百四十六、長良川始末
美濃斎藤家の親子喧嘩、その果てに起こった長良川の戦いについては既に述べた。
姉小路軍は兵共に数名の負傷者が出た以外にはほとんど欠けるものとてなく、しかし一方で姉小路軍がそこに存在したということを知るのはごく一部の者に限られた。
美濃斎藤家にとって重大な事件であった長良川の戦いは、一方で尾張織田弾正忠家、織田信長にとっても重大な事件であった。織田信長はこの時、家中の大部分が弟である織田信勝を支持し、他の岩倉、清州の両織田家も織田信勝を支持したうえ、更に有力な後ろ盾であった美濃斎藤家の庇護さえもなくなり、かなり危険な状況にあった。実際、織田信勝の反乱には自身の付家老であった林秀貞さえも参加するなど、家中の支持はほとんど得られなかったが、それでも一年半ほどの抗争の末に最終的には織田信勝を打倒して尾張を統一したが、姉小路家の活動とは当面は関係がないため、稿を改めることとしよう。
このように長良川の戦いは美濃のみならず尾張にも少なからぬ影響を与えたのであるが、美濃国内においても無視できない影響があった。その影響は多岐にわたるが、大きく言えば二つの影響であった。一つは明智の庄を遠山家が、大野郡大御堂の里を不破光治が、それぞれ攻撃したことに端を発する国内の一時的な不安定化であり、この際に明智の庄は壊滅、明智光安以下の土岐家支流の有力国人、明智家は滅亡し、大野郡大御堂の竹中家は不破光治の攻撃を退けたものの斎藤義龍へ膝を屈することとなった。もっとも、竹中重元と不破光治の確執は遂に止むことがなかった。
もう一つは、斎藤義龍がその父斎藤道三を有力国人衆の力を借りずに打倒したことで、美濃における斎藤家の求心力が向上したことであった。斎藤義龍は長良川の合戦以後蜂須賀小六との仲を深め、また川並衆を中心とした勢力をもって美濃国人衆を纏め上げていくのであり、そこには膝を屈することとなった竹中重元も例外なくその支配体制に組み込まれていったのであるが、そのことについては後の話でありまた語る機会もあるだろう。
姉小路家日誌天文二十四年如月二十八日及び三十日の項にこうある。
「姉小路房綱公、美濃との国境に兵を集め、万が一に備え候。(略)公、美濃よりの兵を見、安んじて戻られ候」
姉小路家が長良川の戦いに対して確実にとったと考えられる行動は、美濃との国境に兵を集結させたこと、これのみである。美濃よりの兵を見、というのが何を指しているのか、物見なのか、それとも斎藤義龍の軍使であったかは定かではない。ただ、姉小路家が兵を美濃に入れていたというのは現代では否定されている。美濃風土記など他の資料をみても、姉小路家が近江と美濃の国境に兵を集結させたという旨の記述はあるが、兵が美濃に入ったという記述は見当たらないためである。むしろ、不破光治が竹中重元を攻撃したことからも分かる様に、不破光治も姉小路家の美濃入りをしていると考えると不自然な行動をとっているのである。
長良川の戦い、その一局面として明智光安隊と戦闘した市川大三郎は、即座に兵を纏め、三々五々分散して近江へ戻るよう手筈通りの行動をとった。長良川での斎藤義龍と斎藤道三の戦いに物見を出し詳しい事情は探らせていた。その情報により、既に斎藤道三打倒という任務は達成されたと市川大三郎が判断したためであった。
市川大三郎は、策動という意味では自分はまだまだ能力が不足していることを痛感しながら、報告のために第一陣として帰還した。その市川大三郎を迎えたのは、米原に陣をとった草太たちであった。
「御屋形様、市川大三郎、戻りました」
うむ、と草太が返した。無論、幕屋の周辺は人払いをしており、草太の他、平助、滝川一益、渡辺前綱、後藤帯刀が詰めていた。服部保長の報告により既に長良川の戦いの概略は草太たちも知っていたが、それでも草太は報告を聞くことにした。
「ご苦労であった。して美濃での首尾はどうであった」
市川大三郎が長良川の戦いの一部始終を語ると、草太は、そうか、と一言言っただけであり、沈黙が流れた。滝川一益が助け舟を出した。
「市川大三郎、美濃での情勢は我らも知らぬではないが、それを語ってもらえるのはありがたい。だがな、他にも語るべきことがあるであろう。……我が方の被害と、姉小路家の関与を悟られたかどうか、だ」
市川大三郎は合戦での味方の被害についてはよく知っていた。明智光安隊約百、それも鉄砲隊も弓隊もほとんどいない雑兵を一鍬衆と中筒隊の混成部隊七百で迎撃したため、被害らしい被害は、数名の負傷者を除けばほとんど見当たらなかった。その旨を伝えた後、市川大三郎は言った。
「我らが存在を気取られたかどうかにございますが、某の知る範囲では気取られずに済んだはずにございます。流石に三間槍と中筒、という編成上、明智光安には気取られたやに思いますが、明智光安の討ち死には確認してございます。おそらく斎藤家の事情を知らぬ国人衆にとっては、蜂須賀党の仕業、と見られていると思われます」
草太はふと眉を上げた。
「明智光安、討ち死にとな」
「は、合戦の最中突出し、討ち死にしたものと思われます。合戦後の治療の際に判明いたしました」
市川大三郎は、姉小路家の戦後処理としては当然のこととして行った敵味方ない負傷者の治療、そのなかで明智光安の遺体を発見したことを簡潔に報告した。これに対して草太は、一言ご苦労であった、と言い、特にそれほどの被害も民に対する圧迫もなかったことを重畳として、そして言った。
「服部保長の報告には、明智の庄を遠山家が襲う気配があるという。また不破光治と竹中重元の確執が高まり、いつ衝突が起こってもおかしくないと考えられる。斎藤義龍殿がどこまでで内乱を抑えるか、それが問題だな」
そう言うと草太は今度こそ、報告ご苦労であった、下がってよい、と言った。
市川大三郎が退出した後、草太は美濃の内乱に干渉すべきかを諮ったが、草太自身は干渉すべきではないと考えていた。斎藤義龍がどうにもできないならば別であるが、そうでなければ内乱はその鎮圧の過程で斎藤家の求心力を増すであろうが、そこに姉小路家が軍を出したという事であれば逆効果になるであろうことは明白であり、一つ間違えれば姉小路家と美濃斎藤家の間に戦端が開かれる可能性さえあった。
後藤帯刀らも同意見であり、他国には必要以上に干渉すべきではない、というのがその理由であった。
こうして姉小路家にとっての長良川の戦いは、兵員の収容がまだ完了していないが、事実上集結した。
草太が米原の陣を引き払い宮部城に帰還した直後、朝廷より勅使が来た。草太は早速衣冠装束を整え勅使に謁した。用向きは、早く言えば朝廷に参内せよ、という上洛を促したものであり、また御所修繕のための寄付を募るものであった。上洛はともかくとして御所修繕の費用については草太はその場で確約した。
その夜、宮部城で草太は勅使の接待を行った。勅使は、正使が山科言継、副使が西洞院時当であった。西洞院時当が言った。
「息災でございましたか。いや、大変なことになっていたのは噂では知っておったのですが」
草太は、ご存じとは思いますが、と言いながらここ一年の概略を語った。噂では知っていたとはいえ、西洞院時当のみならず戦国大名とも付き合いの深い山科言継でさえも軽く驚くほどの内容であった。一年と少しで能登攻略から加賀、若狭、近江を切り取り、更に越前に足利将軍家の御料地をつくった、などというのは、いささか以上に侵攻速度が速かったためだ。しかもそれぞれの地で内政を疎かにしたというわけでも、単に攻め寄せただけで支配権が確立していない、という訳でもなく、今のところはさして大きく支配が揺らいでいる地域は見当たらない、というのも事前に確認した通りのようであった。
一年間の概略を聞き、かなり役目違いであるが副使とされた西洞院時当は、草太の上洛について一条公から頼まれた、と言った。つまりは一条公が何らかの用があるため京に顔を出すように、という話なのであろうと考えられた。その用までは、西洞院時当も知らされていなかった。
「一条公だけではなく二条公、近衛公らも噛んでいる。おそらく五摂家全体が噛んでいるようだが、何処までかは分からぬし、いかなる考えがあるのかも知らぬよ。ただ、五摂家が結集していかに官位があるとはいえ朝議に参内せよと命じるのは、異例という程ではないが珍しいことだ」
畿内の状況は安定していなかったから、参内するのであれば早いうちに行うことと促され、また草太は山科言継から畿内及び京近辺の詳しい事情を聞くことが出来た。その中で気になることを山科言継は言った。
「あくまで噂にすぎぬがな、今上陛下がその旨を命じた、という話さえある。また、足利将軍家と朝廷の確執もない訳ではない。古来より歴史を紐解けば、足利将軍家が力を失ったことを姉小路家で埋め合わせるつもりなのかもしれぬ。我らのような下級貴族には分からんがな」
「何故にございますか」
草太の質問に、山科言継は答えた。うん、と質問の意図を測りかねた山科言継であったが、推測で良ければ、と話をした。
「今上陛下はそろそろ病気がちでな、上級貴族たちも含めて次の代への譲位も視野に入っておる。そのための費用がな、掛かるのだよ。台所事情を勘案すれば、その費用を負担させる、という辺りだろうな」
草太は不思議に思った。どれほどであっても式である。隠居をし隠居所を用意するにしても屋敷のみである。それほどの費用がかかるとは思えず、また朝廷がそれを捻出できないとは考えにくかった。その辺りを聞くと、山科言継は言った。
「十年だ」
何か、という草太に山科言継は続けて言った。
「先帝、後柏原天皇が崩御され今上陛下が位についてから、即位の式をするまでの期間だ。朝廷の権威もなにもなく、単に儀式をするだけで十年という歳月がかかるのだ。これに隠居所を作るとなれば、あきらめざるを得ぬよ。強力な後ろ盾が、例えばかつての足利将軍家のような後ろ盾がなければな。そこに姉小路家が関わるという事であればそれに越したことはない、というのは台所を預かる身としては思う事ではある。……真偽は不明だがな」
とにかく朝廷の呼ばれたということは、京までの往復での危険はかなり去ったとみて良かった。草太は近江での兵の訓練と物資の集積にも時間がかかることからそれらを任せ、京へと向かうこととした。




