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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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百三十三、南近江侵攻へ


 姉小路家による越前、近江北部の平定の次第、そして北近江の浅井家との対決に六角家が浅井家側に付いた次第については既に述べた。

 つうの懐妊の知らせにより金沢城に戻り数日を過ごした草太であったが、政務もそれほど多くあるわけもなかった。

 既に若狭については木下藤吉郎の手により平定が終わり、事前の打ち合わせ通りに加佐郡を一色家に割譲することを条件に一色家との同盟、というよりも一色家の半従属も成り、内ケ島氏の移転を待って丹波攻略に取り掛かるとの報告も上げられており、この方面については草太はそれほど心配していなかった。如何に有力であるといえ、大部分は国人衆が自領を守っているだけの地であるため、姉小路家国人衆に組み込む形とするか、攻め潰すかは別として、手間はかかるが何とでもなる様に考えていた。

 更に越後長尾家が北信濃への侵攻の構えを崩しておらず、甲斐武田家も先日の戦で失った兵力の回復にはまだほど遠かった。このことから飛騨への侵攻は考えにくかった。


 足利将軍家にとっての至上命題は、京都の奪取であった。現状から最短では、琵琶湖西岸を通ればすぐにでも京都への道は開けた。しかし、草太はそれには反対であった。琵琶湖西岸は比叡山と結べば六角家にとってたやすく封鎖できる上、六角家の他三好、細川などの有力な戦国大名が周囲に多く、また石山本願寺や比叡山、東大寺、興福寺などの寺社勢力、堺の町衆などの町家勢力、更に根来衆、伊賀甲賀のような乱破、松永家、筒井家、柳生の庄などの戦国大名と呼ぶには小さいが特徴のある国人衆など複層的で複雑な権力構造があり、いずれも一筋縄ではいかないものばかりであった。

 草太は、少なくとも補給路を断たれないという観点から京都を制圧するためには南近江、そして比叡山延暦寺の攻略を欲していた。もっとも、比叡山延暦寺については敵対さえしなければ僧兵を取り除くだけで足りたが。


 琵琶湖の水運を使うにせよ、南近江の確保は京入りに必須と草太は考えていた。



 姉小路家日誌天文二十四年如月三日(1555年2月24日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、六角家を攻めんと欲し将軍足利義輝公に拝謁致し候。足利義輝公、当初難色を示すも既に敵対してあれば仕方なしとて六角攻めを許可し給いし。ただし、六角攻めのなった暁には京へ入ることを命じられ候」



 睦月晦日(2月21日)の評定により各地に後に地回りと呼ばれる自警団であり一般社会からはみ出した者を受け入れる組織を組織することに合意した草太であったが、それぞれの縄張り争いが起らぬように配慮したものとし、更に事あれば一鍬衆として人員を抽出できるように工夫させ、さらに女性についても扱いが悪くならないように配慮したものを要求した。これらの組織作りとして、城井弥太郎や沖島牛太郎の組織作りを大いに参考にしたのは言うまでもなく、また後の話ではあるが草太が六角家を倒した後には琵琶湖周辺の束ねは沖島牛太郎が就いた。京近辺を支配下に置いたころには城井弥太郎もそろそろ引退と言いはじめ、城井弥太郎の指名した後継者が次の代を継ぎ地回りの束ねとなったのであるが、それについてはまた後に語る機会があるだろう。

 飛騨の束ねは割合簡単に、大庄屋の五平に決まったが、能登、加賀、越中、北近江、若狭は既にある既得権益がかち合わないように、と細心の注意を払う必要があり、更に担当区域の分け方も束ねだけではなく街ごとにも必要であり、国人衆との兼ね合いもあり、中々厄介な仕事であった。これらが決着がつくまでには一年以上の時間がかかったのであるが、そのころには既に姉小路家は更に雄飛しており弥次郎兵衛の苦労もひとしおであった。


 如月二日(2月23日)には、午前の政務を行った後、午後に出立して山田光教寺に一泊した。残念ながら顕誓上人は越前を巡り若狭を巡っている最中であり、若狭が終わると北近江から南近江に足を延ばすと聞いて草太は、その情熱に感心した。翌三日(2月24日)朝に山田光教寺を出発した一行は、復旧というよりも新築中の吉崎御坊を見、働いている大工らを激励した後、門前町の賑わいを見せつつある様を見た。

 ふと思い立って一行を吉崎御坊に残して昼食をとらせ、ふらりと草太は平助のみを連れてその門前町を歩いていると市が立っていた。市を眺める、冷やかすというよりもその市に溶け込むように賑わいの一部となって歩いていると、草太は一軒の、というよりも筵一枚に商品を並べて売っている店の前で足を止めた。どうやら焼き物を売っている店であるらしかった。

 そのうちの一つの壺に目が留まり、手に持つと何とも言えない素朴な味わいのある壺であった。耳の二つ付いたいわゆる双耳壺そうじこであり、その何とも言えない素朴な味わいが気に入り値を聞くと二十文であった。草太は久しぶりに自分の巾着から銭を出してその壺を買い、後で取りに戻るからとまた賑わいの一部に戻り、しばらく行くと良い匂いがしていた。匂いの元は蕎麦餅の屋台であり、田楽とはまた違った形ではあるが溜り味噌を使った串焼きに仕立ててあり、所望すると一つ十文であった。食べてみると普通の蕎麦餅とは異なった味わいであり、聞くとヨモギが練り込んであるということであった。十文は他のものと比べてもかなり高かったが、ヨモギは邪気を払う縁起物であり、溜り味噌を塗って焼くという珍しさもあってかよく売れているようであった。

 簡単な長椅子に腰かけて餅を食べながら賑わいを眺め、門前町としてよく発展している、と草太は感じていた。




 関係のない話ではあるがこの草太が食べた蕎麦餅、そのヨモギを練り込んだ草餅仕立てにしたものに溜り味噌、後の醤油であるが、これを塗って焼くのは、実は作者の好物である。ヨモギを練り込んだいわゆる草餅であるが、歴史上に草餅自体が出てくるのは平安時代であるものの、その当時には草餅に練り込むのはヨモギではなくハハコグサという別のものが主流であった。ヨモギの草餅が主流になりハハコグサが見えなくなるのは江戸時代後期のことであり、

 関西で今日買おうと思うと大抵は小豆の餡入りの大福であり、個人的な嗜好としていうところの草餅を醤油を塗って焼き海苔を巻いて磯部にして食べる、という食べ方が中々できない。草餅の伸し餅も関西圏ではとんとお目にかからないものの一つである。サト○の切り餅に草餅があれば、と割と真剣に思うのである。

 ただし、草太のいる戦国時代にはまだ醤油もなく、海苔も今日見られる板海苔は江戸時代中期にならなければ登場しないため、磯部餅もない。割と好物なものが大抵はない、というのが、戦国時代に流された場合には絶対に寂しいと思う原因の最大のものであろう。

 戦国時代の食生活を思うと、やはり江戸時代という平和で豊かな時代がもたらしたと思われる食生活の向上は素晴らしいものだ、と思わざるを得ない。

 ところで草餅で磯部餅を作るのは子供時代からよく食べていたある意味定番の食べ方なのだが、磯部餅のレシピを見ても草餅を使うものはほとんど見当たらない。マイナーな食べ方なのだろうか。また磯部餅にする際には醤油だけではなく砂糖や酒を混ぜて塗るレシピが多いが、醤油だけで十分だと個人的には思っている。

 話が逸れた。




 ひとしきり門前町の賑わいを眺めた草太は忘れずに双耳壺を受け取り、その日の夕方には未だ東郷槇山城から動かない将軍足利義輝に拝謁した。六角攻め、そしてその後の南近江支配を認めさせるためであった。

「なに、六角家を攻め潰し、その後を姉小路家が治める、とな」

 将軍足利義輝は驚いたような声を上げた。近江の国は重要な国であり、それ故にこれまでは守護が二人いる国となっていた。北半分は京極家が、南半分は六角家が、それぞれ守護となっていた。現在の姉小路家は、飛騨国司として幕府の権威下ではないが、幕府の役職としては越中守護代、能登守護代、加賀守護、北近江守護、若狭守護代と非常に多数の役職を既に兼ねており、更に丹波も攻め落とし次第守護となることは内定していた。これ以上の姉小路家の伸長は望ましいものとはいえなかった。それに加えて、足利将軍家は六角家に一方ならぬ借りがあった。

「六角家は先の浅井攻めの際に、既に浅井家側に付き戦端を開いております。講和を、と望まれるのは分からないでもありませんが、我らとて戦を仕掛けられた身、何もなしでは講和は出来かねます」

 草太も、六角攻めは難色を示すだろう、とは考えていたが、それでも南近江の攻略は必須であった。

「何よりも、京へ上るためには、六角家は攻め潰さねば話が進みませぬ。丹波路で攻め上らせてはおりますが、こちらは時間もかかり、また街道の状況からも琵琶湖水運の利用という側面からも、京に入るには丹波路は望ましいとはいえませぬ」

 それでも難色を示す将軍足利義輝に対して草太は言った。

「いずれにせよ、我らはすでに合戦をした身。六角家は誰か適当な者に継がせて残すのも一つの手でございますが、我らは朝倉家に背後を突かれた先の戦、あの二の舞は御免でございます」

 この言が将軍足利義輝にどのように届いたかは分からないが、それでも草太の言いたいことは分からないでもなかった。朝倉家が背く、という点だけでも非常に信じがたかったが、六角家をそのままに京入りを目指した場合には六角家が背いた段階でまたあの時と同じような苦境に陥る可能性が非常に高かったうえ、琵琶湖水運自体も六角家の水軍に阻まれた場合には姉小路家には対抗手段がほとんどなかった。金沢から敦賀に展開している姉小路水軍をそのまま琵琶湖に入れるわけにはいかない為でもあった。



 最終的には将軍足利義輝には折れる以外の選択肢はなかった。現在の越前支配は姉小路家の力によるものであり、足利将軍家は越前支配はおろか姉小路家の伸長がなければ未だに朽木谷で欝々とした日々を過ごしている、その程度の力しかなかった。再興、復権を果たしたいのは事実であったが、そのための力は丹波路の地侍とさして違わない、というのが足利将軍家の偽らざる姿であり、姉小路家が平定したために越前支配を果たしたが、その越前支配も姉小路家の力がなければまだまだ内政すら手が足りなかった。この意味で、この時期の足利将軍家は姉小路家が存続させていたといっても間違いではなかった。そのことを良く知る細川藤孝も、どこかの時点で姉小路家の力からの脱却を図るべきだとは考えていたが、それは少なくとも数年後、姉小路家の力なしでも越前の支配に足るほどの力を持ってからであった。


「良い。許す。ただし六角家一門は我が幕臣に加えようと思う故、丁重に連れてまいる様に」

 六角家はどこかの時点で別の地を与えて再興させる、これが将軍足利義輝の最大限の譲歩であった。草太は、戦ゆえ約束は致しかねますが、と条件を付けた上で了承し、姉小路家本隊は六角攻めのための準備を本格化させたのであった。


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