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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第五章 混迷と混乱と
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百四十七、京へ

 長良川の戦い、そこに極秘裏に参戦した姉小路軍の帰還を見、その指揮をしていた市川大三郎の報告を聞いた直後、朝廷からの勅使を受け草太が京へ上ることを決意した次第については既に述べた。

 草太が宮部城に帰還したのとほぼ同時に先触れが来、勅使が来たのは偶然なのか、それとも朝廷側がそうなる様にしたのかは定かではない。だが軍勢を引き連れての上洛という意味では一年半前に引き続き二回目の上洛、それがこの勅使来訪をきっかけに実現したのであった。



 姉小路家日誌天文二十四年弥生五日(1555年3月27日)の項には、こうある。

「姉小路房綱公、兵五百を率いて上洛、双林寺に陣をとり候。公、京の現状を見て大いに嘆き候。(略)朝廷に参内し従三位に上り、ただ特に望みて官途は飛騨国司のままとされ候。一条房道公、公に京の防衛を依頼し候処、公諾とするも足利将軍家をこそまずは頼るべきと仰せられ候」

 姉小路家の他の戦国大名との最大の違いは綿密な根回しと周到な準備にあるが、この時期の姉小路家は綿密な根回しに欠ける面がみられるようになる、というのが通説である。ここまでは主体的に動いていた姉小路家は、この時期は何かの問題でも抱えていたかのように根回しを忘れてしまったかのような行動が目立つようになる。その筆頭に挙げられるのが長良川の戦いであり、国境に兵を集結させた段階で長良川の戦いの決着がついてしまい空しく解散したのみ、という事例であり、もう一つがこの上洛である。少なくとも、かつての姉小路家であれば足利将軍家に一言もなく上洛することなど考えられなかったであろう。

 原因としては、一つには姉小路家の軍事力に対する過信が挙げられ、もう一つは国土が広がったことによる作業量に対する人材不足の影響が挙げられる事が多いが、明らかではない。

 無論、連絡を取っていなかったとは言わない。この上洛の直前に後藤帯刀が将軍足利義輝に拝謁したという記録もあるが、足利将軍家との仲が拗れる原因として挙げられることが多いのが、この上洛である。もっとも、拗れた後に出された書状などを見ても、足利将軍家がこの上洛を問題視したことは一例も見当たらないため、これが原因にはなっていないことは充分に考えられることではある。



 姉小路家に勅使が来た翌日、勅使を送り出したのは正午を回るころであった。早速草太は評定を開催すべく武将衆を集めた。

 その夜、評定の間には草太、平助、弥次郎兵衛、後藤帯刀、渡辺前綱、服部保長、滝川一益らであり、若狭より報告のために来ていた木下藤吉郎と内ケ島氏理もこの評定に参加していた。評定を始める、という草太の宣言の後、簡単に弥次郎兵衛が評定の議題について述べた。

「知っての通り、勅使として山科卿、西洞院卿が参り、上洛の要請をして帰った。本日の議題はその上洛について、実行の可否と何を目的とするか、だ」

 この弥次郎兵衛の言葉に、言下に言ったのは渡辺前綱であった。

「遠慮せず上洛をすべきではないか。現在のところ佐和山城付近で六角家との間に緊張が高まっているとはいえ、国境付近は概ね平穏だ。上洛についても帝の要請に基づいてのことだから道中は安全だろうよ」

「とは、簡単には行くまいよ」

 と制止をかけたのは服部保長であった。

「確かに京への往復だけなら問題は少なかろう。だが最近京から堺にかけてはきな臭い。大は三好、本願寺、それに大和国人衆から小は野武士の類まで、全体にな。……悪く考えれば京にいる間に襲撃を受ける、その可能性を否定できぬ」

「だが行かぬという法もないだろうが」

 こういったのは後藤帯刀であった。

「御屋形様、御屋形様が討たれては姉小路家は分解してしまうでしょう。ですが行かぬのも問題でございましょう。また朝廷から何の無茶を言われるかわかりませぬ。誰かを名代に立て、やり過ごしてはいかがでしょうか」

 その名代に後藤帯刀を、という事であろうが、草太は飛騨入国の際の名も知らぬ身代わりの少年を思い出していた。顔すら覚えていないが、草太の身代わりとなったその少年のことを。草太の危険を避けるためとはいえ、誰かを身代わりにして身を守る、というのは御免であった。

「後藤帯刀、身代わりは要らぬ。これは私のわがままである、というのは承知しているがな。……襲撃を受けるにしても受けないにしても、兵を引き連れての上洛ならそれほどの危険はあるまい。京近辺はそこまで危険な地になっておるのか」

 しかし、という後藤帯刀を制して草太は言った。

「比叡山延暦寺に誼を通じておけ。一向宗が一揆を起こすとすれば対抗勢力としては比叡山延暦寺ならば、あの一帯に限っては力があるはずだ。万が一京から落ちるとなり比叡山延暦寺が敵に回るにしても、京の北鞍馬寺は我が庭、大原の里からの間道を通れば琵琶湖西岸までは難なく通ることが出来るだろうし、北近江まで逃げられれば問題はなかろう。問題があるとすれば京の政界がどうなっているか、という辺りか」

「そのことでございますが、朝廷と足利将軍家の仲が拗れておるようでございます。元々がさほど仲が良かったとは言い難かったですが」

との弥次郎兵衛の発言に滝川一益が尋ねた。

「何があったのだ」

 何も、と弥次郎兵衛が言った。

「おそらくは足利将軍家が越前に去り、京が最後の守護者を失ったがために混乱の収拾がつかなくなった、という辺りではありませんか。前から朽木谷御所という京都からは少し離れた地に将軍足利義輝様はおり、何度か戦をしては京を全面的に奪回するまでには至りませんでしたが、それでも京への武家勢力の大規模な侵入や新たな将軍の推戴を許さぬほどの力はありました。しかしそれすらなくなった京はかなり危うかろうと推察されます」

 渡辺前綱が、よく分からないという顔で言った。

「居なくなって庇護がなくなったことを逆恨み、という事ですか。なんとも言い難いですな。という事は今回の要請も」

 服部保長が引き取って言った。

「であろうな。足利将軍家に代わって姉小路家に京の守備を要請されるのであろうよ」

「問題は足利将軍家は京を奪回した直後に戻る、というつもりであることだな。……いずれにせよ御屋形様、将軍足利義輝様にこの件について一報を入れる必要がございますな」

 後藤帯刀のこの言に、草太は命を発した。

「後藤帯刀、我が名代として将軍足利義輝様に拝謁し、事の事情を通しておけ。弥次郎兵衛、この度の上洛、琵琶湖西岸を通るが、途中比叡山延暦寺に立ち寄ることが出来るよう、可能であれば座主とも会えるよう手配をしておけ」

 命を受けた弥次郎兵衛は少し考えて、そして言った。

「天台座主が今誰か、ご存じでございますか」

 ふと草太は、誰が座主をしているのかが分からないことに気が付いた。

「応胤法親王というお方でございます。今上陛下のご猶子でございますよ。おそらく、面会の申し入れは京の公家から働きかけた方が早かろうと存じます。……で、御屋形様、どうなさるのです。何って京の防衛を依頼された場合の対応にございます。どうなさいますか」

 草太は少し考え、そして言った。

「民のためだ。受けようと思う」

 この発言に草太の根が揺らいでいないと安心したのは弥次郎兵衛や平助だけではなく、内ケ島氏理もその一人であった。


 評定も終わりとなって、他に議題や報告のあるものはあるか、という言葉に内ケ島氏理は言った。

「内ケ島家一党、若狭への移転を完了し木下藤吉郎と協働しての丹波攻めの支度、整いましてございます」

 草太は木下藤吉郎とその与力はすべて内ケ島氏理の与力とすることとした命令を改めて発した。そして言った。

「木下藤吉郎、そなたは少し身の安全を考えて行動せよ。暫くは内ケ島氏理について丹波路攻略に精を出すのだな。……独り身ではないのだからな」



 そして慌ただしく日が過ぎ、弥生三日(3月25日)に後藤帯刀が越前入りし、府中城にて将軍足利義輝に拝謁したのであった。

「後藤帯刀か、久しいの。して何用か」

 先触れを入れていたためか、到着後即座に拝謁が許された。

 実は、と後藤帯刀の言葉を聞き、京の治安維持のための兵を出すというくだりになると将軍足利義輝は怒った。

「なぜじゃ。なぜそのことを儂にいわなんだ」

 傍らにいた細川藤孝が言った。

「御屋形様、京の治安は我らの手には余っておりました。ただ最後の箍、その一つであったのは確かであろうと思われます。我らが越前に来たために京の治安が乱れた、というのは正しくはないでしょうが、我らの帰還の邪魔をしたのも朝廷や公家達なれば、ある意味では自業自得かと」

 そういう話ではない、と将軍足利義輝は言った。

「我らと公家達の確執はひとまずおけ。それで民に無用の困窮を与えたというのは、将軍家としてはあるまじきことだ。事は我らと公家達の間でなされるべきなのだ」

 きっぱりと言い切ったが、足利将軍家には京の治安維持をするどころか越前一国ですら姉小路家の支援なしには維持するのも難しいのは、事実であった。

「治安維持については、我らの力が及ばぬ。それゆえ、当面はそちらでやってもらって構わぬ。ただいずれ京へ戻る。その際に返してもらえればそれでよい」



 後藤帯刀が復命した弥生五日(3月27日)、草太は宮部城を出立した。供回りは、一鍬衆三百、中筒隊百五十、補給隊及び医療隊五十の合計五百であり、供回りは琵琶湖西岸を南下し六角家の領域に近付かぬように京へ入ることとされたが、草太たちは比叡山延暦寺の座主応胤法親王との会談のため坂本の街に行くこととした。通常は応胤法親王は坂本の街に住み、用があるときだけ山上に上る、という生活であったためであり、西洞院時当を介して面会を申し入れたのであった。

 坂本の街につくと、意外な人物が草太たちを出迎えていた。それは興仙であった。

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