百三十七、若狭攻略
木下藤吉郎が一色家の舞鶴での挙兵の段取りをつけ、弟木下小一郎を連れて国吉城に戻った次第については既に述べた。
国吉城を見て、木下小一郎は案外と小城だと考えていた。なにより、清州城を見慣れた小一郎からすれば、姉小路家の諸城はほとんどが小城にしか映らなかっただろう。だが、その城主であるということ、それも相応に年齢を重ねた岸田常徳らの上座に自然に座るのを見て、確かに端武者ではない、と信じるに足り、この後木下小一郎は木下藤吉郎に随身したのであった。
だが、木下藤吉郎自身は、服部保長名義での書状を受け取り、その内容から自身の行動は常に把握されていたと知り、背筋が凍るような思いをした。とはいえ、増田長盛に同様の経験をさせたばかりであったが。
姉小路家日誌天文二十四年睦月十日(1555年2月2日)の項にこうある。
「一色家が旧臣、舞鶴にて挙兵仕り、これを鎮圧せんと武田信豊、逸見昌経が挙兵し候処、木下藤吉郎、一鍬衆二千五百を集め即座に動き、後瀬山城及び達城を攻略致し候。また武田信豊が一族は悉く捕らえ、逸見昌経及び武藤友益は降伏し、ここに若狭は姉小路家の手に収まり候。(略)、また一色家と同盟致し候処、一色義幸殿、今後は丹後を挙げて足利将軍家の幕下に付き候事を約し候」
この時期、姉小路家は浅井、朝倉両家を相手取っての合戦が続き、そちらが主戦場とされていたため武将衆も大部分が浅井、朝倉両家に対する行動に充てられていたが、木下藤吉郎達は若狭攻めの主軸としてこちらはこちらで行動していたのが読み取れる。この事実をもって姉小路家が武将衆の軍団化を推し進める、その試験運用として若狭武田家攻略戦が位置付けられていたと考える向きもあるが、軍団化が現実的に導入されたのは京及び周辺諸国を抑え、畿内をある程度掌握してからであるため、時期がかなり離れていることもあり、その意見に簡単に賛成することは出来ない。どちらかといえば木下藤吉郎の独断専行という向きが強かったと考えられるのである。
勿論、この独断専行が軍団化に向けての契機になったと考えるのは強ち間違いとは言えないが、それでも草太が主戦場に立たなくなるまでまだまだ時間がかかるのである。どちらかといえば、あまり重要ではない戦線を軍団に任せることが姉小路家では普通であり、特に大規模な攻勢に出る場合には草太が戦場に立つというのが士気の面で重要だ、と考えていた節がある。
基本的には草太自身が戦場に立つという事はその戦場では勝ちを収めるという事であり、逆に言えば勝つための準備が充分に行われて初めて大規模攻勢に出、そして勝つというのが草太の、ひいては戦国時代最強の一角と言われる姉小路家の、強さを支えていたといえるのではないだろうか。
戦えば必ず勝つという神話が成立するほどに実践し浸透した場合には、その神話そのものが、例えば士気を挙げたり敵軍の士気を下げるなどという形で力を持つ、そういうことなのかもしれない。
睦月九日(2月1日)夕刻、木下藤吉郎に報告が届けられた。舞鶴の地で一色家旧家臣団が挙兵、白井光胤率いる一軍と交戦中、後瀬山城の若狭武田軍は急ぎ救援に向かう模様、とのことであった。
即座に三方郡に散らせていた一鍬衆二千に参集を命じ、自身は守備隊から五百を抽出し、岸田新四郎隊千と合わせて千五百の兵を纏めあげ、遠敷郡の入り口で物見を多数放った。その一方で、朝まで待つ、三方郡に散らせていた兵が集まり次第、合流させるように、と坪坂新五郎に命じた。払暁までに参集が間に合った一鍬衆千を坪坂新五郎が率いて合流したころには、既に若狭武田家本隊が出陣準備を終え、先頭は既に出陣を開始していた。
若狭武田家当主、武田信豊は姉小路家が三方郡を抑えた後動かなかったこともあり、油断があった。勿論密偵は多数出していたが、その報告を総合すると兵は守備兵まで含めても二千から二千五百程度、籠っている武将も加賀一向一揆鎮圧時に降伏した、悪く言えば地侍に毛が生えた程度の将でしかなく、こちらへ攻め寄せようという様子もなかったためであった。そのため、急報に接した際にも三方郡から攻め寄せる兵はいないか、いたとしても数百程度であり後瀬山城を落城させるほどの兵力があるとは考えられなかった。
そのため、抑えの兵を若干のみ残し、ほぼ全力で一撃を蜂起した一色家旧家臣団に加え、一色家本隊との合戦は避ける形で鎮圧することを考えていた。逸見昌経、武藤友益にも出陣を命じる使い番を発し、自身も兵二千八百を率いて出陣することとした。ただ出陣までに時間を要すため、出陣は睦月十日(2月2日)とされた。後瀬山城に兵を入れていた達城城主本郷泰茂もこの陣に参陣した。
同じく睦月九日(2月1日)には逸見昌経、武藤友益に出陣を命じる使い番が来ていたが、逸見昌経は姉小路家が三方郡に入った直後に、武藤友益はその後しばらくしてから姉小路家に恭順の意を示していた。そして服部保長の諜報能力により木下藤吉郎の策を利用する形でこの二人に既に寝返りの手を打っていた。武藤友益は武田信豊と木下藤吉郎の勝者がいずれになるか見極めてから行動する、としていたが、地力が違いすぎるため、余程の勝利でない限りは姉小路家に下ることを考えていた。
そして睦月十日になった。
後瀬山城を出た武田信豊は小浜と宮津を結ぶ丹後街道を西へ進み、夕刻の少し前に、後瀬山城から三里ほどの地にある達城の城下に入った。この時点で物見の報告により、前方一里半、丹後街道を塞ぐ形で、逸見昌経率いる兵千五百が陣を敷いていると聞き、武田信豊は不審に思った。本隊との合流を考えているというのであれば分からないでもない。しかし陣を敷いているというのは不審であった。先陣を近づけようとも考えたが、それを実行する前に急を告げる使い番が後方より来た。後瀬山城が落ちた、とその使い番は言った。
「姉小路家の家臣、木下藤吉郎が兵二千五百を率いて俄かに攻め寄せ、後瀬山城、既に落城させられましてございます。武田義統様は捕縛された模様」
な、と武田信豊は驚いて言った。確かに百数十と兵の数は少なかったとはいえ、朝出発した際には姉小路家はまだ三方郡から一歩も出ていなかった。守備隊を残さずに全軍が出撃したとしても、半日も経たないうちに後瀬山城を落城させたというのは考えにくかった。まして嫡男の武田義統まで捕縛されたとは。すぐさま軍を返そうとした武田信豊に向かって、本郷泰茂は言った。
「かくなれば前方、逸見昌経は姉小路家か一色家かは分かりませぬが、既に寝返ったとみるべきでしょう。某の居城である達城に籠り、期を待ちましょう」
「期を待つ、とは何を待つのだ」
「将軍足利義輝公は嫡男武田義統様と義兄弟の間柄。ならば、足利将軍家に姉小路家との仲介を頼むことも考えられましょう。また、武藤友益殿の兵も合わせれば当面の防衛に兵を欠くこともないかと」
「仲介を頼む、か。仲介してもらえるかの」
武田信豊は猜疑心に囚われかけていた。武田信豊の半生をみれば、常に味方の裏切りと敗北に満ちていたところを見れば、仕方がないことなのかもしれなかった。一族であっても、否、一族だからこその反乱や内乱に彩られていた半生であった。しかしこの度の出陣には常に味方であった弟、武田信高が従軍しており、武田信豊を諫めて言った。
「このまま自力でどうにかできる状況では、既にございません。当てにならぬとしても、仲介を頼みに籠城策にでるのもやむをえないかと」
む、と武田信豊が悩んだ。悩まずに最初の献策の際にすぐに籠城策に出れば、或いはまだ面目を保つ目が有ったかもしれなかった。しかし、籠城策に決めきらぬうちに物見が後方から戻り復命した。
「姉小路家、その数約二千四百、こちらに向かって進軍中。既に距離半里を切っております」
三方郡から後瀬山城を落城させ、そのままこちらに向かったにしても、驚くべき速度であった。朝に出陣し夕刻までかけて達城の城下に移動した若狭武田軍の移動速度からすれば、もしや後瀬山城を攻略した部隊とは別に二千四百が用意されていたのか、と考えた。だが、それならば三方郡にいたはずの兵力とはかけ離れていた。
「どこだ、どこにいたのだ」
武田信豊が思わず口にした言葉に、物見は答えた。
「丹後街道を半里程東方でございます」
武田信高は瞬時に考え、そして言った。
「殿、いや兄者、全軍をもって達城に入る暇はなさそうだ。討ち死にを覚悟で足止めをする故、その間に落ちなされ」
「どこへ落ちよと言うのだ。おそらくは武藤友益にも手が伸びているだろうよ。この上は全軍をもって迎え撃つ。逸見昌経が動かぬことを今は祈るのみだな」
この辺りの呼吸は、流石に悪い意味で裏切られ慣れている、とでもいうのであろうか、武藤友益が寝返るであろうことをかぎ取っていた。
「前方半里、若狭武田家本隊は停止中にございます」
物見の報告に、ご苦労、とだけ返した木下藤吉郎は、半里ならば半時か、精々一時(二時間)ほどで追いつくか、と考えていた。
「日のあるうちに野戦に持ち込みたかったのだが、微妙だな。……と、小一郎、お主は後ろだ。輸送隊、医療隊と共にあれ」
木下藤吉郎は、弟木下小一郎に声をかけた。だが木下小一郎は動かなかった。
「初陣でございますから、兄者の采配を最後まで間近で見せていただきます」
ならば共にあれ、と言い、木下藤吉郎は全軍を駆け足から並み足に移らせ、戦いに向けて呼吸を整えさせた。そして坪坂新五郎に一鍬衆千を与え、谷を折れ海を背に達城攻略に向かわせた。物見の報告ではほとんど空城に近い、精々百数十も籠っていない城であったが千を与えたのは、短時間に力押しに攻め落とすことが必要であり、更にその後武藤友益が寝返らずに接近した場合に備えたものであった。
若狭武田軍が二千、木下藤吉郎隊千四百が佐和利川を挟んで対峙した。佐和利川は川幅こそあれども、冬のことであり深さはさほどではなかった。だが、冬であり、当然にして水は冷たかった。既に一度渡り、更に冬の日本海沿岸に延びる丹後街道を進みかけた若狭武田家の兵は、水に足を入れるのをためらった。弓隊が弓を射かけたものの、木下藤吉郎隊の投槍器による投げ槍の二連射で二千の兵のうち千五百近くが脱落し、更に陣が崩れた。ここを見逃す木下藤吉郎ではなかった。木下藤吉郎自身が率先して川の水に足を入れ、かかれ、と掛け声を上げれば、一鍬衆もよくそれに応えて深さこそないものの身を切るような冷たさの川を渡って突撃していった。
既に戦の帰趨は明らかであった。
瞬く間に一鍬衆は若狭武田家本隊を蹴散らかし、武田信豊を捕縛した。これは投げ槍が武田信豊の馬を貫き、倒れた馬に足を挟まれていたためであった。武田信高は更に武運がなく、投げ槍で重傷を負っていた。
こうして、特に名付けられるほどの戦いもなく若狭武田家本隊は壊滅した。壊滅させたその夜は達城に入った木下藤吉郎は、全軍の足回り、特に川に入った一鍬衆の足を医療隊に検査させ、凍傷などに気を付けさせたのであった。
翌睦月十一日(2月3日)、木下藤吉郎は坪坂新五郎に五百の兵をつけて達城に残し、残りの全軍は遠敷郡の後瀬山城に入れた。これは、一色家が白井光胤隊を排除し建部山城を首尾よく奪還したこと、若狭武田家は残党がいくらかいる以外は既に壊滅したことが明らかであったためでもあった。
後瀬山城に入った木下藤吉郎に逸見昌経と武藤友益が面会を求めてやってきた。正式に降伏する、恭順の意を伝えに来たのであった。木下藤吉郎に否もない、恭順を容れたが、二人とも姉小路家の制度についてはある程度知識があるらしく、国人衆を志願した。木下藤吉郎には処遇については何の権限もないため、処遇については草太の決裁事項であるため上申すると述べるにとどめた。取りあえず、逸見昌経と武藤友益には加佐郡の接収及び一色家への返還を命じたのであった。
それにしても、と木下藤吉郎は思った。この二人に対する調略といい、いつの間にかお膳立てが整えられていた。まるで自身の行動すら読み切られていたかのようであり、木下藤吉郎の行動そのものも姉小路家中枢部の指示に従った行動であったといわれても、何も知らず客観的な事実だけならば信じる程度には整合的であった。服部保長からの書状からも自身の行動が監視され読み切られているのが分かり、これは敵わぬな、と思わざるを得なかった。




