興仙僧正、門前町と荘園、その辺りが比叡山延暦寺の要求、と考えて良いのですか」
この草太の確認に興仙は、大筋ではそうだ、と答えた。範囲を決める必要はあるが、門前町、それから荘園については認める、と草太の腹は決まった。それでどの程度の協力を得られるか、どの程度の範囲とするか、どういう位置におくか、というのだけが問題であった。思案顔の草太に興仙は言った。
「これ以上は、儂がどうこう言えるような話ではない。儂が納得しても座主が納得しなければ無理だからの。だが御山の連中は自分たちの利益に対しては強かじゃ。自分たちの影響力についても理解しておる。交渉相手としては厄介と言えば厄介じゃの。……そろそろ時間が迫っておる。移動した方がよいな」
興仙に促され、草太たちは西教寺に向かった。坂本の街は流石に比叡山延暦寺の門前町であり、道行く人には僧侶が多かったが、僧兵と思しき僧も多く、また牢人であろうか武士も他の街に比べて多い印象があった。
西教寺の奥の院の一室で草太は比叡山延暦寺の座主応胤法親王と面会した。応胤法親王に挨拶をした後、草太は単刀直入に言った。
「座主、我らは比叡山延暦寺とは争いたくはありません。同盟とはいえぬものではございますが、我らに合力してはいただけませんか」
合力のう、と応胤法親王は言った。
「具体的にどういう合力を望んでおるのかのう。それがなければ我らも返答のしようがない。それに御山のことは御山が決める。当然じゃが、愚僧をどう説き伏せても比叡山延暦寺が姉小路家の国人衆になるなどという事はあり得ぬ。そこのところは諦めてもらおうかの」
草太は、そうなるのは百も承知であったが、同時に腹案を開陳した。
「比叡山、御山についてはもとより我らは手を入れるつもりはありませぬし、どこかの勢力と呼応して戦、という段でもなければ排斥も攻撃もせぬと断言いたしましょう。その上で、でございます。他の地域と比叡山周辺だけが隔絶した制度というのは、やはり具合が悪い。寺領を管理する別当辺りを国人衆相当の待遇とし、比叡山延暦寺への合力を主任務とさせる形にするのが宜しかろうと考えております。無論、少なくとも近江にある寺領を減らす、という考えはございませぬ。また別当の任免は、余程でなければ御山が決める、という辺りでは」
目的は何じゃな、という応胤法親王の言葉に、草太は言った。
「簡単に言えば京の治安をお任せしたい。無論比叡山のみに任せるつもりはございませぬが、僧兵の力、それをお貸し願いたい」
「それならば、拠点が必要じゃの。今もいくつかは寺があるが、それでは足らぬだろう。寄進を願えるかな」
応胤法親王は揺さぶりをかけてきたが、草太は全く動じなかった。
「よいでしょう。拠点とすべく京に寺を寄進も致しましょう。その程度であれば易きことにございます」
応胤法親王は更に踏み込んできた。
「ならば姉小路家は今後一切、一向宗加賀派と手を切り天台宗のみを是とせよ、ということであればどうだな」
しかしこれには草太はきっぱりと言った。
「一向宗加賀派は特に乱も起こさぬ者たちなれば、禁教とすることはありませぬ。天台宗も同じでございます」
話しながら応胤法親王は、この姉小路房綱、いや草太という人物を測っていたが、その器は相当大きいようであった。通常の戦国大名も皇族であり天台宗座主である応胤法親王の前で対等に交渉ができる人間は少なく、その意味でも確かに飛騨半国もないところから百万石をこえる地を獲得できたというのは偶然ではないようであった。
この後も少しの話が続き、応胤法親王は今ここで最終的な結論は出せぬがと前置きしつつもいくつかの結論を出した。一つは京の治安維持であるが、これについては僧兵を出すことで合意した。二つ目としては姉小路家との不可侵関係の構築であるが、これについても合意に至った。全面的な攻守同盟を草太は願っていたが、流石に応胤法親王はそこまで踏み込むのは当面は避けたいと考えていた。全面的な攻守同盟であれば、姉小路家と六角家や三好家の抗争が起った際には比叡山延暦寺も兵を出す必要が出てくる、その可能性があったためであった。僧兵は確かに強いが、六角家と正面からの戦いをするほどの数はいなかった。
この他、国人衆待遇云々は姉小路家が京近郊を制圧した後に結論を出すこととし、会談は終わった。




