百四十、使者来訪
斎藤義龍が斎藤道三の策に対応する形で策を練り、斎藤道三も策を実行に移すべく明智光秀と接触を図った次第については既に述べた。
両者とも、こまごまとした策の応酬がありつつも、斎藤義龍は埒が明かぬと姉小路家に援軍要請をすることを決め、それを察知した斎藤道三も同様に姉小路家に援軍要請の使者を派することを決したのであった。そして明智光秀に授けられた斎藤道三の策に対する準備も整っていった。
姉小路家日誌天文二十四年如月十日(1555年3月5日)の項にこうある。
「姉小路房綱公に客有り。美濃斎藤家、道三方と義龍方の双方が同時期に参りたり。会わぬように工夫仕り、国境までは相手の存在すら知らぬ体を装い候。内容そのものは予測せしものなり、難しき事にはあらねども、いずこか一つのみ叶うべき事なれば、公、頭を悩まし候」
この時の使者が何者であったかは、残念ながら記録がない。なんとなれば、使者は一日か二日で往復できる程度にでしかなく、それが誰だったのか示す確実な資料は存在しないためである。
しかし使者の口上書きは残されており、概ね次のようなことがかかれていた。まずは斎藤道三の口上書きから読み取れるのは
一、息子義龍を駆逐し、守護代として女婿織田信長を養子として美濃一国を任せる事
一、土岐頼芸を呼び戻し、守護として奉ること
一、これらの暁には美濃は挙げて足利将軍家を奉じて佐幕の国となること
の三つに纏められていた。他にもこまごまとしたことは書かれていたが、柱として書かれていたのは概ねこの三点であった。
一方の斎藤義龍からの書状では次のようなことがかかれていた。
一、父殺し、父追放の汚名を着ぬため、斎藤道三の排除を頼むこと
一、土岐頼芸の美濃追放を解くこと。ただし南近江より常陸に寄寓しているため、美濃へ帰るのではなく将軍家お傍衆がより望ましいこと
一、尾張の国への今川の攻撃の際、壁として美濃は合力すること
実のところよくわからないことが多いのがこの経緯である。なぜ斎藤道三、義龍ともにほぼ同時に相手を倒すよう、姉小路家に持ちかけたのであろうか。しかも、そのうちの一方、斎藤道三については、この時期には鷺山城を居城としてたため姉小路家と境を接していたわけでもなく、今までも接点らしい接点もないため、斎藤道三の援軍要請もかなり唐突な印象を受ける。一方の斎藤義龍も父親を倒すこと自体は戦国時代では悪名の一つに挙げられることはあれどもさほど珍しいことでもなく、織田家との抗争は織田信長が義理の兄弟であるため、さして肉親を倒すことにためらいを覚えるほどのものではなかったと思われるのである。
美濃斎藤家からの事前折衝により、草太へ面会の申し入れがあったのは如月七日(3月2日)のことであった。
この時期、草太は兵の調練をさせつつ湖北地方を宮部城を中心地として支配体制を固める外、京からの移住者たちを近江だけではなく加賀、越中などへも移動させ、或いは一鍬衆など軍への雇用も積極的に行っていった。その大部分は氏素性も明らかではないものではあったが、草太はそれには構わないこととしていた。京から移転してきた者達とは京の貧民、それも飛騨まで行くほどの旅費も用意できないほど困窮していたものであったため、氏素性など明らかではなくて当然であった。
一度だけこの問題を指摘したものがいたが、平助が珍しく口を挟んだためにそれ以上の詮議は無用、となった。平助の発言はこうであった。
「それがし、高屋平助と高屋姓を名乗っておりますが、高屋村の農民の出でございます。それも、土地持ちとはいえ庄屋という訳でもありませぬ。十三の時には武士にならんと志して家を勘当され、姉小路家に仕えるまでの十数年を雑兵に交じって戦場にも出、また吉岡憲法の兵法所にも居りましたが、所詮はそれだけでございます。高屋村自体、戦で焼かれて既になく、母や兄も既に行方がしれませぬ。言ってみればそれがしも氏素性の明らかならぬものにございます。氏素性を言うのであれば、それがしも氏素性は明らかではございませぬ」
「それをいうならこの城井弥次郎兵衛も、親は知りませんからね。もっとも、城井弥太郎殿が身元を引き受けてくれると言えばいえますが、氏素性など詮索するのは野暮ってものです。心配なのは密偵の類ならば、そこにだけ目を光らせれば良かろうと思いますがね。どうせ京の貧民、ならば大体は氏素性など勿体ぶった者はないか、あっても隠すものでございますよ」
おそらく木下藤吉郎がいたとすれば木下藤吉郎も氏素性が明らかではない側の人間であったため同様のことを言ったであろうが、この平助と弥次郎兵衛の発言にはだれも反論することも出来ず、沙汰止みとなった。
兵力の増員は、ある意味では急務であった。中筒や投げ槍に代表される兵器はそれほど増加が難しいものではなかった。簡単に言えばそれらは材料を用意し製作する人間を用意すれば事足りる問題であるためであった。だが最も問題となるのは、何時の時代でもそれらを扱う人間にあり、ごく簡単な基本動作や基礎体力を身に着けるだけでも一月以上という期間が見積もられていたことを考えると、雇ったからといってそう簡単に戦力が増強されるかといえばそういうことはなかった。ただの飾りとしての兵ならば別であるが、一鍬衆等姉小路軍そのものと同様の「まともな戦闘行動」のできる兵を鍛え上げる、ということであれば、一月やその位の期間では相当に不足していた。
これは基礎体力や戦場に出た経験も充分にある人間でも事情は変わらず、姉小路家特有の、といっても良いかもしれないが、集団戦術や首級ではなく役割を果たし生き延びることを最重視する家風になじませるまでには、なまじ戦場の経験がある分だけ時間がかかった。
こうした軍事上の問題を解決しつつ、南近江六角家の動向を探り、伊勢北畠氏の威光が届いていないといっても過言ではない伊勢北部についての情勢を探らせていた。また、飛騨では一般的になりつつあった乾田の法を領内に大きく広めるべく、領内の諸方に試験的な乾田を作らせていたが、北近江でも事情は同じであった。まだ睦月の内であるから水門を開ければ済む、という問題ではなく、大抵の田は次の田に対する水路の役割も担っていたから、乾田の法を試験導入するのに必要な田を選定するのにも中々頭を悩ませる問題ではあった。特に支配者が変わってまだ一月以内という短期間では、あまりに強権を使うのは、一揆その他の問題があり憚られた。
この辺りの事情についてはまた別の項に譲るとして、ともかく美濃斎藤家から草太への面会の申し込みがあった。稲葉山城から宮部城までであれば普通に歩いても二日程度の距離であり、急げばその日のうちに着くことも可能であった。如月七日に面会の申し入れをして十日に面会する、というのは、日程からすればほとんど無理のない計画であった。問題は、面会を申し入れてきたのが美濃斎藤家の現当主斎藤義龍だけではなく、前当主の斎藤道三も同日に申し入れて来、更に使者が来る日として指定してきた日まで同日であったという点であった。
服部保長の調べた情報によれば、二人の仲は決して良くはなく、むしろ悪いということであった。単に争っても益がないために争わない、という理由が二人が実力行使による権力闘争をしない理由であると推測されていたが、草太は実は仲が良いのではないかと勘ぐっていた。なぜなら斎藤道三は六十に手が届く高齢であり、還暦故に、といって家督は譲ったものの、仲が悪いのであれば実権まで渡すような真似は絶対にしない、と草太は考えていたためであった。他に候補がいないのであれば仕方がないが、溺愛している次男斎藤孫四郎をはじめ、候補は何人かいた、
このために、二人が同日に面会を申し入れる使者を寄こし、同日に面会を希望したという事実それこそが、何らかの策ではないのか、と草太は考えてしまった。
「……どう思うか」
この疑問を服部保長に対してぶつけてみたところ、服部保長ははっきりと言った。
「確かに策でございましょう。しかしその中身までは分かりかねます。相手は策によって成り上がり美濃守護土岐頼芸殿を追放して美濃全土に対する実権を握ったほどの方。いかなる策かは、手前にも分かりかねます。しかし」
ここで少し言葉を切って服部保長はしばし視線が泳いだ後、言った。
「当家を狙った策ではない、とは思いますが、それが絶対にそうかといわれれば自信がありませぬ。斎藤義龍殿であれば斎藤道三殿との抗争という面があるため策の意味合いが分かりますが、斎藤道三殿の方は全く意味合いが分かりませぬ。美濃の主を狙ったものであれば、西美濃三人衆、東美濃の遠山一族、それにいわば子飼いの竹中重元殿、明智光安殿などに手を回せば、それで十分にことが足りまする。斎藤道三殿の女婿、織田信長殿も味方に呼び寄せることも出来ましょうし、銭次第では川並衆を雇うことも出来ましょう。少なくとも当家のような外部の勢力に頼む必要はどこにもございませぬ」
ならば、と草太は服部保長に尋ねた。
「姉小路家に使者、その意味は何かな」
「分かりかねます」
しかし、と服部保長は続けた。
「斎藤道三殿に与するならば、美濃全土を平定する、そのお覚悟で臨んでいただく必要がございますが、それはとりもなおさずその先の甲斐武田家、尾張織田家、三河を通じて駿河今川家に対する備えを要求いたします。一方で斎藤義龍どのに与するならば、斎藤道三殿の排除を手伝う代わりに得られるものは少のうございます。我らは単に手が汚れるだけ、兵が減るだけにございます」
いずれにせよ、使者が来てから軍議をし、その上で決めることとなりましょう、と服部保長は言った。
そして使者が来るという睦月十日になった。無論、斎藤道三、斎藤義龍の使者は相手がその日に草太の元を訪れることは知っていたであろうが、それでも草太は二人を合わせぬように、わざわざ国境沿いまで迎えを出し、一人は湖岸沿いの道、もう一人は山際の道、と道まで替え、また謁見する刻限もずらして対応した。
斎藤義龍からの使いは氏家卜全、斎藤道三からの使いは竹中重元であった。




